未来の冷遇妃は考える
グリドール国の南にあるローアン港。
プリンセス・レア号はそこから出航することになっている。
このためにわざわざマルタン大国からグリドール国にやってきた、マルタン大国王太子ラファエルは、シトリン色の美しい髪を日差しに輝かせて、ザクロのような赤い瞳を細めて微笑むと、ローズの姉であるレアとともに甲板に立って、港に押し寄せている市民に向かって優雅に手を振っていた。
黒髪に翡翠色の瞳のレアも、どこからどう見ても絶世の美女で、美男美女の大国の王太子とその婚約者に港は熱狂し、船の汽笛すらかき消すほどの喧噪に包まれている。
プリンセス・レア号にローズの同乗を望んだのは、ほかならぬ第一王女レアらしい。
――あの子にもたまには綺麗な世界を見せてあげないと可哀そうだわ。
レアのこの発言は、国王や王妃、兄王子たちの心をひどく打ったらしい。そして、そんな外見と同じく中身まで女神のように美しいレアの願いをかなえるべく、ローズにプリンセス・レア号に乗船するよう国王からの命令が下った。
だが、ローズは知っていた。レアは別に、冷遇されている妹を不憫に思いこの船に乗せたわけではないことを。
(あの記憶が確かなら、お姉様はこの船に乗ったあとで失踪するわ)
そう。姉はこの船に乗ったあとで、一つの書置きを残して失踪する。
それは、「あなたの妻にはなれません。かわりに妹を差し上げます」という短い手紙で、それがラファエルにあてたものであることは明白だ。
船の中をどれだけ探してもレアは発見できず、しかし国と国とのつながりの婚約を白紙に戻すこともできなくて、ローズはレアの身代わりとしてラファエルに嫁ぐことになるのだ。
(そして、城の離れにある塔に半ば軟禁状態……か)
ラファエルは婚約者に捨てられた反動から女をひどく憎むようになり、けれども世継ぎは必要だと愛妾を何人も囲うようになる。そしてローズは、一顧だにされない冷遇妃となるのだ。
ローズは甲板でいつまでも市民に手を振っているラファエルたちを尻目に、ミラとともに与えられている客室へ向かった。
さすがに「女神のように美しい」レアが、妹を二等客室いかに押し込めるのはラファエルの手前問題があったようで、レアたちと離れた部屋であるが、ローズに用意された部屋も一等客室だった。
プリンセス・レア号は地下一階、地上三階建てで、一階と二階の一部が二頭客室と三等客室。残りの二階一部がレストランや娯楽スペース。三階が一等客室と一等客室専用のサロンやバーになっている。
一等客室はその乗船価格から貴族や富豪が泊まることを想定して作られており、客室には続きの使用人部屋も用意されている。その使用人部屋だが、レアのように五人も六人も連れて乗船する客もいるので二部屋もあった。ローズが連れてきたのはミラ一人だけで、専属の護衛もいないので、与えられた一等客室は城のローズの部屋よりも広い。
「すごいですね。寝室に、浴室、メインルーム、書斎なんかもあるんですか? 船の中なのに、まるでホテルのスイートルームのようです」
ローズは未来の記憶を持っているので当然船の中のことも覚えているが、ミラははじめてだ。ローズの荷物の入ったカバンを床に置きもせず、ふらふらと部屋中を歩き回っている。
「ホテルのスイートルームを参考に作ったから、まあ、そうなるわね。お姉様の部屋のある船首側には、ラウンジやゲームデッキもあったはずよ」
「そうなんですか? ローズ様お詳しいですね」
「えっ……、さっ、さっき船内見取り図を見たのよ」
「ああ、廊下に張り出してありましたね! 広いからわたくしも見て覚えておかないと」
ローズはホッと胸をなでおろした。危ない危ない。未来の記憶があるということは、知らないことも知っているということである。口にする言葉は選ばないとミラに怪しまれてしまう。
ミラが荷物を片付けるというので、ローズはバルコニーの扉を開けて外に出た。
船はまだ出航していないが、柔らかな潮風が頬にあたり、ローズの藍色の髪をふわりと揺らす。
気味が悪いと言われる、夕闇から夜へと変わるときの空の色のようなタンザナイト色の瞳を細めて、雲一つない青空を仰いだ。
(お姉様が失踪するのは仮面舞踏会の夜……。もちろんそのあとも油断できないわ。しっかり見張っていないと)
しかし、レアやラファエルの部屋があるのは船首側。対してローズの部屋は船尾側だ。大きな船なので、船首から船尾まではそれなりに距離があり、レアに張り付いて見張っていることもできない。
船内で開かれるイベントごとにも、ローズは一切参加するなと王から命令が下っている。「グリドール国の恥」であるローズは堂々と人前に姿を現すことを禁ずる、だそうだ。
ローズはそっと自分の頬に指先を触れた。
幼いころそばかすだらけだった顔は、年を重ねるほどに綺麗になった。これはローズの扱いに腹を立てたミラが「見返してやりましょう!」と肌にいいと言われるオイルを使って丁寧に整え続けてくれたおかげだと思う。しっとりとした肌は白く輝くようで、容姿が十人並みと言われようと、ローズはこの肌だけは自慢だった。
「ローズ様、この船に乗っている間だけでも前髪を切りましょうよ! 文句を言う人は誰もいないんですから! レア様だって多分、ここへは来ないでしょうし」
荷物の片づけを終えたミラが手にはさみを櫛を持ってやってきた。
ローズは五歳の時から、顔の半分以上を前髪で覆っている。それは国王の「醜い顔をさらすな」という命令と、父のものとも母のものとも違う、夜の闇のようなタンザナイト色の瞳が見えるのを母がひどく嫌ったからだ。目が合うだけで手が飛んでくるので、ローズは前髪で顔を隠すようになったのである。
「そう……ね」
前髪があることに慣れたけれど、視界が悪くなるので好きなわけではない。ミラの言う通り、姉のレアはわざわざ妹の様子を見に来るはずもないし、せっかく父や母たちから離れたのだから、前髪くらいは切ってしまいたかった。
「でも、一か月後には城に戻るでしょ?」
「ふっふっふ! こういう時のために、じゃーん! ウィッグを作ってもらいました!」
「……ずいぶん用意周到なのね、ミラ」
(覚えている未来では、前髪を切った記憶はないんだけどな)
だが、未来の記憶があるからといって、十年分の記憶の一分一秒まで覚えているのは土台無理な話だし、何より未来を変えたいと思っているのだから、そんな些末なことにこだわる必要もないだろう。
せっかくミラが用意してくれたのだから、思い切って切ってしまおう。
ローズが頷くと、ミラはぱあっと顔を輝かせた。
「ではこちらの椅子に座ってください! そして、動かないでくださいね。前髪がなくなってもしりませんよ?」
真剣な目でハサミを構えるミラにちょっとだけ不安を覚える。
ローズが心配になったのがわかったのか、ミラがローズの前髪に櫛を通しながら自信たっぷりに言った。
「大丈夫です! お母さんの前髪を切ったことがあるので!」
「その時は成功したの?」
「いえ、失敗しました。二度と切るなと言われましたねー」
「…………」
選択を間違えたかもしれない。
ローズは顔を引きつらせるが、ここで下手に声をかけると、本当に前髪を全部切られてしまうかもしれず、それならばできるだけミラが失敗しないようにと体を硬直させる。
「そこまで硬くならなくても大丈夫ですよ。えっと、眉の上くらいでいいですかねー?」
「え、ええ。そうね。あまり短くしないで」
長ければ修正がきくが、短くされるとどうすることもできない。
ミラは心得ましたと頷いて、じょきっと容赦なくローズの前髪にはさみを入れた。
パラパラと前髪が舞い落ちるたびに、ローズの胸に不安が広がる。
(だ、大丈夫よね? ミラって不器用じゃないはずだし、たかだか前髪を切るだけだもの)
見ているから不安になるのだ。いっそ仕上がるまで目を閉じていようと、ローズはぎゅっと目をつむる。
しばらくじょきじょきとハサミの音が聞こえて、最後の方は毛先をそろえているのかチョキチョキと軽やかな音がし、最後に前髪に櫛を通す気配がして、ミラの満足そうな声が聞こえた。
「できました! 我ながら完璧です!」
本当だろうか。ローズは恐る恐る目を開け、途端に開けた視界に目をしばたたいた。
城の自室では前髪を横に流していたけれど、薄暗く狭い城の室内と、明るく広い船の船内では全然違う。
(すごい……きれい……)
視界がクリアになっただけで、世界はこれほどまでに美しいものだろうか。
ミラが手鏡を渡してくれたので、そっと鏡の中を覗き込めば、ミラが自画自賛したように綺麗に整えられた前髪が映る。その下にはぱっちりと大きなタンザナイト色の瞳。
「ついでに眉も整えませんか? ローズ様、どうせ隠れているからって眉のお手入れさせてくれないんですもん」
「え、ええ……。そうね、お願いしようかしら。でもその前に」
ローズは先ほどまでいたバルコニーを見た。
「あっちに行ってもいい? 外が見たいの」
前髪で邪魔されない視界で海と空を見たらどれほど美しいだろう。
ミラに断ってバルコニーまで出たローズは、どこまでも青い空とキラキラと輝く水平線に、どうしようもなく胸が震えるのを感じた。
「……きれい」
つぶやいた声は震えて、言葉になったかどうかもわからない。
狭く暗い世界で生きた十七年間。なれたはずだった。それなのに、空がきれいに見えただけで、言葉にならないほどの感動を覚えている。
はらり、と一粒ローズの瞳から涙が零れ落ち、ミラがそっとハンカチを手渡してくれた。
もっとこの綺麗な世界を見ていたい。ずっと見ていたい。そのためには――
(絶対、未来を変えて見せるわ)
マルタンの冷遇妃になんて、絶対にならない。未来を変えて、いつか自由を手に入れて、この綺麗な世界を思う存分満喫するのだ。
ローズはハンカチで涙の痕を拭きながら、勝負はこの一か月だと、改めて決意をみなぎらせたのだった。