ラファエルの決意
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――ものでなくとももっとほかの、例えば君を――……いや、なんでもない。
ローズとともにアート・ギャラリーを訪れたラファエルは、先ほど言いかけた自分の言葉を思い出して薄く自嘲した。
(あんなことを言って……ローズがそれを望むはずないだろうに)
ローズは今、アート・ギャラリーの絵画に夢中になっている。美しいタンザナイト色の瞳が好奇心に輝き、整った小さな顔いっぱいに笑みを浮かべて、じーっと絵画を覗き込むさまは、本当に無邪気な天使そのものだ。
本人はまったくの無自覚のようだが、ローズは驚くほどに美しい女性だった。
透き通るように白い肌、大きなぱっちりとしたタンザナイト色の神秘的な瞳。深い海の底を思わせるような藍色の真っ直ぐの髪は艶やかで、手足はほっそりと長く、腰は折れそうに細い。よく美しい少女をドールに例えることがあるが、まさしくローズは精巧につくられたドールのようだった。
いつだれかに攫われるともわからない。見ていてはらはらするような美しさを持つローズは、それでいてとても無邪気で迂闊で、正直言ってラファエルは気が気でない。
はじめてアート・ギャラリーでローズを見かけたときは、心の底から驚いたものだ。
それと同時に、ひどく胸がざわめくのを感じて、何が何でも彼女を手に入れたいという衝動を覚えた。
あのときはローズがグリドール国の王女とも知らず、どこの誰ともわからない存在だったというのに、そんなことすら関係ないと思うほどに、強く惹かれた自分を覚えている。
最初は、その時の自分の心がひどくささくれ立っていて、ローズの純粋さが単純に眩しかっただけだと思っていた。けれども、いつの間にかローズの表情や仕草に引き込まれて、本気でどこの誰でもかまわないから手に入れてしまいたいと思ったのだから、一国の王太子としては失格だろう。
(まさか『あの』ローズだとは思わなかったけどな……)
ローズの噂は、もちろんラファエルも知っていた。というか、婚約者であるレア伝いにいろいろ聞かされていた。今思えば、その話を全て真に受けて聞いていた自分がどれほど愚かだったのかとわかる。
ラファエルの、ともすれば誰彼かまわず傷つけてしまいたいほどに苛立っていた心を無自覚に沈めて、同時にどうしようもない恋心を植えつけたローズは、けれどもそれに気づかずにラファエルのそばでにこにこ笑っているのだから質が悪い。こちらはいつでも彼女を押し倒す用意はできているというのに、無防備すぎて手が出せないのだから、ほとほと困る。
あれで少しでもラファエルのことを意識しているそぶりがあるのならば、すぐにでもサクランボ色の美しい唇を奪ってしまいたいというのに、それもできない。ローズはいまだにラファエルのことをレアの婚約者以上に見ていないのだから、スタートラインにすら立っていないのだ。
(まあ、そんなことは関係ないけどね)
ラファエルにはもう、ローズを手放すつもりはない。何としても手に入れる。だが、手に入れるだけでは面白くないのだ。ローズはドールではないのだから、ラファエルは彼女の心ごとすべてがほしい。
(『あの』ローズの正体がこんな風だったなんて、早く知っていたらもっとうまくやれただろうに……)
ラファエルは、過去を思い出して小さく嘆息した。
☆
ラファエルがローズのことを知ったのは、マルタン大国の王立学園に通っているときだった。
学園で知り合ったグリドール国の第一王女レアは、美しく聡明で、誰よりも優しい女神のような女性だと信じていたころのことだ。
レアが留学してすぐに仲良くなったラファエルは、在学中に彼女との婚約を決めた。
弟は早くに婚約者を決められたが、次期国王となるラファエルの婚約者はなかなか決まらず、学園に入学してもまだ婚約内定者も存在していない状況だった。
というのも、国内の貴族の派閥の問題で、どこから妃を取るかでもめにもめていたからだ。マルタン大国は一夫多妻制ではあるものの、『王妃』となれば別格の扱いを受ける。それに、強烈な性格の姉を見て育ったラファエルは、あんなものを何人も抱えるなんて精神が崩壊すると、昔から妃は一人しか娶らないと公言していたので、余計にもめていたということもある。妃が子供を産めなければ愛妾が国母となる可能性があるのだが、ラファエルの発言でその可能性がついえたために、唯一の妃を差し出すのはどこの派閥かと、貴族間で大論争になってしまったのだ。
ラファエル自身が招いた種であるが、このまま婚約者が決まれなければ、それこそ学園の卒業後は連日お見合いだとうんざりしていたラファエルにとって、レアの存在はまさに渡りに船だった。
さすがに、他国の姫を娶ると言えば文句は言うまい。派閥も関係ない。グリドール国との関係も強化出来て、なおよし。そしてレアは好ましい性格をしていて、つつましやかで聡明だ。まさに、ラファエルの問題を解決するにうってつけの人物だった。
そしてとんとん拍子にレアとの婚約が成立したある日のことだった。
レアが憂い顔でため息をついている姿を発見したのだ。
どうしたのかと訊ねてみたところ、レアは妹である第二王女ローズのことで悩んでいるという。
顔立ちも十人並みで、何をやらせても平凡な第二王女ローズ。
美しく気品があり、多彩な才能に溢れる第一王女レア。
そんなことをレアが連れてきた侍女が言いふらしているのを聞いたことはあるが、ラファエルが知っているのはその程度で、実際にローズがどのような人物かを知る機会はなかった。というのも、ローズはまったく表に姿を現さず、本当にグリドール国に第二王女が存在しているかどうかも怪しいほどにその存在が隠されていたからだ。
レアによると、ローズはひどく我儘で傲慢で、気に入らないと誰彼かまわずやつあたるような手に負えない性格をしているという。勉強にもまったく興味を示さず、遊んでばかりで、その関係で他国へ留学もしないとのことだった。
そして、自分の顔立ちが平凡であるからかひどくレアを妬み恨んで、いつも冷たく当たられるという。
その話を聞いた時、ラファエルは確かに憤った。
王族の務めであることを放棄して勝手気ままにふるまい、あまつさえ姉にまで傲慢な態度を取る第二王女を、とんでもない悪女だと思ったものだ。
レアのローズの悩みは、彼女が王立学園を卒業するまで続き、ラファエルはひたすらに彼女の相談を受け続けた。
時にはそこに彼女の侍女まで加わり、ローズがいかにひどい王女であるのかということを事細かに語る。実際にローズを知らないラファエルがそれを信じ込むのは当然で、彼の空想の中のローズはとても見にくい化け物のような姿をしていた。
レアと正式に婚約したからには、ラファエルもグリドール国へ行くことが増える。顔を見たら説教の一つでもしてやろうと、そう思ったものだ。
けれども何度ラファエルがグリドール国へ向かおうとも、第二王女ローズが姿を現すことはなかった。他国の王族へ、それも姉の婚約者に対して挨拶もなしかと、ラファエルのローズへの心象はさらに悪くなる一方だった。
そんなある日のことだった。
グリドール国で造船中のプリンセス・レア号の様子をレアとともに見に行ったときのことだ。
レアは始終深刻な顔をしていて、またローズの問題かとラファエルが訊ねると、こともあろうに彼女はラファエルに婚約を解消してくれないかと言い出した。
まさに、寝耳に水だった。
本人同士が決めた婚約であっても、すでにそれは国同士の問題だ。簡単に反故にはできないし、もちろんそれには大きな代償を伴うことになる。
当然ラファエルは無理だと突っぱねた。
するとレアはさめざめと泣いて、好きな男ができたのだと言い出した。どうしてもその男を忘れることができないから、頼むから別れてくれというのだ。そしてさらには、自分の代わりにローズを差し出すから、それでおさめてくれないか、と。
ラファエルは茫然とした。あまりに勝手な言い分だったからだ。婚約の解消もそうだが、好きな男ができた? ローズをかわりに差し出す? そんな言い分が通ると本当に思っていたのだろうか。
ラファエルが首を縦に振らないでいると、レアは突然怒り出して、大声でラファエルを罵倒しはじめた。お前には心がないのかと怒鳴るレアに、ラファエルは憤りを通り越して唖然とした。ヒステリックに叫ぶ姿はラファエルの苦手な姉の姿を連想させ、吐き気さえ覚えるほどだった。
それからというもの、レアはラファエルに冷淡になった。
人の目があるときだけ婚約者を演じるレアは、人がいなくなるとラファエルと口すら聞こうともしない。
ラファエル自身も、こんな女を王妃として迎えるなんて人生の破滅だとばかりに思いはじめたそんなころ、プリンセス・レア号での一か月のクルーズの話が持ち上がった。
正直言って行く気にはならなかったが、ラファエルとレアの婚約を祝した航海だと言われれば断るわけにはいかない。内情はどうあれ、ラファエルたちは婚約者同士で、この婚約はグリドール国とマルタン大国の関係強化につながる重要なものだからだ。
こうしてはじまった航海で、ラファエルは意図せずローズと知り合ったわけだが、ラファエルにとってこれは神の思し召しとしか思えなかった。
レアが手紙を残して消えたときも、これ幸いとそれを利用しようとした。これはグリドール国の落ち度で、この責任を追及しつつ手紙にある通りローズを受け取ると言えば、グリドール国王が否というはずもない。むしろそれでおさめたやるこちら側に感謝すらするだろう。
すべてがうまくいっている。
そう感じたラファエルは、まさかローズが失踪したレアを探すと言い出すとは思わなかったわけだが、まあ、例えレアが見つかったところで、失踪した事実は消えない。証拠はこちらにあるから、あとはどうにでもなるのだ。
ラファエルが考えることは、レアの捜索ではなくローズの心を手に入れることだ。
ほくほくとローズを自身の部屋の隣――レアが使っていた部屋に移動させることに成功したラファエルは、そこでレアの侍女スーリンがとったローズに対する態度に無性に腹が立った。それと同時に、ふと思ったのだ。
ローズはどうして表に顔を出さなかったのだろう。
どうして本人の容姿や性格とまったく違う噂が独り歩きしているのか。
そして、レアの部屋に行くにはウィッグをかぶって顔を隠さなければならないと言ったローズ。王からは一か月の間船室から出るなとも厳命されているという。
おかしい。
(ローズはいったい、国でどんな扱いを受けていたんだ……?)
まともな扱いを受けていなかったのは、なんとなく理解した。だが、なんとなくではいけない。詳しく調べなくては。場合によっては、こちらも出方を考える必要がある。
ラファエルは友人の一人であるセドック・チャールストン・モルト伯爵に相談した。セドックは昔からラファエルのお忍びを手伝ってくれる悪友で、ローズに出会ったときも彼のふりをして船内の散策を楽しんでいたときだ。
セドックに事情を説明すると、捕えた侍女のスーリンを吐かせるのがいいだろうと言った。それにはラファエルも同意見だ。スーリンはレアがマルタン大国に留学していたときにも同行していた侍女で、ローズの悪口を散々吹聴して回っていた女だ。レアも信頼しているようだったし、親が重鎮であることからも、国の内情に詳しいと考えていい。
セドックはすぐさま動いてくれた。
彼は友人であり、ラファエルのはとこで、そして優秀な側近でもある。残念ながらバカンスを兼ねたクルーズということもあり、彼が普段持ち歩いている小道具はそれほど持ってきていなかったが、すぐに船医のもとに言って自白剤を用意できないかと訊ねてきた。船で事件が起こることも想定されているので、船の中には警邏体もおり、船医が管理している薬品の中には何かあった時に使うために、犯人を拘束したり吐かせたりするためのものが揃っている。
「簡単な拷問器具は持ってきてるけど、さすがにそれはまずいだろうからね。自白剤を使って吐かせてくるよ」
「量は加減しろよ」
「大丈夫。その辺は加減するって。ま、完全に無事とは言い難いだろうけどね」
少なくとも、多少は精神が崩壊するんじゃないかなと言って笑ったセドックがとても楽しそうだったので、ラファエルはスーリンに少しばかり同情したが、レアが失踪した時点でそれを防げなかったスーリンは罪人だ。このままレアが見つからなければ、グリドール国王が彼女に責任追及するのは明白で、ラファエルの出方次第手は斬首刑も充分にあり得る。
もっと言えばローズに無礼な態度を取った段階でラファエルは彼女を許す気はない。どんな手を使おうと、彼女にはしかるべき処罰を下すつもりでいる。自白剤を使われた彼女が苦しもうとも、その前段階だと思えばなんてことはない。
そうして自白剤を利用してローズのことを吐かせたラファエルは、彼女の置かれていた環境を訊いて茫然とした。
王から自身の子でないと言われ、ローズを産んだ王妃にも疎まれ、城の一室に閉じ込められるようにしてすごしていたとは、さすがに想像だにしなかった。
王が子を顧みないことは他国を含めると珍しいことではないかもしれないが、それでも王子や王女たちは彼女たちが信頼する側近に囲まれて、多少の不自由はあろうともそれなりの生活をしているのが普通だ。
それなのに、ローズの周りにはそれこそミラとその母しかおらず、使用人にまで下に見られて、息を殺して生きてきたなど、にわかには信じがたい。
けれども、そう聞けば納得する部分も多々あるわけで、自白剤まで使われたスーリンが嘘をつくはずもないから、それが真実であるのは間違いない。
沸々と、ラファエルの中に怒りが沸いてくる。
それこそ、グリドール城にいる全員を処刑したいくらいには憤っていた。
「で、どうする?」
虚ろな目をして倒れこんでいるスーリンを睥睨し、セドックが訊ねる。
ラファエルはぐっと拳を握りしめて、断言した。
「ローズは我が国に連れて帰る。絶対に」
そのような扱いをされているとわかって、二度とグリドール国に帰すものか。
ラファエルはスーリンの後始末をセドックに任せて、急いでローズのもとへ向かった。
早く、ローズに会いたかった。