氷の王が眠る城
第九十二章:白き森の門番
峠を越えた私たちは、針葉樹が凍り付いた白い森へと足を踏み入れた。
樹氷は刃のように尖り、枝先で鈴のように氷片が触れ合って澄んだ音を奏でる。
その奥に、雪嶺の人々が“凍りつく城”と呼ぶ古い宮殿が眠っているという。
「氷の王は百年もの間、城に閉じこもり、冬を延ばし続けると言われています」
セラが手帖を開き、震える指で記述をなぞった。
「その心を溶かさぬ限り、雪嶺に春は来ない……」
「氷が溶ければ、精霊の水流も戻り、命を吸う霧も収まるはずだ」
エリオの言葉に、私たちは頷き合った。
森の奥へ進むうち、突如雪煙が舞い上がり、二頭の氷狼が姿を現した。
その毛並みは蒼い霜で覆われ、瞳は瑠璃のように輝いている。
「私が行く!」
ラティナが震える声で歌い出す――まだか細いが、凍雪を震わせる響き。
私は癒しの波を重ね、エリオが前へ躍り出て光壁を張った。
セラは素早く薬草粉を焚き、狼の鼻先に甘い香を漂わせる。
氷狼は一瞬動きを止め、蒼い目を細めた。
私はそっと手を伸ばし、額を撫でる。冷たい毛皮の下で鼓動が震え、敵意が雪解けのように静まっていく。
「通してくれる……?」
小さく囁くと、狼は低く鼻を鳴らし、森の奥へ道を開けた。
その背に残った霜が、朝日を受けて虹色に光る。
氷の王の城は近い。
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第九十三章:凍りつく城の大扉
白い森を抜けると、巨大な氷壁が現れた。
鏡のようになめらかな氷に、私たちの姿が小さく映る。中心には凍った蔓が絡みつき、扉を封じていた。
「この蔓、まるで心臓に巻き付く鎖みたい……」
ラティナが呟く。
私はそっと手をかざし、癒しの光を蔓に注ぐ。
しかし光は氷の奥へ届かず、表面で散った。
「王の心が、外からの温もりを拒んでいる」
エリオが歩み寄り、折れた杖――元術師が残した闇の杖の破片を取り出した。
「氷の王は痛みを凍らせた。ならば、痛みを知る杖の残滓を導にして、封を解けるかもしれない」
私は短く息を吸い、杖の破片に癒しを重ねた。
ラティナがかすかな歌を添え、セラが薬草の炎で霜を溶かす。
蔓の奥で、かすかな脈動が生まれた。
氷が微かに震え、扉の紋様が青白く光る――心臓が鼓動するように。
「開く……!」
蔓が音もなく崩れ、扉がゆっくりと割れた。
白い靄が流れ出し、冷気が頬を刺す。
暗い大広間。天井から氷柱が垂れ、中央には蒼い王座。
そこに、透き通るような白髪と銀鎧を纏った男が座していた。
目を閉じ、氷雪の華のように静かに眠る――氷の王だ。
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第九十四章:凍れる王の嘆き
近づくほど空気は重く、胸が痛むほど冷えた。
王の周囲には、割れた剣と壊れた盾が幾重にも凍り付いている。
――失われた戦士たちの証だろうか。
私は膝をつき、王の前で静かに囁いた。
「あなたは何を守ろうとして、心を閉ざしたの……?」
そのとき、王の睫が震え、瞳がわずかに開いた。
凍った湖の底のような蒼が、私を映す。
「……痛みを、凍らせるしか術がなかった」
声は風のように掠れて、なお凍える悲しみを宿す。
王が右手をわずかに動かすと、床の氷が波紋を描き、私たちの足元を凍りつかせた。
セラが盾となって立ち、薬草の霧で冷気を和らげる。
ラティナは震える喉で歌い、囁くような旋律を王に届けた。
私は癒しの光を重ね、エリオが杖の破片を掲げる――痛みを分かち合うために。
氷の王の瞳が揺れる。
「我は、仲間を失い、国を失くした……時間さえ凍れば、悲しみも凍ると思った。だが、痛みは内側で尖り続けた」
私はそっと王の手を取った。
「痛みを抱えたまま、生きることは苦しい。でも、それを抱いたまま誰かと手を取ることは、凍りついた心を溶かす唯一の炎になるの」
ラティナが一歩前へ進み、かすれ声で小さく歌った。
王の眉が震え、氷の花弁がはらはらと崩れ落ちる――春を求める花のように。
「……歌……久しぶりに、聞いた」
声は涙のように震えた。
王の胸の氷が微かに割れ、青い光が漏れる。
エリオがその光を杖の破片で導き、癒しの波に変えて放つ。
セラは薬草の香で包み、痛みを優しい記憶へと書き換える。
氷の王の肩の鎧が砕け、冷たい鎖が解け落ちた。
深い息を吐き、王は膝をついて頭を垂れる。
「……我を許せとは言わぬ。ただ、この国に春を……」
私は微笑んで首を振った。
「許しではなく、あなたと一緒に歩く未来を望むの。春は皆で迎えるものだから」
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第九十五章:白き城の解氷
王が腕を広げると、大広間の天窓が裂け、眩い陽光が差し込んだ。
氷柱が砕け、銀鎧が溶け、長く閉ざされた城に水音が満ちる。
外では雪雲が切れ、淡い陽が山肌を照らしていた。
氷狼たちが遠吠えを上げ、針葉樹の梢に小鳥が戻る。
雪嶺の人々が家の扉を開き、融ける雪を信じられない表情で見つめている。
私は王の手を取り、城の階段をゆっくりと下りた。
ラティナが高く澄んだ声で歌い、セラが薬草の香を焚き、エリオが光の道を示す。
春を告げる風が、白銀の大地を駆け抜けた。
氷の王は瞳を細め、その温もりを初めてのように確かめる。
「ようやく……長い冬が終わる」
その囁きに、私たちは深く息を吸い、大きく頷いた。
癒しの旅は、世界に季節を還す旅。
凍てついた心に春を呼び、乾いた大地に雨を降らせ、暗い森に星を灯す。
まだ見ぬ土地が、まだ癒えぬ痛みが、きっと遠くで私たちを待っている。
でも私は知っている。私たちが寄り添い合う限り――
どんな冬も、必ず春に続いている。