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神聖かまってちゃん「夜のブランコ」のMV

 正直に言って、最近の神聖かまってちゃんは以前ほどのパワーがなくなっているように感じていた。しかし「夜のブランコ」はPVも含めて傑作だと思う。

 

 ただそうは言っても、神聖かまってちゃん、というかそのフロントマンである「の子」が以前から比べて大きくレベルアップしたわけではない。「夜のブランコ」は明らかにそれ以前の「ペルセウスの空」と類似の楽曲だし、表現しようとしている事も、楽曲も、大きく変化したというわけではない。ただ、そういう中でも変化を見つけるとしたら、それはPVだろう。

 

 神聖かまってちゃんのPVはの子の自作のものが多い。これら、の子のPVはいずれも素晴らしいものだが、ここで「素晴らしい」というのは、音楽が表現しようとしている事を映像が随伴できているかどうか、という意味においてだ。

 

 楽曲を作っているのがの子であり、映像を作るのもの子であるなら、映像が「素晴らしい」のは当然だ。の子の作る楽曲に、の子の作る映像がぴったりと来るのは当然すぎる話だ。

 

 の子がアマチュアからプロになって、の子の楽曲にプロの映像作家がPVを作る事も多くなった。私はそれらのほとんどを見ているが、プロの映像作家が作る映像はの子の作るPVに遥かに見劣りがする。

 

 特にひどいのが「光の言葉」で、「よくありそうなPV」という以上の印象を抱けなかった。全体的にプロの映像作家が作るPVは、「プロのやっつけ仕事」という感じで、の子の表現しようとしている事に全く映像がついていっていなかった。

 

 そういう中で私が感心したのは、少し前の作品「フロントメモリー feat. ACAね(ずっと真夜中でいいのに。)」のPVだ。

 

 このPVに私は素直に感心した。孤独な少女を描いたPVだが、ところどころで、神聖かまってちゃん自身の、生のバンドメンバーが顔を出す。これは、少女が孤独を慰めるために聴いている「神聖かまってちゃん」というバンドそれ自体を映像の中に閉じ込めた、という事だろう。

 

 「フロントメモリー」のPVが良いのは、終始、一人の少女しか描かれない事だ。彼女以外の他人が映像の中に出てこない。映像に出てくる他者は、メタな立ち位置にある「神聖かまってちゃん」というバンドだけだ。これは少女の孤独感を表すものとして、必要な効果を上げている。

 

 これを例えば、少女が誰かにラブレターを渡して断られるとか、そうした場面を挿入すると、この孤独感はまた違う種類のものになってしまう。

 

 突き詰めると、この孤独感はの子という個人が子供の頃から感じ続けてきたある自閉感にほかならないのだが、「フロントメモリー」のPVでは、の子の作った映像ではないにも関わらず、必要な事がうまく表現されていて、素直に良い映像だと思った。

 

 ※

 私は「夜のブランコ」のPVも素晴らしいと感じたのだが、調べると、「夜のブランコ」と「フロントメモリー」のPVはどちらもUUworksというところが作っているらしい。私はそれを知って、(なるほど)と思った。

 

 裏ではどうなっているか知らないが、の子は、自分の表現せんとする事をうまく映像化してくれる、良い相棒を手に入れたのだろう。もしかしたら裏ではの子が色々と指示を出しているのかもしれないが、私はの子が良い相棒を手に入れたように感じた。

 

 「夜のブランコ」は「フロントメモリー」と同じく、少女の孤独感を表している。

 

 ちなみに、の子が性別が男なのに、少女の姿を描く事が多いというのは、それほど気にする事ではないだろう。これは「大人になりきれない未熟な存在」がテーマとなっているからで、性別はそれほど重要ではない。どちらかと言うと女性のほうが弱さ、優しさ、儚さの印象が男性より強いから、の子が表現しようとしているイメージには少年よりも少女の方が合っているのかもしれない。

 

 「夜のブランコ」は東京の大都会の中を一人の少女がVRゴーグルをつけて歩きまわる、というものだ。ここでテーマとなっているのは少女の孤独感だ。

 

 VRゴーグルというのはうまい思いつきで、この最新のアイテムは、の子の精神状態をよく表している。

 

 少し話が飛ぶが、作家のドストエフスキーは、妻の名字を忘れたり、子供の名前を忘れたりするが、ディケンズの小説のキャラクターをまるで親友のように熱烈に語る人物だったらしい。

 

 私はこのエピソードを聞いて(そうか、やっぱりそういう人だったんだ)と思った。一般の人からすればへんてこに見えるだろうが、本物の芸術家というのは大抵このようなものだ。つまり、彼らは自らの夢の中を生きている。これらの人にとって現実とは二の次なのだ。

 

 そこから次のような歌詞も理解できるだろう。

 

 「せっかく嘘が羽ばたいていったのに/ほんとの夢は見たくないよ」

 (「夜のブランコ」より)

 

 の子は深刻ないじめを経験している。それをきっかけに、この世界に対する深刻な不信感を植え付けられた。

 

 世界に対する拒絶は芸術家に対して、絶望と希望を同時にもたらす。絶望は、彼が世界の中で居場所を持つことができない事。希望とは、世界とは違う居場所を作る能力を、世界から拒絶された事がきっかけとなって発現する事である。

 

 VRゴーグルをかけた少女は世界を生きていない。彼女は世界の中で自分の夢だけを見ている。それが最新のアイテムを使って表現されているが、芸術家とは昔からVRゴーグルのようなものをかけて、自分の夢想に浸っていたのであって、最新のテクノロジーはそれを目に見える形にしたものに過ぎない。

 

 上記引用した歌詞を見てみれば、「ほんとの夢は見たくないよ」という部分が特徴的だろう。これは、個人の夢に対比されるのが「現実」ではない、というの子の世界観を表している。

 

 VRゴーグルをかけた少女の「夢」と対になっているのは人々が形成している「現実」ではない。そうではなく、人々が見ているのも集団が見ているもうひとつの夢に過ぎない。これは哲学的にも正しい答えだが、そんな事を言ってみても仕方ないだろう。

 

 少女はVRゴーグルをかけたまま、買い物かごを押して、人だかりのど真ん中を歩いていく。周囲を歩く人は、へんてこな格好の少女を奇異に感じて振り返る。だが少女が見ているのが個人的な夢ならば、人々が見ているのも集団的な夢なのだ。

 

 そしてどちらも夢でしかないのなら、なぜ、我々は自分が愛する夢を取ってはいけないという理由があるだろう?

 

 …もちろん、このような選択は個人を狂気に陥れる可能性がある。芸術家が狂気とすれすれなのは、芸術家の見る夢が、理性の支えを失って妄想の方に倒れる可能性があるからだ。

 

 神聖かまってちゃんのの子は常に、自分の心象風景を追っている。追い続けている。それは世界から拒絶されたものが、世界よりも優れた夢を見ようとする努力に他ならない。

 

 「夜のブランコ」は豪奢なコーラスやオーケストラがつけられている。このパレードのような豪華さは、VRゴーグルをつけた少女が見る夢の豪華さであり、それは大きなハリボテのような、華やかで巨大なものだが、同時にそれは世界という「夢」の中では、なんの力もないなさけないものである事も同時に感じられている。

 

 だがそれでも、自らの夢を豪奢に飾る事によって、人々が見る夢を、個人が見る夢が越えていこうという志向性がそこには内在している。夢は華やかでなければならない。なぜなら、現実という名の夢、人々が見ようとする夢はいつもみすぼらしいものでしかないから。

 

 VRゴーグルをつけた少女は様々なところを歩くが、彼女に他人は存在しない。他人は群衆としてあるだけで、視界の中に映る少女はゴーグルの中に映る自分の「夢」を見ている。

 

 夢の中には、歌うペンギンや、羽の生えた猫や、巨大な人間がでてくる。この映像が秀逸なのは、これらのキャラクターがわざと、人工的な空気を纏っている為だ。どこか拙劣な一昔前のCGを思わせる。しかし映像としてはむしろそれによって、少女が見ている夢が、世界とどこかぎくしゃくする違和感がある事を示唆している。

 

 ※

 の子が、自らが見ている夢を相対化して表現するというのは、以前からあった事でそれほど驚く事ではない。ただ今回の曲でも、その夢ーーすなわち「の子」個人の夢が今もビビッドな形で存続している事が確認できた。

 

 そういう意味で「夜のブランコ」は優れた作品だと思う。また、映像の方でも、優れたPVがプロの方からも作られるようになった。これも良い事だと思う。

 

 最後に私自身の個人的な感想を言うならーーPVの途中で、少女がVRゴーグルをつけながら、図書館で本を広げて読んでいる姿はまさに"私そのもの"だと感じた。

 

 私もまた、学校という窮屈な組織の中では図書室に逃げ込んで一人本を読んでいた。友人はいない事もなかったが、心を通わていなかった。…というより、私が感じていたもの、私が闇の中でもがいていた事、そして今ももがき続けている事…これらすべてを共有できる"他者"がこの世界にはどこにもいないように感じていた。そう感じて生きてきた。

 

 私は本の中に他人を探そうとした。自分に近い他人を。そうして"それ"は思いもかけないところからやってきた。それが「神聖かまってちゃん」というバンドだった。

 

 私は神聖かまってちゃんの存在を知った時、の子という人物を知った時、(ああ、この世界には自分以外にも"人"がいた)と思った。私は人々の中にいて無人島でサバイバルしているような気持ちで生きていた。

 

 そんな神聖かまってちゃんの楽曲の映像の中に、私自身の原風景が刻印されていてもそれはおかしな事でもなんでもないだろう。それは「夜のブランコ」の中の、少女が図書館で一人で本を読んでいる姿だ。

 

 私は自分が少女でも何でもなく、既にくたびれた中年男になっているのに、VRゴーグルをつけて本を広げている、おそらくはモデルだかタレントだかの可愛らしい少女の姿に、過去の自分自身の幻影を発見したのだった。

 

 しかしこの発見が可能なのは、その作品の制作者が、私ではない「の子」という他者だからこそなのだ。自己が自己を再生産する事はできない。自己を発見する事が可能なのは、他者の中に限られている。私は、そんな風に「夜のブランコ」というPVを聴いた。

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