35 ハナビ
*
それは、どこかに置き忘れていた何かだった。
幾重にも重なったカーテンの奥、薄暗い引き出しの下、大雨の高架下。
怯えながらもどこか惹かれるその場所に、吸い込まれていく感覚。
僕はこの場所を知っていた。
*
その日は、朝から大雨だった。
靴をびしょびしょにしながら小学校に登校した。
学校は薄暗くて、なんだか夜の学校にいるみたいだった。
いつもと違うクラスの雰囲気に、みんなどこか高揚していた。
かく云う僕も例外ではなく、異常な大雨と夜の教室に興奮していた。
だから、すっかり忘れてしまっていたのだ。
お昼になっても雨は止むどころか、さらにひどくなった。
四時間目の授業は自習になり、先生たちは何やら慌ただしく走り回っていた。
普段廊下を走っていたら注意してくる先生たちが走って集まっている。
僕たちはその異常性にますます喜んだ。
給食の前に、先生は僕たちを席に座らせた。
「今から下校してもらいます。保護者の方には連絡していますので、体育館で待っているように。」
と先生は言った。
過去でも類を見ないほどの大雨が発生しており、急ぎ帰宅の指示が出たとのことだった。
僕たちは言われた通り体育館で座って、親の迎えを待っていた。
友人たちの親がポツポツと現れ始め、徐々に減っていった。
やがてほとんど人がいなくなり、ぼんやりと天井を眺めていたとき、声が聞こえた。
「ヤナギン」
話しかけてきたのは、水鳥だった。
辺りには、もう僕と水鳥しかいなかった。
「ハナビが」
その名前を聞いたとき、ハッとなった。
ハナビ。
それは、犬の名前だった。
白い犬の名前。
ハナビは、家の近くの川にある高架下で見つけた迷子の犬だ。
餌をあげると、僕らを覚えて懐くようになった。
しかし、どれだけ懐いても高架下から出ることはなかった。
「ハナビが溺れて死んじゃう。」
水鳥は半泣きでそう言った。
体育館の外を見ると、横殴りの雨が波状になって校舎を叩きつけていた。
「水鳥、ここで待ってろ。」
僕はランドセルを置いて、体育館の外に出た。
なんで気づかなかったんだ。
自分の愚かさに腹が立った。
ハナビはこれまで高架下から出ようとしなかった。
もしこの大雨で川が氾濫していたら。
水鳥の言う通り、ハナビが流されてしまう。
シューズのまま飛び出すと、水しぶきが顔にぶつかる。
まるで水の中にいるみたいだ。
「ヤナギンー!!」
大雨の中を走っていると、背後から声が聞こえる。
振り向くと、水鳥もびしょ濡れになって追いかけてきていた。
「おい!待ってろって言っただろ!」
ヤダ、と水鳥は言って走るのをやめない。
僕はスピードを緩めず川へ向かった。
僕と水鳥はやっとの思いで近所の河川敷にたどり着いた。
しかし、状況は最悪だった。
川は氾濫していた。
普段は膝下くらいしかない水量が、今にも溢れそうなほど増していた。
いつもハナビがいる高架下は、水で埋め尽くされて消えていた。
水流の音さえ消すほどの大粒の雨が僕の全身を叩く。
息を切らせながらハナビを探した。
「ハナビー!!」
叫んだ声は水に吸収されていく。
そのとき、僕の叫びに応えるように、短い遠吠えが聞こえた気がした。
「今の・・・!」
必死に首を振ると、川の水の中で、白い物体が浮かんだり沈んだりしているのが見えた。
「ハナビ!!」
ハナビが、川に流されていた。
急いで下流に向かって走る。
流されるハナビは、今飛び込めば間に合いそうな距離にいた。
僕は濁流に飛び込む決意をする。
「待って!!」
水鳥が僕の動きを察したのか、腕を掴んだ。
「まさか、飛び込む気!?」
「ハナビを助ける!」
「無理だよ!こんな川!ヤナギンも溺れちゃう!!」
水鳥が口を歪めて叫ぶ。
僕は水鳥の手を払って叫んだ。
「水鳥、ここで待ってろ。絶対助ける!」
今思えば、無茶なことをしたと思う。
氾濫した川に飛び込むなんて自殺行為だ。
よく助かったものだと、今でも不思議に思う。
しかし当時のことはよく覚えていない。
意識が戻ると、僕は家にいて、ハナビも保護されていた。
僕とハナビは奇跡的に打ち上げられて、助かったのだそうだ。
*
七月二十三日月曜日
僕と水鳥は河川敷にきていた。
今日は珍しく水鳥と一緒にお昼ご飯を食べた。
一緒に食べないかと誘われたのだ。
お弁当を食べる場所として連れて行かれたのが、この河川敷だった。
「こんなとこまで来たから、午後の授業遅れちゃうね。」
ごめんね、と水鳥は申し訳なさそうに言う。
「なんか、授業って間に合わないとわかるといきなり出たくなくなるよな。」
昼休みは、とっくに終わっていた。
「ねえ、ヤナギン、もう今日さ、授業全部サボっちゃおうよ。」
授業どころじゃないよ、と水鳥は言う。
「珍しいな、水鳥がサボりなんて。水鳥風紀委員。」
「もともと私は風紀委員なんてやる気なかったのよ。成績がクラスで一番良かったから押しつけられただけ。」
ぷいと顔を背ける。
頬を膨らませた表情は、なんだかとても幼く見えた。
この見た目でクラスで一番の成績とは、なかなかのギャップである。
見た目は子供、頭脳は大人。どこぞの名探偵のようだ。
「それにしても、久しぶりにきたなあ。」
水鳥は両手を目一杯上げて背伸びをした。
「僕も久しぶりにきた。小学生以来?」
高校生になってからは一回も来ていなかったが、小学生の頃は、よく来ていた。
「一緒にここに来てたもんね。」
水鳥と一華、三人でよくここに来ていた。
「ああ、懐かしい。」
まだ高い太陽が、川を照り付けている。
太陽光が反射して、キラキラ光っている。
「ハナビ」
と水鳥が小さく呟く。
「また会いたいな、ハナビに」
僕と水鳥は、小学生の頃、河川敷でハナビという犬を飼っていた。
飼っていた、とは言えないのかもしれない。
毎日水鳥と二人で河川敷に行くと、ハナビはいつも待っていた。
真っ白な中型犬だった。
今思えばあの場所に捨てられて、飼い主を待っていたのかもしれない。
「頭よかったよね、ハナビ」
僕たちは給食の残りを持って、毎日ハナビに会いに行っていた。
「ランドセルの中にパンが入ってたら、すぐ気づいたもんな。」
賢い犬だった。
「ご飯あげたら、ハナビが草で歯磨きしてたの、覚えてる?」
「こんなに頭のいい犬がいるのかって、小学生ながらに衝撃を覚えたよ。」
河川敷の、集まった細長い草が、風に揺られて傾いている。
全員でお辞儀しているみたいだ。
「・・・暑いね。」
河川敷に来ると、夏が来た気分になる。
学校より涼しいのに、なぜだろうか。
「・・・ヤナギン。」
小学生の頃からのあだ名で、水鳥は僕の名前を呼ぶ。
「夜までここにいない?」
水鳥の姿は、まるで小学生の頃から変わっていないように見えた。
「一華を迎えに行かないと。」
僕は答える。
「ヤナギンはこのまま行ったら、また死ぬ。」
水鳥の小さい肩が震える。
「お前さ、昔、僕のこと助けてくれたんだよな。」
大洪水の川に飛び込んだ小学生が、無事な訳が無い。
「また助けようとしてるんだよな。」
タイムリープ。
過去に戻る力。
それは、未来を見ることができる力とも言える。
その記憶は、なんとなく僕の中にも残っていた。
記憶ほど鮮明ではないが、デジャブみたいなぼんやりとした感覚がある。
この後、僕は一華を助ける。
僕が行かないと、一華が死んでしまうのがなんとなくわかる。
「何回もタイムリープしてるのか。」
ゆっくりと水鳥が振り向いた。
水鳥は、泣いていた。
大きな水滴が、頬を伝う。
声も上げずに、水だけが大きな瞳から溢れ続けている。
「何回どころじゃない。」
強く風が吹いた。
細い草が、噂をするみたいにさわさわと音をたてている。
「もう百回以上した。」
ぐにゃりと水鳥の口がへの字に曲がる。
「何回戻っても、ヤナギンは死んじゃう。」
ダムが決壊したみたいに涙がこぼれる。
「だから。」
水鳥は目を真っ赤にして僕に言う。
「一華ちゃんを助けないで。」
僕は目を瞑る。
百回を超えるタイムリープ。
その全てで僕は死んだ。
僕の死を何回も何回も目の当たりにしたのだ。
その辛さは、僕には到底理解できない。
きっと苦しかっただろう。
やめたくなったかもしれない。
でも、水鳥はまたタイムリープした。
僕に、一華を助けないでと伝えるためにタイムリープした。
水鳥は一華は昔から仲がいい。
一華を見殺しにすることを選ぶことに、どれだけの覚悟が必要だっただろう。
僕は水鳥に近づいて、頭を撫でた。
腰に手を回して、抱き寄せる。
小さい。
水鳥の身長は、明らかに先日会ったときよりも縮んでいた。
顔も幼くなって、まるで小学生のような風貌になっている。
鈍感な僕でも、成長が逆行している———退行していることは気づいた。
「水鳥、いつもごめんな。」
胸の中で、水鳥のすすり泣きが聞こえる。
「水鳥には迷惑かけてばっかりだな。」
水鳥は顔を埋めて何かを言っている。
言葉にならず、なんと言っているかはわからない。
「でも助けるよ。」
向こうには、橋がある。その下に、ハナビはもういない。
「もしかしたら、一華が二人いるのはおかしいことなのかもしれない。でも、一人とか二人とか関係ないんだ。あいつらは二人とも妹なんだ。たった二人の家族なんだ。」
「ヤナギン・・・」
「必ず助ける。ごめん、僕頭が悪いから、水鳥みたいにうまくはできないかもしれないけど。でも、助ける。僕ができるやり方で、一華を助けようと思う。」
「・・・」
ゆっくりと身体を離す。
水鳥は俯いたまま、崩れ落ちた。
慌てて身体を支える。
水鳥の体は軽くて、手を添えただけで持ち上がりそうだ。
僕が手を添えても、水鳥は立とうとしなかった。
河川敷の斜面に座らせて、僕は学校の方に歩き出す。
僕は大きく息を吸い込んだ。
「————当然お前も助けるからな。水鳥。」
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