すれ違いの記念日
3月13日。高校3年の春、梨花と涼太の3回目の記念日。
駅前の小さな公園は、桜のつぼみがほころび始めたばかりで、春の柔らかな風が梨花の髪をそっと揺らしていた。
梨花はいつものベンチに座り、紙袋に入った手作りのチョコレートケーキを膝に置いていた。
毎年この日は、二人でケーキを食べ、夜桜を見に行ったり、ただ一緒にいるだけで幸せを感じる特別な日だった。
「涼太、遅いな…。何かあった?」
梨花はスマホを取り出し、時計を確認した。約束の時間からすでに30分が過ぎている。涼太はいつも時間に正確なタイプだったから、遅れるなんて珍しい。
梨花は軽い気持ちで「おーい、どこー?」とメッセージを送った。画面を見つめるが、既読マークはつかず、返信もない。少しだけ胸に不安がよぎったけど、梨花はそれを振り払った。
「きっと、電車が遅れたとかだよね。涼太だもん、ちゃんと来るよ。」
公園のベンチは冷たく、梨花はコートの襟を立てて身を縮めた。1時間、2時間が過ぎても、涼太の姿は現れなかった。
桜の木の下を通るカップルや、笑い合う学生たちの声が、梨花の孤独を一層際立たせた。スマホを握りしめ、何度も涼太の名前を呼びかけるように画面をタップしたが、返事はなかった。
「涼太…私、なんか悪いことした?」
梨花の声は、風にかき消された。胸の奥で、苛立ちと不安がぐるぐると渦を巻いていた。涼太は梨花にとって、ただの恋人じゃない。彼女の心の支えであり、暗い過去から救ってくれたヒーローだった。
小学生の頃、母親を亡くして孤独に震えていた梨花を、優しく包んでくれたのは涼太だった。
あの時の笑顔、あの温かい言葉が、梨花の全てだった。だからこそ、こんな大事な日に涼太が来ないなんて、信じられなかった。
夜9時を過ぎ、公園の街灯がぽつりと灯る頃、梨花はついに立ち上がった。ケーキの入った紙袋を握りしめ、冷え切った足を引きずるように駅へ向かった。
涼太の顔が脳裏に浮かぶたび、涙がこみ上げそうになるのを必死で堪えた。
「明日、ちゃんと話そう。涼太、絶対何か理由があるよね…。」
翌日、3月14日。梨花は我慢できなかった。朝から何度も涼太にメッセージを送ったが、既読すらつかない。学校は春休みで会うこともできず、梨花の心は限界だった。
いてもたってもいられず、梨花は涼太の家に向かった。涼太の家は、梨花の家からバスで20分ほどの住宅街にある。
見慣れた木造の一軒家に立つと、梨花は深呼吸してインターホンを押した。
しばらくして、ドアがゆっくり開いた。現れた涼太の姿に、梨花は息をのんだ。いつも整った髪は乱れ、目の下には濃いクマができていた。
まるで何日も眠っていないような、やつれた顔。梨花の胸がざわついた。
「涼太! 昨日、なんで来なかったの? 既読もつかない、連絡もない。私たちの大事な日だったよね!?」
梨花の声は、思わず大きくなった。涼太は一瞬目を伏せ、困ったような笑みを浮かべた。その表情が、梨花の不安をさらに煽った。
「うん、ごめんね。」
その一言。あまりにも軽いその言葉に、梨花の心がカッと熱くなった。涼太の声には、いつもの優しさも、梨花を気遣う温かさもなかった。まるで、他人に対するような淡々とした口調。
「なにその適当な態度!? 涼太、私のことどうでもいいってこと? 3年だよ、3年間、毎年この日を一緒に過ごしてきたよね!? なのに、なんで…なんでそんな顔で『ごめんね』だけなの!?」
梨花の声は震え、涙が頬を伝った。涼太の目が一瞬揺れた。梨花の言葉が彼の心に刺さったように見えた。でも、涼太は静かに、ゆっくりと言った。
「うん。なんか...別れたほうがいいかな、僕たち。」
その言葉は、梨花の頭を真っ白にした。時間が止まったように感じられ、目の前の涼太の姿がぼやけた。
別れる? 涼太が? 梨花のヒーローが、そんなことを言うなんて。
「…え、なに? 冗談、でしょ?」
梨花の声はか細く、信じられないという気持ちでいっぱいだった。涼太は目を逸らし、唇を軽く噛んだ。
その沈黙が、梨花の心をさらに締め付けた。怒りと悲しみが一気に溢れ、梨花の手は無意識に動いていた。
パンッ!
鋭い音が静かな住宅街に響いた。梨花の手が涼太の頬を叩いていた。涼太は顔を動かさず、ただじっと梨花を見つめた。その目には、梨花が知らない深い影があった。
梨花の胸は張り裂けそうだった。怒りが喉を焼き、悲しみが心を締め付けた。涙が止まらず、言葉が溢れ出した。
「涼太…どうして? なんでそんなこと言うの? 私にとって、涼太は…涼太は全部だったのに! 私なんかしちゃったの?ずっと心の底から愛してた、私の気持ち、こんな簡単に捨てられるの?」
梨花の声は嗚咽に変わり、膝が震えた。涼太の冷たい言葉が、彼女の心に突き刺さった。
あの優しかった涼太、梨花を孤独から救ってくれた涼太は、もうどこにもいない。梨花は紙袋を地面に落とし、涙で滲む視界の中、叫ぶように呟いた。
「こんなの…こんなの、涼太じゃないよ…。」
梨花は踵を返し、涼太の家を後にした。走りながら、涙が頬を濡らし続けた。叩いてしまった手のひらが熱く、胸の痛みが止まらなかった。
涼太の笑顔、初めて手を繋いだ日の温もり、すべてが遠ざかっていくようだった。
公園に落ちたチョコレートケーキの紙袋は、誰にも拾われることなく、夜の闇に溶けていった。