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アート・ギャラリーの誘惑 2

 アート・ギャラリーはゆったりとした空間を取った中に、十何点もの有名な絵画が飾られている静かな場所だった。

 賑やかな遊び場は船首に固まっているので、喧騒から離れていることもあるのかもしれない。

 本の中でしか知らない絵画が並ぶアート・ギャラリーに、ローズの胸は途端に高鳴った。


(素敵。これはセバスチャン・マッカーソンの『春の海』よね。船の上だからかしら、海の絵ばかりだわ)


 大きなキャンパスに描かれる真っ青な海と、春の木漏れ日を表している黄金の光の対比が何とも素晴らしい。


(お金を持っていればよかったんだけど……)


 アート・ギャラリーへの入場は無料だが、すべての絵画が載っているパンフレットはお金がかかり、お金を持っていないローズはそれを手に入れることができなかったのだ。

 ミラはもしかしたらお金を持ってきているかもしれないが、侍女に頼んで買ってもらうのは気が引ける。それでなくともミラはローズのドレスを買ってきてくれたり、一生懸命、磨いてもさほど光らない顔を整えてくれたりと、いろいろしてくれているのだ。


 ほぅ、とローズは諦観のこもった息を吐いて、それならばせめてこの目に焼き付けて帰ろうと、より刮目して絵画を覗き込む。

 そんなローズを、アート・ギャラリーにいる紳士たちがちらちらと振り返るように見つめていることに、ローズはまったく気づかない。


(すごいわ、この青。有名なラピスラズリの青かしら? すっごくきれい)


 ローズの瞳も、夕闇のようで気味が悪いと言われるタンザナイト色ではなく、ラピスラズリの青のような色ならばよかったのに。

 ローズがじーっと絵画に見入っていると、背後で「ごほん」と咳払いが聞こえてきてぎくりとした。

 慌てて振り返ると、一人の背の高くて少し猫背の紳士が立っている。


「あ、ごめんなさい! 邪魔でしたよね!」


 ローズが近くでじーっと絵画を見つめていたから、この男性が絵を見る邪魔をしてしまったに違いない。

 急いで身を引くも、二十歳半ばほどだろうと思われる猫背の紳士は、絵ではなくローズを見下ろして、一向に絵画の方を向こうとしなかった。

 顔に何かついているのだろうか? ローズが不安になって自分の頬に触れたとき、男性がにこりと微笑んで言った。


「絵がお好きなんですか、レディ?」


 レディ、なんて呼ばれたのははじめてだ。ドギマギしながら頷く。


「は、はい。綺麗だと思って……」

「そうですか。この青はラピスラズリの青といって、大変高価な顔料なのですよ」


 やはりラピスラズリの青だったのだ。本で読んで知識として持ってはいたけれど、実際に見たのははじめてで、思わず「へえ!」と感嘆する。

 ローズが興味を示したからだろうか、気をよくしたらしい男性は続けた。


「この『群青』の舞台になったのは、エペーレ内海の南にあるヒルカ島でね。ヒルカ島には片翼の女神と言われる、豊穣の女神の娘が住んでいたという神話が残されているんですよ」


 それならば知っている。エペーレ内海に住む豊穣の女神と命の神の娘の一人である片翼の女神は、片翼しかないから空を飛べず、島の高台で空に憧れて生活していた。そんなある日、空から三つの翼をもつ春の神が訪れて、片翼の女神に自身の三つの翼のうちの一つを分け与えて、二人仲良く天に昇るという神話だ。

 その神話は素敵な恋物語としても有名で、大衆向けに娯楽小説にされたものをミラが持っていて、それも読ませてもらったことがある。あのときローズは未来の記憶を思い出しておらず、いつか自分もこんな素敵な恋がしたいと思ったものだ。……現実はこのままいけば冷遇妃になるのだから、笑えない。


「どうでしょう。ヒルカ島に伝わるその神話について、もう少しお詳しくお話したいのですが、お時間は」

「……え?」


 うっとりと『群青』の絵を見つめながら片翼の女神の恋物語を思い出していたローズは、突然の誘いに目を丸くした。

 びっくりして顔をあげると、猫背の紳士がにっこりと満面の笑みを浮かべている。


「私の部屋はこのすぐ近くなんです。よかったらお茶をしながら語り合いませんか?」

(ええっと……)


 片翼の女神の神話は素敵だが、語り合うほど長い話でもない。しかし、この紳士は親切でそう言ってくれているのだろうから、無碍に断るのも悪い気がした。ちょっとだけなら、お誘いに乗ってもいいかもしれない。


「わ――」

「こんなところにいたのか、探したよ」


 わたしでよければ、と答えかけたローズだったが、その前に二人の間に第三者の声が割り込んできた。

 この紳士の知り合いかと思って顔をあげれば、綺麗な微笑みを浮かべてやってきた二十歳前後の青年が当然のようにローズの肩を抱いたので息を呑む。


(え? ……え?)


 背の高い青年だった。肩ほどまである赤毛に、黒縁眼鏡の下にはザクロのような赤い瞳。びっくりするほどに整った顔立ちの男性だ。驚きのあまり茫然としてしまったローズの目の前で、青年は猫背の紳士に向かって言った。


「俺の連れが迷惑をかけたようだね、申し訳ない」

(俺の連れ?)


 はて、誰のことだろう。

 ローズにはわからなかったが、その謎かけのようなセリフに、猫背の紳士は心当たりがあったようだ。

 乾いた笑みを浮かべて、「いや、なに」ともごもご言いながら逃げるようにこの場から去って行く。


(あれ、お茶をしようって言っていたのに、どうしたのかしら?)


 ローズの記憶違いでなければ、あの猫背の紳士にお茶に誘われていたはずだ。それなのに一人でいなくなってしまった。まあ、特別行きたいわけでもなかったし、断るのが申し訳ないから少しだけと思っていた程度だから別にかまわないのだが。

 ローズが首をひねっていると、ローズの肩を抱いていた青年がいつの間にかこちらを見下ろしていることに気がついて、きょとんとする。


「あの……」


 ザクロのような赤い目には見覚えがあるような気がするが、記憶にない青年だった。いったい誰だろうかと思っていると、あきれたように嘆息された。


「君ね。あんなわかりやすいナンパについて行こうとするなんて、無防備にもほどがあるよ」

「……なんぱ?」


 ナンパ、とはなんだろう。不思議そうな顔をしていると、青年が少し面白そうに目を細めて、身をかがめてローズの耳元でささやく。


「部屋に連れ込んで不埒なことをされても知らないよ、と言ったんだ」

「不埒な⁉」


 お茶の誘いにはそんな意味があったのかとローズがびっくりすると、青年は目を丸くした後で、おかしそうにケラケラと笑い出した。


「君ね! どんな世間知らずなお嬢さんなわけ? 今時、子供でもわかるような誘い文句だったよ! 危ないかなと思って割って入って正解だったな!」


 つまり、この青年はローズが不埒なことをされる危険を感じとって助けに来てくれたのだろうか。なんて優しい青年だ。ローズはじーんと感動して、ぺこりと頭を下げた。


「それはそれは、大変ご親切に。どうもありがとうございました」

「……え、いや」

「おかげで身を滅ぼさずにすみました。とても助かりましたわ。お礼をしたいのですけど、あいにく手持ちがなくて……、どうしましょう。お金になりそうな宝石もないのですが」


 ローズがそんなことを言えば、ケラケラ笑っていた青年が途端に真顔になって、はーっと盛大なため息をつく。


「あー、うん。わかった。君は本当に世間知らずの箱入りだ。いいかい、そんな危険なセリフは付け入られるのが関の山だから口にすべきじゃない。そして、そんなに純真な目で見られたらこれから俺が君を誘えなくなるからやめてほしい」

「はい?」


 ローズが首を傾げると、青年はわざとらしくローズの手を取って言った。


「ということで、箱入りのレディ。これから俺とラウンジでお茶をしませんか? ちょうど、ティータイムのケーキが配られている時間だよ」


 ローズは目をパチパチとしばたたいた。


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