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ヒーローの喪失

 3月14日、梨花が去った後の静寂は、涼太の心を重く押し潰した。頬に残る熱い痛みは、梨花の手の感触をまだ覚えていた。


 玄関に落ちたチョコレートケーキの紙袋を拾い上げ、涼太はぼんやりとそれを見つめた。梨花の涙、怒りの声が頭から離れない。


「梨花…俺、ほんと最低だ。」


 涼太は部屋に戻り、ベッドに崩れ落ちた。スマホの画面には、昨日から梨花が送った何十ものメッセージが並んでいる。


「涼太、どこ?」

「大丈夫?」

「何かあったなら話してよ」。


 一つ一つが、涼太の胸を突き刺した。返信しようと指が画面に触れる。でも、涼太は手を止めた。


「いや…このまま嫌われたほうが、梨花のためだ。」


 涼太の心は、梨花を遠ざける決意で固まっていた。彼女を愛しているからこそ、そばにいてはいけない。

 なぜなら、涼太は気づいてしまったから。「自分は、無意識に大切な人を傷つける存在だ」と。


 涼太には、たった一人のヒーローがいた。4つ上の兄、優太。国内2部リーグのサッカー選手だった優太は、誰もが知るようなスター選手ではなかったけど、涼太にとって何よりも眩しい存在だった。

 優太の試合を観に行くたび、ピッチを走る兄の背中が涼太の誇りだった。ゴールを決められなくても、優太はいつも笑っていた。


「涼太、どんな試合でも、最後まで走り切るのが大事だろ?」


 その言葉は、涼太の心に刻まれた。涼太自身も、サッカーが大好きだった。中学から高校2年まで、地元のクラブのユースチームでプレーしていた。


 守備的ミッドフィルダーとして、鋭いパスと粘り強い守備で、コーチからも「将来有望だ」と期待される選手だった。

 優太はそんな弟の試合をいつも観に来て、試合後に笑って言った。


「涼太、めっちゃ上手いじゃん! 俺、負けそうで怖いよ!」


 兄弟はピッチの外でも、いつもサッカーの話で盛り上がった。涼太にとって、優太はただの兄じゃなく、共に夢を追いかける仲間だった。


 でも、高校2年の冬、涼太のサッカー人生は終わった。練習中の激しい接触で、膝の半月板を損傷。手術後も痛みが消えず、医者からは「競技復帰は難しい」と言われた。

 ピッチに立てない日々が、涼太の心を暗くした。


 優太はそんな涼太を励ました。ある夜、二人がリビングで並んでいると、優太は真剣な目で言った。


「涼太、お前の夢、俺が背負うよ。俺がプロで活躍して、涼太の分までピッチ走るからさ。約束な!」


 涼太は涙をこらえ、頷いた。その日から、涼太は優太に自分の夢を託した。優太の試合を観るたび、涼太は自分の叶わなかった未来を兄貴に重ねた。


 優太もまた、涼太の存在を強く意識していた。弟の夢を背負う責任感が、優太をピッチで走らせ続けた。でも、その重圧が、優太の心を少しずつ蝕んでいた。


 優太の人生は、一つのPKで変わった。残留をかけた試合でのPK。優太のシュートはゴールポストを大きく外れ、チームは敗退した。

 ネットには誹謗中傷が溢れた。


「戦犯」

「引退しろ」

「価値なし」


 さらに、練習中の怪我で膝の靭帯を断裂。医者からは「選手生命は難しい」と言われた。

 ある夜、涼太がリビングで宿題をしていると、優太が弱々しい笑顔でやってきた。いつもなら冗談を言い合う兄貴が、その日は遠い目をしてぽつりと呟いた。


「俺、なんか疲れちゃったな。涼太…俺サッカー続けてていいのかな?」


 涼太は胸が締め付けられた。優太がそんな弱音を吐くなんて、初めてだった。涼太自身、怪我でサッカーを諦めた時の苦しみを覚えていた。

 だからこそ、兄貴にはピッチに立っていてほしかった。涼太の夢を、優太が叶えてくれると信じたかった。


 涼太は、良かれと思って、精一杯の声を絞り出した。


「何!? 言って!?弱音なんか兄貴に似合わないって!

 小さい頃ならプロで食ってくのが夢だったし、せっかくなれたんだから続けないともったいないって!大丈夫だよ!

 俺にとって兄貴はいつだってカッコいいヒーローだ。俺の分までプレー背負ってプレーしてくれてるんだから俺だってずっと応援するからさ!」


 優太は「あー、そうだな...」と笑った。でも、その笑顔は儚く、まるで無理やり貼り付けたみたいだった。

 涼太は気づかなかった。優太が求めていたのは、


「もう頑張らなくてもいいよ。」


 という言葉だったことを。涼太の存在、涼太の夢が、優太の心に重くのしかかっていたことを。


 数日後、優太からのメッセージに既読がつかなくなった。3月13日、涼太が不安に駆られて優太の部屋に駆けつけると、散らばった錠剤と、冷たくなった優太がいた。


 救急車が来た時、涼太はただ呆然と立ち尽くした。兄貴の笑顔が、もう二度と見られないなんて、信じられなかった。

 お通夜の日、涼太は気づいた。


「兄貴は、俺に助けを求めてた。『俺、なんか疲れちゃったな』って言った時、俺が『諦めるな』って励ましたかった…。

 でも、あの言葉が、兄貴を追い詰めた。俺の夢を背負わせたことが、兄貴を苦しめたんだ。」


 涼太の心は、罪悪感で埋め尽くされた。自分が良かれと思ってかけた言葉が、優太を傷つけた。無意識に、涼太は大切な人を壊してしまった。

 その日から、涼太の中で何かが変わった。人を傷つけるかもしれない自分。人と関わることが、怖くなった。


「俺は…無意識に人を傷つける存在なんだ。梨花のことも、いつかこうやって壊すのかもしれない。」


 優太の命日は、梨花との記念日と同じ3月13日だった。あの日、涼太は梨花との約束をすっぽかした。公園で待つ梨花のことを思い出し、スマホを開いた。メッセージを打ちかけた。

「ごめん、今日行けなくなった」って。


 でも、涼太は送信ボタンを押さなかった。梨花の笑顔が浮かぶたび、優太の儚い笑顔が重なった。


「梨花を幸せにできない。俺がそばにいたら、梨花も傷つくだけだ。このまま嫌われて、離れたほうがいい。」


 涼太は梨花のメッセージを無視した。翌日、梨花が家に来た時も、涼太は心を閉ざした。

 梨花の怒り、涙、叩かれた頬の痛みさえ、涼太には必要だった。梨花が自分を嫌い、離れていくための、罰だった。


 涼太は机の引き出しを開け、優太が昔くれたサッカーボールのキーホルダーを取り出した。

 優太が涼太のユース時代の試合後に、


「これ、俺のお守りな。お前にもやるよ」


 と笑って渡してくれたものだ。桜の花びらが窓の外で舞う中、涼太はそれを握りしめた。優太の笑顔、梨花の涙が、涼太の心を締め付けた。


「梨花…俺、ほんとバカだな。こんな俺でも、梨花のこと…まだ…。」


 涼太の呟きは、誰もいない部屋に溶けた。梨花を遠ざけたかった。でも、彼女の温もりが、涼太の心にまだ残っていた。

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