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ベラ・ノッテ

作者: 猫小路葵

「それ」は、たいてい夜遅い時間にやってくる。

 最初の気配は、ごくかすかなものだ。

 それが一歩、また一歩と、日によって速度は違うが、確実にこちらへ近づいてくる。

 と言ってもそれは『あたしメリーさん』のような怖いモノではない。

 電話も鳴らなければ、人形の小さな足音が聞こえてくるわけでもないのだ。


「あ、来る……」


 桐人(きりひと)が呟いた。

 それはただ静かに、どちらかと言えば遠慮がちに、次第に影を濃くしてくる。

 やがて振り返ると、部屋のドア近くに「それ」――睡魔は立っていた。


「こんばんは、桐人」


 睡魔は桐人に笑いかけていた。

 桐人も「こんばんは」と笑い返した。

 睡魔の名前はノッテ。イタリア語で「夜」を意味する。

 桐人の意識は、早くもぼんやりと遠のき始めた。


「桐人、今日は昨日より遅いんだね」

「うん、ちょっと忙しかったからね」

「そろそろ寝ないと……明日も早いんでしょ?」


 睡魔が近くに来れば、人は眠くなる。

 それは当たり前の現象だ。避けようがない。けれど――


「眠りたくないよ」


 桐人がそんなわがままを言うと、睡魔は困った顔をした。


「また無理言って……」

「だって、こうやってノッテに会えても、すぐ寝ちゃうんじゃなんにもできない」


 桐人は、重くなるまぶたを無理にひらいて文句を言った。

 睡魔に罪はないし、クレームをつけても仕方ないのだけれど。

 そうしている間にも、桐人の意識はぐらぐらと均衡を失ってゆく。

 まぶたが下りようとするのをこらえるが、目に映る睡魔の顔は焦点が合いづらくなってきた。

 睡魔に向かって手を差し伸べる。

「おいで」と伸べた手に睡魔が歩み寄ってくる。

 朦朧とする頭を振って目を凝らし、ノッテの手を掴んで引き寄せた。


「桐人」


 ノッテの声が耳元で聞こえた。

 途端に強烈な引力が働いて、体ごと持っていかれそうになる。

 遠のく意識を奮い立たせて、桐人はノッテに「眠りたくない」と訴えた。

 願いとは裏腹に、眠気は急激に強くなる。

 ニンゲン風情がこうして睡魔に触れるだけでもありがたいと思え――そう言われそうだけど。


「ノッテ、もっと――」


 もっとノッテとしたいことが、たくさん、あるんだ――


 それはそんなに大それた望みかな?

 ノッテに触れて感じる体温は朝になっても覚えている。

 ノッテの感触もこの手に残っている。

 けれど欲しいのは、そんな虚しいだけの記憶じゃないんだ。

 桐人はまだ言葉を続けようとしたけれど、うまく声にならなかった。


 どんなに抗っても、所詮、人は無力だった。

 桐人の体から、ふうっと力が抜けていった。

 睡魔を抱きしめていたはずの桐人の体が、ずるずるとずり落ちる。

 最後には、逆に睡魔の腕に抱えられる格好になった。

 部屋の床にぺたんと座って、睡魔は桐人の寝顔を見た。

 健やかな寝息をたてて、桐人は睡魔の腕の中で眠っていた。


「寝落ち」


 そんな人間界のスラングでからかってみた。


「無防備なんだから……襲っちゃうぞ」


 桐人の肌が、眠りによって透明感を増して見える。

 天を仰ぐように反らせた首を、睡魔が腕に抱いていた。


「いっぱいあるよね……ふたりで一緒にしたいこと」


 睡魔が呟いて、桐人のまぶたに、そっと口づけを落とした。

 すると桐人の眠りは一段と深くなり、睡魔の腕の中の桐人が少し重くなった。

 襲うなんて強がってみたけれど、本当は桐人を襲うなんて睡魔には無理だった。

 人間はよく『睡魔に襲われる』なんて言うけれど、それは違う。

 睡魔と交わったりすれば人の眠りは深くなりすぎて、その人の心臓は止まってしまう。

 だから、肌に触れる以上のことはできなかった。


「いっそ人間になろうかな……なんてね」


 冗談めかした言葉の陰で、睡魔はやるせない気持ちで微笑んだ。

 睡魔は、しばし考える。

 言い伝えによれば、魔物が人になるには、体のどこかを差し出さなければならない。


「どこだっけ」


 睡魔は首を傾げた。


「声……いや、足?」


 覚えてないや。

 自分には関係ない話だと思ってたから――桐人に会うまでは。


 けれど、何を失うにせよ、実際にそうなったら桐人はどう思うだろう。

 声が出ない。あるいは歩けない。

 そんなのがいきなり「今日から人間になりました」なんて会いにきても、桐人はきっと困ってしまうだろう。


「参ったなあ」


 こういうの、人間界じゃ八方ふさがりって言うの?


「ね、桐人」


 ミケランジェロのピエタのように、桐人を腕に抱きながら、睡魔はそう呟いた。

 夜に溶けた桐人は、眠りの淵に沈んだまま、朝まで目をあけない。

 桐人をぎゅっと抱きしめて頬擦りをすると、桐人は睡魔の腕の中でまた少し重くなった。




 終


読んでくださってありがとうございます。

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