第二節 生きてさえいればいい ー求職ー
ハンガンは、覚悟を決めていた。
森から出て仲間と別れた日から、御山宗家管轄の『本山の道』、商人職人街と農民との境の通りに来ていた。
森から出たらどう生きていくのかずっと思案していたが、おやじ殿はあるとき自分にそっと耳打ちした。
「お前は、『王の腹』の出身だ。それしかわからない。どこの郷かも今は覚えていない。許してくれ」
おやじ殿は言った。
そのことで自分は地主に雇ってもらい農作業をしようと腹を決めていた。
もともと身体を動かすことの方が性に合っている。
自分の出自がそうならそれをやればよい。自分だけならなんとでもなる。
あれこれ考えるよりまずは働くとあっさり決めた。
チマナとシ―ナは女の身一つで生き抜ぬかねばならない。
チマナは機転が利くが、シ―ナはいつも誰かに守られてきた。
同い年であるが、これまで兄のような気持ちでシ―ナを守ってきた。
チマナとシ―ナが怖い想いをしていないかそればかりが心配で、ふと気付くと二人のことを考えていた。
数日食べなくても木の下で眠ることになっても大丈夫だ…
覚悟を決め通りを行く人々をのんびりと眺めてから、ハンガンは広がる田畑に向かって歩き出し地主の家であろう大きな家を探した。
何軒も立ち並ぶ小屋のような家々から離れて大きな家がある。
おそらくそこが地主の家だろう。
田畑の遠く先には、掘っ立て小屋のようなみすぼらしい家がたくさん小さく見える。
深い森で育った六人は、目がいい。かなり遠くまで鮮明に見える。
遠い田畑に見え隠れする人々は、ずっと中腰か低い姿勢で作業をし続けている。
ハンガンは地主の家らしい大きな構えの家を目指して足早に歩きだした。
地主の家の門に近づくと、数人の男たちが初老の男を前にして話を聞いていた。
一様にうなだれ、話す初老の男も渋い顔をしている。どうやら深刻な話のようだ。
ハンガンは、意を決して門をくぐり声をかけた。
「こんにちは」
初老の男とその前にひざまずく男達は一斉にハンガンを見た。
「なんだ、お前は」
初老の男が、ハンガンを軽くにらみつけ低い声で言った。
「ハンガンと言います。仕事を探しています。農作業をやりたくて」
ハンガンが言い終わらないうちに「ない。仕事は一つもない」と初老の男は吐き捨てるように言った。
「わかりました。失礼しました」
ハンガンは踵を返した。
その背中に向かい「お前のような大男の食い扶持を満たせるほどの仕事などいまはどこへいってもねぇ。今年は凶作だ。悪いことは言わねぇからほかの仕事を探せ」男は言った。
ハンガンは歩きながら、凶作ということはいま農夫になることはできない、ひとまず違う仕事を探すしかないだろうと考えた。
とぼとぼとあてもなく歩いているうちに、人通りの多い道に出ていた。
ハンガンの彫りの深い顔立ちとそれに似合わぬぼろ服の取り合わせは、道行く人の関心を引くようで露骨にじーっと見つめる男や中年の女がいた。
この通りは街あいの者たちが主に使っているらしく、足取りも軽く服もしゃれていた。
ひざ丈まである貫頭衣は、腹のところで胴衣とは色違いの紐で結ばれ、袖も先の方がゆったりと広がって風に揺れて美しい。農夫たちの泥に塗れ灰色のそれとは明らかに違っていた。
これまでの森での生活では、バンナイと母さんのサナ、そして自分達六人それ以外の人間を目にすることはなかった。
ハンガンは木陰に入り切り株を見つけて腰かけると、ぼんやり人の姿や人の流れを飽きることなく眺めていた。
すると、ガラゴロガラゴロと音がいくつも聞こえてきた。
それが何なのかハンガンは立ち上がって目を凝らした。
得体のしれないものをいくつも引く集団が小さく見えた。
馬はそれぞれ布を被せた大きな荷を引いており、荷を乗せた物には丸型のものがくるくると回っていた。
ハンガンは以前バンナイが教えてくれた荷車だと思った。
荷の四隅にそれぞれ人がついていて、人々は皆軽装で快活に話しながら進んでいるように見えた。
これは商人の隊列だなと察し、ハンガンはその隊列が近づいてくるのをしばらく見ていた。
「ガッタン」
大きな音がしたかと思うと、一番重そうな大きな荷を積んだ荷車が横倒しになった。
ハチの巣をつついたように大慌てで荷車に人が集まってきた。
どうやら、道のわきにあった溝に車輪がすっぽり丸ごと嵌っているようだった。
それぞれの荷車についていた人々が倒れた荷車に集まって話し合いが始まり、もとに戻すのにいろんな案を出すが一向にまとまる気配がない。統率者が頭を抱えていた。
あまり旅慣れていない商隊なのだろうか。
ハンガンは見かねて、そばにあった先のとがった丸太を持ってつかつかと騒動の渦中に歩み寄った。
商人と思しき人々は一瞬身構えたが、ハンガンが丸太を担いで頭を下げにこりと笑うと商人たちは安心したように構えを解いた。
ハンガンは穏やかさがそのまま顔に表れているような人間で、めったに怒ったことがなかった。
誰を疑うこともない生活の中で、人のために自分が動くことを厭わない優しい人間に育っていた。
だからヤシマを除く四人からはいつも頼られ頼まれ事も多いが断ることはめったになかった。
にこりと笑うことはハンガンの日常だったのだ。
ここでもその雰囲気や所作から警戒は簡単に解かれ、ハンガンは車のそばに行くことができた。
どうやら馬引きが道幅の変化に気付かず、荷についていた人物たちも話に興じていたため脱輪したようだ。
ハンガンは大きな石を二つ探すとそれぞれ溝に嵌った車のすぐ近くに置き、縄がないかと問い借りた。
そして落ちた反対側に二手に人員を分け、それぞれ紐の先を持たせるとその輪を荷にかけた。
さらに丸太の先端を車の後ろから突っ込み、丸太の中央に石を置いて反対側に力をかけ「縄を引っ張って」と指示すると車が少し浮き上がった。
同時に「浮いたところに大きな石を噛ませて」とハンガンは声をかけた。
男たちが浮いた車輪の下に石をかませた。
もう一方も同様にして、それを何回か繰り返すうちに徐々に荷車は水平になっていった。
そして皆が一斉に荷車を道に沿う方向に押すと、とうとう荷車は溝から脱出することができた。
すると皆から安堵の拍手が沸き起こった。
拍手の先にはハンガンがいた。
人々がそれぞれの荷車に戻り行列が動く準備に取り掛かると、その隙をみてハンガンは素早くその場を離れ、木陰から林に入っていった。
商隊の人々が、力持ちの青年が消えていることに気が付くまでほんのわずかな時間だった。