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ベラ・ノッテ

作者: 猫小路葵
掲載日:2025/09/07

「それ」は、たいてい夜遅い時間にやってくる。

 最初の気配は、ごくかすかなものだ。

 それが一歩、また一歩と、日によって速度は違うが、確実にこちらへ近づいてくる。

 と言ってもそれは『あたしメリーさん』のような怖いモノではない。

 電話も鳴らなければ、人形の小さな足音が聞こえてくるわけでもないのだ。


「あ、来る……」


 桐人(きりひと)が呟いた。

 それはただ静かに、どちらかと言えば遠慮がちに、次第に影を濃くしてくる。

 やがて振り返ると、部屋のドア近くに「それ」――睡魔は立っていた。


「こんばんは、桐人」


 睡魔は桐人に笑いかけていた。

 桐人も「こんばんは」と笑い返した。

 睡魔の名前はノッテ。イタリア語で「夜」を意味する。

 桐人の意識は、早くもぼんやりと遠のき始めた。


「桐人、今日は昨日より遅いんだね」

「うん、ちょっと忙しかったからね」

「そろそろ寝ないと……明日も早いんでしょ?」


 睡魔が近くに来れば、人は眠くなる。

 それは当たり前の現象だ。避けようがない。けれど――


「眠りたくないよ」


 桐人がそんなわがままを言うと、睡魔は困った顔をした。


「また無理言って……」

「だって、こうやってノッテに会えても、すぐ寝ちゃうんじゃなんにもできない」


 桐人は、重くなるまぶたを無理にひらいて文句を言った。

 睡魔に罪はないし、クレームをつけても仕方ないのだけれど。

 そうしている間にも、桐人の意識はぐらぐらと均衡を失ってゆく。

 まぶたが下りようとするのをこらえるが、目に映る睡魔の顔は焦点が合いづらくなってきた。

 睡魔に向かって手を差し伸べる。

「おいで」と伸べた手に睡魔が歩み寄ってくる。

 朦朧とする頭を振って目を凝らし、ノッテの手を掴んで引き寄せた。


「桐人」


 ノッテの声が耳元で聞こえた。

 途端に強烈な引力が働いて、体ごと持っていかれそうになる。

 遠のく意識を奮い立たせて、桐人はノッテに「眠りたくない」と訴えた。

 願いとは裏腹に、眠気は急激に強くなる。

 ニンゲン風情がこうして睡魔に触れるだけでもありがたいと思え――そう言われそうだけど。


「ノッテ、もっと――」


 もっとノッテとしたいことが、たくさん、あるんだ――


 それはそんなに大それた望みかな?

 ノッテに触れて感じる体温は朝になっても覚えている。

 ノッテの感触もこの手に残っている。

 けれど欲しいのは、そんな虚しいだけの記憶じゃないんだ。

 桐人はまだ言葉を続けようとしたけれど、うまく声にならなかった。


 どんなに抗っても、所詮、人は無力だった。

 桐人の体から、ふうっと力が抜けていった。

 睡魔を抱きしめていたはずの桐人の体が、ずるずるとずり落ちる。

 最後には、逆に睡魔の腕に抱えられる格好になった。

 部屋の床にぺたんと座って、睡魔は桐人の寝顔を見た。

 健やかな寝息をたてて、桐人は睡魔の腕の中で眠っていた。


「寝落ち」


 そんな人間界のスラングでからかってみた。


「無防備なんだから……襲っちゃうぞ」


 桐人の肌が、眠りによって透明感を増して見える。

 天を仰ぐように反らせた首を、睡魔が腕に抱いていた。


「いっぱいあるよね……ふたりで一緒にしたいこと」


 睡魔が呟いて、桐人のまぶたに、そっと口づけを落とした。

 すると桐人の眠りは一段と深くなり、睡魔の腕の中の桐人が少し重くなった。

 襲うなんて強がってみたけれど、本当は桐人を襲うなんて睡魔には無理だった。

 人間はよく『睡魔に襲われる』なんて言うけれど、それは違う。

 睡魔と交わったりすれば人の眠りは深くなりすぎて、その人の心臓は止まってしまう。

 だから、肌に触れる以上のことはできなかった。


「いっそ人間になろうかな……なんてね」


 冗談めかした言葉の陰で、睡魔はやるせない気持ちで微笑んだ。

 睡魔は、しばし考える。

 言い伝えによれば、魔物が人になるには、体のどこかを差し出さなければならない。


「どこだっけ」


 睡魔は首を傾げた。


「声……いや、足?」


 覚えてないや。

 自分には関係ない話だと思ってたから――桐人に会うまでは。


 けれど、何を失うにせよ、実際にそうなったら桐人はどう思うだろう。

 声が出ない。あるいは歩けない。

 そんなのがいきなり「今日から人間になりました」なんて会いにきても、桐人はきっと困ってしまうだろう。


「参ったなあ」


 こういうの、人間界じゃ八方ふさがりって言うの?


「ね、桐人」


 ミケランジェロのピエタのように、桐人を腕に抱きながら、睡魔はそう呟いた。

 夜に溶けた桐人は、眠りの淵に沈んだまま、朝まで目をあけない。

 桐人をぎゅっと抱きしめて頬擦りをすると、桐人は睡魔の腕の中でまた少し重くなった。




 終


読んでくださってありがとうございます。

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