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「ほら、とっとと起きるっすよ」
東の空から朝日が昇り始めたばかりの早朝、バーカウンターで突っ伏して眠っている男を女が体を揺すって起こそうとしていた。
「んん……」
「神父さん、もう朝っすよ。いい加減帰ってください。そろそろ眠らせてくださいっす」
神父服を着たまま眠りこけているその男の体を揺すりながら、女は声を掛け続けた。店はとうに閉店を迎えており、最後の客であるこの男さえ帰せばようやく眠ることができるのだ。だから、女はなんとしてもこの男を店から追い出そうとしていた。
「んん……もう少し……」
「何がもう少しっすか! いい加減に帰るっす!」
男の寝言に女は怒りを露わにしながら更に体を揺すり続けた。激しい揺れがしばらく続いたせいか、男も流石に根負けして体を起こして、大きく欠伸をしながら言った。
「何だよミーシャ。せっかく気持ちよく寝てたのに……」
「うちはとっくに店仕舞いなんです! これから寝るんすから早く帰ってくださいっす!」
「んん……しょうがねえなぁ……」
「しょうがないのはこっちのセリフっす! そっちだって朝の御勤めがあるんっすよね! さっさと帰ってくださいっす!」
ミーシャが怒鳴ると、男はのっそりと椅子から降りて大きく伸びをした。歳のころは三十前後、口元には無精髭が伸びており、黒い髪も寝癖でボサボサになっていた。
身長は百八十後半ぐらいあり、神父服に身を包んでいるが、その神父服も長い間きちんと洗濯されておらずずっと着たきりだったために、だいぶくたびれていた。
「じゃあミーシャ、また来るから」
「ちょっとちょっと! お代をまだ貰ってないっすよ!」
「ツケにしておいてくれ」
「またっすかー? いい加減、そろそろ教会へ取り立てに行くっすよ」
「ああ、どうせ俺とシスター一人しかいない教会だ。いつでも遊びに来てくれ。どうせなら、お布施もしていただけるとありがたい」
「何でツケを回収しに行くこっちが金を払うんすか! 本当に教会へ行って金目のものを売り払うっすからね!」
ミーシャは怒りながら店の奥へと消えていき、男はその姿を見送った後、店を出て自身の教会へ向かって大通りを歩きはじめた。
まだ暗さの残る時間だったが、それでも働き始めている者たちがいた。朝早くからたくさんの荷物を荷台に乗せて各商店へ運んでいた。慌ただしく働く人たちの流れの中を、眠気を隠さないまま逆らって歩いていく。
やがて、大通りを外れて一本の脇道の中へ入っていく。そこはまだ陽の光が差し込んでいないため夜のように暗く、陰気で薄寒い場所だった。
ここは街の住人も普通では足を踏み入れない。ここから先はスラムへ通じており、犯罪者及び犯罪者予備軍、ホームレスなどの巣窟であり、下手に踏み込んだらどんな目に遭うかわからない。法ではなくスラムの掟が支配する世界、そこで行方不明になったら二度と見つかることはない。
男はそんなスラムの中を悠々と歩いていた。時折すれ違う男たちから鋭い視線を向けられるが、それらを全く意に介さなかった。脇道をまっすぐ進んでいくと、開けた場所に出た。そこには小さな広場と古びた一軒の教会があった。
「ただいま」
教会の扉を開いて中に入ると、箒を持った仁王立ちのシスターがいた。男はそのシスターの姿を見て、思わず一歩後ずさってしまった。
「お、おはよう?」
「おはようじゃねえ! また朝帰りしやがって!」
シスター服に身を包んだ少女は、およそシスターとは思えない言葉遣いで男に怒鳴り散らした。怒鳴られた男は思わず目を閉じて体をすくませた。
「い、いや……ちょっと飲み過ぎてな……」
「だからって毎日朝帰りするっていうのはどういう了見だ! 朝の御勤めも全くしねえし!」
「朝の御勤めったって……ここにそんな殊勝な心掛けをする奴がいると思うか?」
ここはスラム街、神への信仰を持っている者などまずいないしましてや早朝から教会に来て祈りを捧げるなど滅多にない。
「だからってサボっていい理由にならねえだろうが!」
シスターは怒鳴りながら箒を振り回して男をどつこうとしたが、男は危なげなくそれをかわし続けていた。それがかえって癪に触って、彼女は意地になって男を追いかけ回し続けていたがやがて疲れ果てて箒を床に放り出し、両手を膝について肩で大きく息をしていた。
「朝から元気だな」
「だ、誰の、せいだと、思って……」
男の飄々とした言葉に、シスターは視線をキツくして睨みつけていたが、疲労で言葉が上手く続かなかった。男はそこに座って休んでいろと伝えると、シスターは渋々信者用の椅子に座った。彼女が椅子に座ったことを確認すると、男は教会の奥にある聖母オフィーリア像の前に行き、静かに両膝をついた。
胸の前で両手で聖印を組み、瞳を閉じた。その様子を見たシスターも慌てて椅子に座ったままだったが、瞳を閉じて聖印を組んだ。
「聖母オフィーリアよ。今日も私は平穏な夜明けを迎えることができました。願わくばこの穏やかな日々がいつまでも続きますよう、我らを見守りください」
男は短くそう呟くと、それからしばらく祈りを捧げた。シスターもまた静かに祈りを捧げていた。その様子はとても酔っ払って朝帰りしてきた姿や、怒鳴り散らしながら箒を振り回していた姿など想像もつかなくなるほど敬虔に見えた。
数分ほど祈りを捧げると、男は瞳を開けて立ち上がった。男が立ち上がったことを察すると、シスターもまた立ち上がった。
「さて、それじゃあそろそろ飯にするか。アーリア」
「はいはい。準備は出来てるよ、神父様」
朝の祈りを終えた二人は、教会の奥へと入っていった。
教会には信者たちが祈りを捧げるための聖堂と、教会で暮らす神父やシスターたちが生活するための生活スペースが存在する。聖職者やシスターが何十人もいるような教会であれば生活スペースも広いが、こんなスラムに存在する小さな教会だと聖堂も小さいが、生活スペースはもっと小さい。記念日などで式典を行うための道具を保管する倉庫を除けば、小さなキッチンと数部屋あるだけだった。
食堂、という名のただの小部屋の中央に机が置かれ、そこにアーリアが朝食を運んでくる。メニューは毎朝変わらず、黒パンと野菜のスープだった。
「さて、それじゃ食うか」
男はそう言うと、黒パンを掴んでちぎって口に放り込んだ。その様子を見てアーリアは思わずため息をついた。
「あのさー、普通、食事の前にも祈りを捧げるんじゃねえのかい?」
「ん? 別にいいんじゃないのか?」
「本当に神学校を卒業した神父なのかい? まあ、あたしも普通がどんなものかなんて知らないけどさ」
アーリアは呆れながらも自分よりも上位者である男が食事を始めているので、特に祈りを捧げることもせずに食事を始めた。
「昨夜は変わったことはなかったか?」
「ああ。静かなもんだったよ」
「そうか。それはよかった」
男はアーリアの言葉に特に興味なさそうにそう言った。男のその様子を見て、アーリアはまた小さくため息をつき、男がそれを見て彼女に訊ねた。
「どうした?」
「普通さ、いくら教会だからってスラムに女一人で留守番させる?」
アーリアの言葉はひどく正しかった。スラムの中で女が一人で生活している、それは周りにとっては格好の獲物である。獲物がいれば押し入り強盗など躊躇いなく行える連中なんていくらでもいる。だから、女が一人で夜を過ごすと言うのはこのスラムでは非常に危険な行為であると言える。
「ここなら大丈夫だ。基本的には頑丈だし、ちゃんと話もつけてあるからここを襲うような奴なんていない。まあ、教会関係者には手を出すなと言ってあるから、その服を着ている限りは問題ないと思うがな」
男はアーリアが現在着ている修道服を指差した。アーリアは自分の着ている服を軽く掴んで引っ張って少し見ると離した。
「まあ、大丈夫ならそれでいいけどさ」
「もし何かされそうになったら俺に言え。俺がきちんと話をつけてくるし、詫びも入れさせるからな」
「ああ。わかったよ」
どう話をつけ、どう詫びを入れさせるのかが気になったが、あまりそこには触れない方がいいような気がしてアーリアはそれ以上それについては質問しなかった。その時、ふと思い出したことがあった。
「そうだ。昨夜、表通りの教会の人が来て、今朝来るようにって伝えてくれって言ってたよ」
その言葉を聞いた瞬間、男はゲンナリとしたような表情を見せた。それから大きくため息をついて机に突っ伏した。
「面倒だな……」
「司教様が用があるってことだから、必ず来るようにって言ってたよ」
「もっと面倒だ……」
男はそう言うと、また大きくため息を吐いた。アーリアはその様子を不思議そうに見ながら言った。
「司教様って、式典の時とかに演説されている方だろう? 優しそうな方じゃないか。何でそんなに嫌なんだよ」
アーリアがそう言うと、男はジト目で彼女を見ながら言った。
「お前はあのジジイの裏の顔を知らないからそう言えるんだよ。会うたびに面倒ごとを押し付けてくるんだよ、あのジジイ」
「そんなもんかねえ……」
アーリアはどうにも腑に落ちない顔をしていたが、これ以上言ったところで何かが変わるわけでもないのでそれ以上その話題を口にしなかった。男は食事中ずっと浮かない表情をしており、食事を終えるとアーリアに留守を任せてそそくさと教会を出ていった。
表通りの教会、基本的にこの町で教会といえばこの場所を意味する。遠目に見える教会は、男が住んでいる教会よりもずっと綺麗で大きかった。まだ昼前だと言うのに、多くの人が祈りを捧げに教会へ入っていくのが見えた時はうちの教会もこれぐらい景気が良かったらいいのに、とそんなことを思っていた。
参拝者に混じって教会の中に入ると手近にいた助際に声をかけた。
「あの」
「はい。……何でしょうか?」
声をかけた時は愛想よく笑顔を見せていた助祭は、男の姿を見るなり訝しげな表情に変わった。それを見て、聖職者なら表にいる時はどんな相手でも笑顔でいるようにしろよ、と男は内心でイラついていた。
「司教様より出頭するようにと言伝をいただきまして参上いたしました。司教様へのお取次をお願いいたします」
男は不快さなど微塵も感じさせないような笑顔を見せ、礼儀に倣った見事な一礼を見せた。助祭はそれを見て仕方なさそうにこちらへどうぞ、と一言だけかけて奥へと案内した。すれ違う聖職者たちは男の姿を見ると、不快な顔をする者もいれば、驚いたような顔をする者、一転して歓迎しているかのような笑顔を見せる者とさまざまな表情を見せていた。
司教の執務室前に到着すると、案内をした助祭がドアをノックし男を案内してきたことを告げると、入室を許可する言葉が聞こえたため、助祭の後に続いて部屋の中に入った。
「司教様。お召しにより参上いたしました」
男が机に向かっている司教にそう言うと、司教は机の上に広げられていた書類から目を離し、男の姿を見据えると人当たりの良さそうな笑みを浮かべた。
「おお、忙しいのに呼び出して申し訳なかったな。まあ、そこにかけてくれ。ああ、君はもういいよ。職務に戻ってくれ」
司教がそう言うと、助祭は一礼をして部屋を出ていった。助祭が部屋を出て、足音が遠ざかっていくことを確認すると先ほどまでの人当たりの良さそうな笑みから一転して不機嫌そうな表情に変わった。
「さて、あまり時間がないからさっさと話そう。そこに座れ」
先ほどもかけるように言われたソファに男が座ると、司教も向かいのソファに座った。
「相変わらず裏表が激しすぎるだろ。あんた」
「気を遣う必要のない相手にくだらん愛想笑いなど不要だろ。本来なら貴様を呼ばずとも済めば一番良かったのだが、使えぬ者が多い故、仕方なくだ」
「……そういうところも相変わらずだな」
男は司教のその態度に思わず苦笑いを浮かべていた。司教もそれには気づいていたが、男との間で今更取り繕うような態度を見せる必要もないので、不機嫌そうに鼻をふんと鳴らした。
「それで? 今日俺を呼び出した理由は何なんだい?」
「そうだな。時間もない故、早速始めるぞ。アークス」
司教のその言葉にアークスは背筋を伸ばして姿勢を正し、それを見た司教が話し始めた。