前編
前後編の予定です。
「これは毎回新しく来た研修医に聞いていることなんだが……君はどうして医者を志したんだい?」
大学を受けるときも、入ってからも、何度も何度もされる定番の質問。その質問に、僕は七年前から確固とした答えを持っている。
「助けたかった……助けられなかった人がいるんです」
隣を歩く先輩の目が、大きく開かれる。
その一歩後ろを、僕は迷いなく前へ歩みを進めていく。
「ミクって言うんです。七年前――」
コツン、と足音を最後に、先輩は歩みを止めこちらを振り向く。
医療関係者で、ましてやこの病院内で、この名前を出して反応しない者はいまい。
七年前、突如世界を席巻した謎の感染症。彼女はその、最初の患者だったのだから。
「――そうか、君はあのときの……」
そう言いかけて、彼は突然頭を下げた。
「済まなかった、彼女を助けられなくて。本当に、我々の力不足だ。申し訳ないと思っている」
「いえいえ、先生方が悪いわけではないんです。ここの方々は最善を尽くされたと思います。……むしろ力不足は僕の方です。あのときは何もできなかった」
そう僕は、何もできなかった。アクリル板越しで眺めているだけで、側で手を握ってあげることすらできなくて。
『そんな毎日、来てくれなくていいんだよ』
あるとき彼女が、そうメッセージを送ってきたことがある。
『君が治るまで、毎日来るよ』
『それじゃダメ、私が治らなかったらどうするの?』
『何言ってるんだ、諦めちゃダメだろ?』
僕に何かが出来る訳じゃないのに。送るメッセージは虚しい。
『ううん、大丈夫。私は諦めてないよ』
むしろこっちが励まされる始末。本当に僕は、無力だ。
「だから僕は、何かできるようになりたくて、ここを志望したんです」
彼の表情が、柔らかなものになる。
「……そうか、そう言ってもらえると嬉しいよ。勿論我々は、君を歓迎する。共に頑張ろう、次こそはあのような悲劇を生まないために」
『次こそは』
そういえばあの時も、治療に当たっていた医者に同じようなことを言われた気がする。
「はい!」
先輩は満足げに頷くと、前を向いて再び歩きはじめる。
「しかし、そういうことなら納得だな」
「何がですか?」
「いや、毎年この感染症センターを志望する者はいなくってね。それが今年は志願して研修医が来たって言うから、ちょっとした騒ぎになってたんだよ」
「そうだったんで――」
その瞬間、目の端に捉えた影に僕は歩みを止める。
見逃すはずが、ない。
「……?どうかしたのかい」
彼も振り向き、事態を察したのだろう。言葉を詰まらせている。
だけど、そんなことに注意を払っている余裕はない。
まさか、なんで。でもあれは。
「ミク!どうして」
声に反応して、見覚えのある影はこちらへ顔を向ける。
その目が、一瞬合った。
「どうして。七年前、君は……ッ!」
「七年前?……そっか」
彼女は口元を綻ばせると、すぐさま目を背け、逃げるように走り出す。
「ミク!待ってくれ」
考える間もなく、僕も走り出していた。
「ちょっと君!!」
後ろで呼び止める声がする。だけどそんなの、今はどうでもいい。
首から下げたプレートが揺れて鬱陶しい。僕は走りながらそれを外すと、乱暴に白衣のポケットへ突っ込んだ。
右へ左へ、角を曲がる彼女を、見逃さないように夢中で追いかける。
「ハァ、ハァ……ま、待てって」
気がつくといつしか、暗く、人気のない、大きな扉の前にたどり着いていた。
「嘘……開かない……」
彼女は扉を叩くも、ピクリともしなかった。
ここに迷い込めたのは運が良い。実質行き止まりなのだから、もう逃げられることもない。
「どうして……逃げるんだよ……ミク」
彼女は深く息を吐くと、観念したようにこちらに視線を向ける。
「え、えーっと、七年ぶりに会って、聞くことがそれ?」
その声が、強く僕の記憶を、涙腺を、刺激する。
「え?あ?いや……」
さっきまで走っていたせいだろうか、思考が全くまとまらず、言葉が出てこない。辛うじて絞り出した声も、どこか上ずってしまう。
「って、わっ、泣かないでよ」
何か、柔らかなもので視界が奪われる。自身の頭に、ぬくもりのある質量が置かれたのを感じた。
その懐かしい感触に、僕は何も考えることはできず、ただただ涙で、目の前の布を濡らした。
年甲斐もなく、男気もなく、溢れる涙は、七年前のように。
「ごめんね……つらい思いをさせたんだよね……」
その柔らかな手が、僕の頭を撫でる。
実体のある手、これは、現実なんだ。
僕は顔を上げると、涙を拭いて再度ミクを見つめる。
「それにしても、バレちゃうとはね……。七年も前の話でしょ」
「忘れる訳ないじゃないか、七年前からずっと、ひとときも――」
そう、七年間、一回も忘れたことなんかない。
そりゃ七年もすれば、多少見た目も変わってるかもしれないけど――。
「あれ、見た目が全然、変わってなくないか?」
「え?」
「七年も経ってたのに、七年前そっくりだ。むしろ幼くみえるくらいに」
「あっ、あー……若く見えるって褒めてくれてる?」
「そもそも何で、生きてるんだ」
「……」
「どういう…ことなんだ?」
「まあ、七年ぶりに会うんだもん、そういう質問になるよね」
「ああ」
「うーんと……どうしよう」
「どうしようって、そんな」
「その質問、なかったことにしてくれない?」
「はあ?」
「ま、まあムリだよね……」
「何を言っているんだ?」
「うん……そうだよね……。こうするしか、ない、か」
「……?」
一瞬の沈黙の後、ミクは躊躇いがちに口を開いた。
「その解答を、聞きたい?」
「え?」
「聞いたらもう元には戻れなくなっちゃうよ?」
「どういう」
「それでもいいの?」
どうやら詳しく話すつもりはないらしい。彼女の有無を言わせぬその目は、本気だ。
だけど本気度でいったら、僕も負けてないはずだ。小さく息を整えると、僕ははっきりと答える。
「勿論」
「……そっか。そりゃそうだよね。でも答える前に、一つだけ私の頼みを聞いて欲しい」
「何だよ」
「ここなら置いてあるはずだよね、例のウイルスと特効薬、その基となった植物の種」
「おいお前――」
「それを持ってきて欲しい。それが出来ないなら、私は何も話せない」
「ちょっとここで待ってて」
僕は奥の大扉に近づくと、職員証をかざす。電子音の後に、カチャリと錠の解かれる音がする。
この奥には、研究用の様々な試料が眠っている。もちろん、例のウイルスも、特効薬の基となった植物も。
必要なものを手に取り、いくつかポケットに忍ばせると、再び部屋の外へと戻る。しっかりと扉を閉めると、オートロックの働く音がした。
「ほら、持ってきたよ。だから――」
「話すより、見る方が早いわ。本当に戻れなくて、いいんだよね?」
彼女は、僕の手からウイルスの入ったアンプルを奪うと、ポケットをまさぐる。
戻れなくていいか?もちろん。戻ってこないと思っていた君の居る日常が戻ってきたんだ、これ以上何を戻したいっていうんだ。
彼女の目をみて、コクリと頷く。
それを見て、彼女は僕の手を取った。
「私、未来から来たの」
「え?」という言葉も声にならず、意識が、身体から抜けていくのを感じた。
「あれ、ここは……?」
気がつくと、夕暮れの公園のベンチの上、僕は横たわっていた。
「そっか」
ミクがこちらに近づき、僕の顔を覗き込む。
「私と君との初めての出会いは、この公園だったんだね。リョウジ君って言うんだ」
ケラケラと笑い、彼女は隣のベンチに腰掛ける。
「今、七年前の君に会ったよ。若いね~~。でも、面影ある」
脳内を素通りしていきそうになった彼女の言葉を、慌てて捕まえる。
「ちょっと待って、今何て?」
「君から見て、七年前に戻ったんだよ。私と一緒に、時を遡った」
「七年前?何を言って――」
ポケットに手を突っ込み、スマートフォンを取り出す。その画面には、確かに七年前の日付が表示されていた。
「……嘘だ」
「ホントだって。だから、元に戻れなくなるって言ったでしょ」
混乱する中で、あたりをぐるりと見回す。
どこか、見覚えのある光景。
……いや、見覚えあるなんてものじゃない。忘れるはずのない、僕と彼女との、出会いの公園なんだから。
「それで今、私は七年前の君に初めて会った、っていう訳。いきなり話しかけられるなんて、ちょっと驚いちゃった」
彼女の言葉に引っ張られ、当時の記憶がずるずると思い出される。
そりゃそうだ。夕暮れの公園に女の子が一人立っていて、その後ろのベンチに不審者が寝転がっていたら心配になって話しかけるもんだろう。
当時の思考回路を再生しながら、ここで自分がそのベンチに横たわっていることに気づき、思わず苦笑する。
次の日またこの公園に寄ったら彼女がいて、僕のこと覚えててくれてて。それが嬉しくって、その次の日もさらに次の日も、毎日公園に足を運んだんだっけ。
あの日々は、今思っても楽しかったな。……そう、彼女が発症するまでは。
――あれ?
彼女が発症するのは、確かこの十日後。
そして、あの感染症の潜伏期間は……。
「ミク!さっき渡したあのアンプルはどうした!!」
「あ、アンプル??そんなことよりさっき君に――」
「それはどうでもいい!アンプルはどこにやったか聞いてるんだ!」
「忘れてない、か。しょうがないな」
彼女はポケットの中からアンプルを取り出す。
その口は。
綺麗に割られていて。
「おい……まさか……!」
僕は彼女に駆け寄り、乱暴にその肩を掴む。
「あんまり近寄らない方がいいって。感染るよ」
「何てことを……!」
「大丈夫、君があのアンプルと一緒に握ってた薬は若かりし君にあげたよ。お菓子と一緒に混ぜて。君が感染しなかったってことは、ちゃんと美味しく食べてくれたんだね。嬉しいよ」
「そんなこと!」
確かに、アンプルと一緒に握っていた薬とその基となった種が手元から消えていることを、彼女の言葉で思い出す。
「……いたいけな少女に乱暴するのはどうかと思うよ?」
彼女の腕が伸びる。
――この位置なら、大丈夫。
「……ごめん」
そう口にするや否や、彼女の腕を引っ張り、袖をまくり上げる。
授業で、実習で、習った通りに。
片手をポケットに突っ込むと、その中でカバーを外し、一本の注射器を取り出す。
戸惑う彼女の、白く美しい皮膚に、僕は手の中の針を突き立てた。
「痛ッッッッ!?」
他の組織を傷つけぬよう、僕はそっと針を抜く。
「な、何するのよ!」
「何って、僕も予備を持ってきてたんだよ、特効薬。それを君に、打ち込んだ。だからもう大丈――」
その瞬間、彼女は目を見開き、膝から崩れ落ちた。
「ちょっと、ミク!?大丈夫??」
「…………とを」
「え?」
「なんということを……してしまった……の?」
「いやそれはこっちの台詞だよ、君は何をしたか分かってるの??」
「それはこっちの台詞よ!!君がこんなことをしてくれたおかげで……私は何のために……」
「ちょっと、何を言ってるか分からないよ」
「……まあ、そうよね、分からないよね。じゃあいいわ、一緒に、結末を見届けましょ」