29 【時間退行】
*
それは、どこかに置き忘れていた何かだった。
幾重にも重なったカーテンの奥、薄暗い引き出しの下、大雨の高架下。
怯えながらもどこか惹かれるその場所に、吸い込まれていく感覚。
深く、深く、潜っていく。
水中を潜っていった先に待っていたのは、海底ではなく、水面だった。
水面から顔を出し、大きく息を吸い込む。
快晴だった。
雲は一つもなく、風もない。
足を伸ばすと、底に足がつくのがわかった。
立ち上がると、水位は腰の辺りだった。
角を削られて丸くなった石たちが思い思いに寝そべっている。
丸石の間から尖った草が突き刺さり、太陽に手を伸ばしている。
河からあがると、誰かの足音が聞こえた。
「お兄ちゃん!」
僕を呼んだのは妹だと気づく。
「何してるの?こけて落っこちちゃった?」
イタズラな笑みを浮かべている。
一華はランドセルを背負っている。小学一年生だ。
「一華ちゃん、ヤナギン〜」
遠くで手を振っているのは水鳥だった。
「ヒナちゃん!お兄ちゃんいた!」
水鳥が走ってくる。
「ハナビもいるよ〜」
水鳥と競争するように走ってきたのは、大きな白い犬だった。
ハナビだ。
随分と久しぶりにあった気がする。
ハナビは、僕と水鳥と一華が三人で見つけた、迷子の犬だ。
高架下で震えているところを見つけ、それから餌をあげによく通うようになった。
ハナビはもともとどこかで飼われていたのか、野良犬かわからない。
しかし、ハナビは高架下から動こうとせず、誰かを待っているように見えた。
捨てられたのかもしれない。と僕たちは話した。
それを知らず、飼い主を待ち続けている。
小学生の僕たちはそう決めつけ、ハナビが動かない高架下のこの場所で飼うことにした。
「ハナビ、ほら」
水鳥が給食のパンをハナビにあげている。
ハナビは嬉しそうにパンを頬張った。
「美味しいね〜ハナビ」
ハナビという名前は、一華がつけた。
「ヤナギン、川で何してたの?」
水鳥が尋ねる。
僕は何をしていたのだろう?
記憶が曖昧で、思い出せない。
「お兄ちゃん?」
ぼうっと立ったままの僕を見て、不思議そうに一華が首を傾げる。
一華?
何か大切なことを忘れている気がする。
そのとき視界が傾いて、空が反転する。
水の中に頭から落ちて、呼吸ができなくなる。
何も聞こえない。
何も聞こえなくなった。
*
目覚めると、夜空があった。
遠近感覚のない黒い画用紙に、赤、黄色、青の点が瞬いている。
とても長い夢を見ていた気がする。
頭が痛い。
どうやら僕は外にいるようだった。
加えて地面は硬い。アスファルトの上に寝ていたようだった。
撫でるような柔らかい風が吹いて、体を震わせる。肌寒い。
首を持ち上げる。
寝転んでいた足元に、小さな影があった。
足元に誰かがいて、座っていた。
暗闇の中で目が合う。
暗くて顔は見えなかったが、誰だかすぐにわかった。
「水鳥。」
水鳥が息を飲むのが分かった。
その名前を呼んだ瞬間、全てを思い出した。
一華がトラックに轢かれた。
両足が砕けてへの字になっていた。
血溜まりができて制服を赤く染めていた。
呼吸は小さく、何かを伝えんと乾いた唇だけが動いていた。
素人の僕でもわかった。
一華は助からないだろう。
「水鳥・・・」
自分が今どこにいるのか、なぜここにいるのか、水鳥がなぜいるのか。
一つもわからないし、興味もなかった。
絶望と喪失感に襲われて、身体中から力が抜けていく。
「水鳥、一華が。」
呼吸が早くなっているのがわかる。
何から話していいのかわからず、言葉が続かない。
気づくと、言葉の代わりに涙をこぼしていた。
壊れた給水機のように、水が吹き出してくる。
嗚咽が止まらなくなって息ができない。
そんな僕の状態をわかっているかのように、水鳥は僕を抱きしめた。
水鳥は震えていた。
水鳥は僕の耳元で力強くささやく。
「一華ちゃんを助けよう。」
水鳥に触れようとしたとき、掌に血がべったりついていることに気づいた。
気づくと、水鳥の制服も血塗れである。
「私の能力をヤナギンに教える。」
水鳥は僕の肩を掴んで、正面で向き合った。
鼻がくっつきそうな距離だ。
辺りの暗さに目が慣れてきて、自分が今どこにいるかわかってきた。
事故があった交差点の近くの歩道だ。
あのとき、トラックの後からも車が何台も突っ込んできて———
気がついたら、水鳥がいた。
辺りは静かで、車も人も、家で寝ている。
夜空の星に負けないくらい、水鳥の目は輝いていた。
一華を助けると言った。
それは希望の光だったのかもしれないし———
あるいは、涙で光っていたのかもしれない。
「私の能力は【時間退行】」
二ヶ月前なら絶対に信じなかったであろう、その告白は、僕の脳に徐々に血を巡らせていく。
「諦めたくない。」
肩を掴む小さな手に力が入る。
震える声で、水鳥は言った。
「タイムリープして、一華ちゃんを助ける。」
*
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