湿原の里の門
第八十二章:水上の家々
霧に包まれた湿原の縁には、小さな集落が杭の上に建てられていた。
木造の家は泥に沈む床下から水面を見下ろし、細い板張りの道が家々を結んでいる。
私とエリオは、抱えた女性とモコを連れて、ゆっくりと渡り廊下を進んだ。
水面を揺らす蟹のはぐれた足音、どこか遠くで水鳥が鳴く声。湿った空気は肌にまとわりつき、足裏に伝わる板の冷たさが心地よかった。
「ここが……湿原の里か」
エリオが息を吐く。私も深呼吸をして、胸に溜まっていた霧の重さを払い落とす。
――まずは、あの女性を助けなければ。
家の前に設けられた簡素な診療所に通されると、木の敷居をまたいだ先は静寂が支配していた。中央の火鉢がほのかに香りを漂わせ、薬草の匂いがやわらかく鼻をくすぐる。
「ご無事で何よりです」
細身の中年女性が膝に腰掛け、優しく頬に手を添えた。その手はあたたかく、湿原の冷気を逃がしてくれるようだった。
「あなたが、りめる様……?」
声は穏やかだが、目には緊張の色。どうやら、この里に外部の者が訪れるのは珍しいらしい。
「はい。森で見つけた方です。命を吸う霧に蝕まれていました」
私は抱えていた女性の顔を優しく起こし、安心させるように微笑んだ。
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第八十三章:湿原の守り手
「私はセラ。ここでは、薬草と歌で人を癒す者です」
セラは立ち上がると、足元に並べられた小壺と束ねた草花を取り出し、手際よく薬を練り始めた。
「この湿原の霧は、普通の病ではありません。水没した古の神木の精霊が、長い間怨念を抱いて沈んでいます。最近、人間が堤を破り、水路を変えたことで不安定になり、霧が毒化したのです」
彼女の手の動きは静かだが、言葉には確かな覚悟が宿っていた。
「この里では代々、歌を捧げることで精霊を宥めてきました。しかし、長らく歌い手が途絶え、精霊の怒りは深まったままです」
私はエリオと視線を交わす。ラティナの歌と同じように、湿原にも“歌”の力が必要なのだろう。
「まずは、この薬を」
セラは手早く軟膏を手に塗り込み、女性の額と手首に円形の紋様を描いた。淡い緑の光が薬に宿り、女性の頬に血色が戻っていく。
「息ができるようになったら、歌の準備をしましょう。夜明けの月明かりが精霊に届きます」
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第八十四章:歌の使者
夜が更けると、湿原は銀の霧に包まれた。
家々の明かりが水面に映り、揺れる。冷たい空気を切るように、遠くでセラの歌声が響き始める。
――ぽつん、と扉が開き、私は灯籠を手にラティナを迎えにいった。
彼女の目には、不安と決意が入り混じっている。
「ラティナちゃん。あなたの声が、湿原の精霊を癒す」
私はそっと彼女の肩に触れ、微笑みを送った。濡れた頬には、乾かぬ涙の痕。
エリオはその背後で、祭壇に用意された古い笛を手にしていた。
笛は湿原の木材で作られ、低く震える音を生むという。
セラの歌が終わると、村人と魔物たちが身を乗り出す。月明かりの中、ラティナは震える声で――
「……ぁ……ああ……」
薄く、かすかな声が湿原にこだまし、エリオが笛を吹き鳴らした。
その音色は、低く、悲しげで、しかし確かな希望を孕んでいた。
霧が一瞬、揺れる。
岩に刻まれた古い文様のように、静かに光が浮かび上がり、緑の靄を少しだけ晴れさせる。
「ありがとう……」
セラの目にも、うっすらと涙が光った。
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第八十五章:再生の朝
夜明けの光が湿原を染める頃、命を吸う霧は薄く流れ、わずかながらも青い空が見えた。
里の人々は互いを見つめ合い、魔物たちも尾根で静かに身を休めている。
私は崖の端に立ち、満ちてくる朝露を感じながら、そっとつぶやいた。
「霧の精霊が、また穏やかに眠ってくれますように」
ラティナは隣に立ち、静かに頷いた。
その目には、かすかながら確信の光が宿っている。
「りめるお姉ちゃん……私、また歌いたい」
私は深く息を吸い、頷いた。
「うん。次は、湿原の歌を一緒に――」
その声が、水面に重なった瞬間。
新たな希望の光が、湿原の朝を満たしていた。