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あのときは彼がいた

作者: 吉田淑子

みことの住む国はきれいな国だった。汚いところなんかひとつもなかった。川だって海だって山だって澄んでいたし、商業も栄えて、暮らしている人はみんな、豊かで穏やかだった。

この国は壁で仕切られていた。いつも黒い雲に覆われている壁の向こう側を、みことはよく知らなかったけれど、なにかとても悪い、恐ろしいものが住んでいるんだと思っていた。

その中から選ばれたのは、黙ってれば上流階級の顔の「ねい」だった。変な名前だ、とみことは思った。

みことは豊かなこちら側でも特に資産家の息子だけれど、体が弱くて学校にも行けないほどだったので、友達がいなくって、それでとうとう両親が話し相手に、壁の向こうのを嫌々連れてきた。ねいを連れてきた。

「きみ、くさくないんだ」

みことがねいに初めて言ったのはこんなことだった。ねいは首をかしげて、

「意味がわからない」

と言った。みことは、ねいは頭が悪いんだなあ、と思った。

でっかい壁の向こう側は、こわくてくさくてひどいところだと聞かされていた。そんなところに住むひとはひとじゃなくてバケモノかもしれないと考えていたけれど、ねいはバケモノには見えなかった。こわくもないし、くさくもない。

きっと、ねいは向こう側でも特別いい子だったんだろうって、勝手に自分で理屈をつけた。

ねいは勉強はろくにできなかったけれど、勉強以外のことはたくさん教えてくれた。木登りの仕方、昆虫の飼い方。いろいろ。

みことはねいのことが大好きになった。ねいはみことよりも背が高くて、年が同じで、髪は黒で、目も黒で、とにかくよく笑った。いつも元気で、彼が眠ったのをみことは見たことがない。みことの世話で少しの自由時間もないのに、ひとつも文句を言わなかった。

「壁の向こう側ってどんなところなの?」

ある日そう尋ねた。ねいは、めったに顔を曇らせなかったけれど、その質問にだけは眉をひそめて、

「地獄」

それだけ言ったきりだった。みこともそれ以上は聞かなかった。

やっぱり壁の向こう側はこわいと思った。遠目に見ても、いつも黒い黒い雲に覆われている向こう側。だから、ほんとはねいのことも少しは怖かった。ねいは壁の向こう側でなにをしてたんだろう?向こう側ってどんなところ?そう考えると夜も眠れなかった。

けれど、みことが熱を出したときにそっと額の布を取り替えてくれるのや、いいことをすると頭を撫でてくれるのが好きだから、だからどうでもいいのだと思い込むことにした。

「みこと、強くなれよ」

ねいはよくこう言った。

「病気なんかに負けるな。みことはきっとえらい人になる」

両親は健康な弟ばかりをかわいがるので、それどころかみことは病気のためとかそれらしい理由をつけて家にすら帰れずずっと別荘暮らしだったので、ほめてくれるのはいつもねいだった。ねいだけだった。

みことは夜になるとたいてい気分が悪くて、しょっちゅう咳こんでいたけれど、ねいは嫌がらずに背中をなでてくれた。

「大丈夫、大丈夫。咳なんかすぐにどっか行っちまうよ」

そうやってなでてくれた。

けれど、偏見は消えなかった。食事は用意されないし、屋敷の使用人はすべて、ねいを無視していた。みことが声を上げて、ようやく食事は用意されるようになった。

ねいはそんな中でもちっとも気にしないで、勉強を覚えて、おしゃれも覚えた。もうまるで立派な紳士に見えた。その点、みことはまだか弱くて小さくて子供のままだった。鏡で青白い自分の顔を見ながらためいきをついた。ねいが代わりに僕の家に生まれたらよかったんだ、と思ったりした。


ねいは化学が好きだった。よくよく熱心に化学の本を読んでいた。

「なぜ化学が好きなの?」

尋ねると、

「うん……」

ろくに聞きもせず、ずっと読みふけっていた。なんだか、化学に負けたみたいだった。

「ふん、いいよ。僕だって本を読んでやる」

本を読み始めたが、すぐに飽きた。

「やっぱり絵を描こう」

みことの、唯一と言っていい特技が、絵を描くことだった。

「本物の百合より、ずっと百合らしい。香りがしそうで、肉厚で、うんと生々しい」

前に、ねいにこう言われたことがとても嬉しくて、最近花ばかり描いている。でも、最近はあまり、ねいの気に入る絵は描けなかった。

「また花を描いてるのか」

集中しているときに話しかけられて、みことは驚いて、振り返った。

「うん。ねい、化学はもういいの?」

「ああ」

「この絵、どう?」

「上手いと思う」

「それだけ?」

「おまえ、人の気に入るように描くのなんか、画家でもないくせに、バカバカしいからよせよ」

「だって、ねいに褒められたとき、嬉しかったんだよ」

みことは、言ってから少し恥ずかしくなった。褒めることを強要しているみたいで。

「いつも褒めてるだろ。みことは絵が上手い。俺は絵が下手だから、よけいに上手いと思うよ」

「ねいは、絵がへたなの?ちょっと描いてみて」

「ほら」

さらさらと紙に描かれたのは……

「鳥?」

「車!」

本当にへたくそだった。ひとしきり笑って、するとねいが不機嫌になって、「もう寝るぞ」と、みことをベッドに放り投げた。

ベッドの中は、優しいから好きだ。柔らかくて温かい。

「ねいはどうして、化学が好きなの?」

先ほど聞いてもらえなかった疑問を投げ掛ける。

「魔法みたいだから」

「化学が?」

「うん。何でもできる。人を助けたり楽しませたり……こんな風にさ、魔法が使えたら、みことはどうする?」

「うーん……」

みことはしばらく天井とにらめっこして、

「ねいが幸せになるように」

と言った。

「ねいは?」

「じゃあ俺は、みんなが幸せになるように」

「ちぇっ、なんだ、僕がねいのこと考えてたのに」

「みんなには、みこともいるんだぜ」

「フーン」

みことはなぜか、ぜんぜん嬉しくなかった。ねいが来てから、うんとわがままになった気がする。


ある日、ねいが言った。

「みことは、立派な大人になる。咳も出なくなるし、誰よりも格好の良い紳士になる」

びっくりして、まばたきを二三度繰り返した。

「どうして、そんなこと言うの?」

「この前話したろ。魔法を使ったんだ」

――みんなが幸せになるように。ねいの声を思い出した。

「みことには、特に強い魔法だ」

「そっか」

なんだか、いつものねいと違っている気がした。不穏な匂いがした。それでも、それを感じていないふりをして、みことは笑った。ねいはまるっきり様子がおかしかった。ため息をつく。部屋をうろつく。独り言をつぶやく。ぼんやりする――

実は、理由は知っていた。昨日、こちらに来ているごく僅かの向こう側の人間たちが壁の破壊のために結託して、計画を実行した。彼らはすぐに捕まり、あっという間に処刑が決定した。

ねいは、その知らせを見て、青ざめて今にも倒れそうだった。新聞なんか、隠しとけばよかったと、みことは後悔した。

――みんなが幸せになるように。みんなが――

壁の向こうには、なにがあるのだろうか。パンドラの箱みたいに、疫病、悲嘆、欠乏、犯罪に満ちた世界だとしても、希望だけはあるんじゃないだろうか。

「ねえ、ねいは向こう側なんて戻りたくないよね。ここにいたいよね」

ねいは頷かなかった。ときどき、遠い目をする。

「そこから黒い雲は見えないのに」

とみことが言うと、ギッと睨まれた。


この頃、みことはちょっと背が伸びて誇らしい。反面、なんだか恐ろしい。昨日から体が痛くて、今日にはまた背が伸びた気がする。このままでは、自分はとても変わってしまうんじゃないだろうか。柔らかな声を、輪郭を失い、それでも自分なのだろうか。だとすれば、心は少なくとも声や輪郭には棲んでいないのだ。否、少しは棲んでいて、その容姿の変貌と一緒に変わっていくのかもしれない。みことは、少し強くなった気がしていた。もうあまり、絵も描かない。褒められようとは思わない。

ねいは、日々顔色が青ざめてくる。この頃ではすっかり咳も出なくなったみこととは対照的だった。まるで、みことがねいの生気を吸い取っているみたいだった。


「ねい、僕は元気になったから、学校に行くことにしたんだ」

ある日、みことはこう言った。晴れた、暖かい日だった。ねいは、「そう」とだけ言った。

「ねい!ねいも一緒に学校行こうよ!ねいなら学校でも人気者になれるよ」

ねいは笑った。久々に見る笑顔だった。

「学校に入ったら、たくさん友達つくるんだぞ。寂しくないよう」

「うん。でも、やっぱり、ねいと一緒がいいよ」

「みこと。もう、俺がいなくても平気だろ。みことはもう、立派な紳士だ」

「平気じゃないよ。それに、ここを離れて、ねいはどうするの?どうなるの?どこに行くの?」

ねいは黙ってみことを抱きしめた。みことは、最初抱きしめられたことに驚いて、その後、彼のあんまり感触の軽いこととか、体温を感じないことに驚いた。少し前まで、あんなに頼りにしていた腕なのに、今でははかない。

「ねい」

「みこと、見てろよ。あの壁、ぶち壊してやるよ」

「あの壁……」

『向こう側』を塞いでいる、あの高い高い壁だろうことは容易に知れた。

「俺しかやれないんだ。そのために魔法も勉強した」

「だめだよ!」

みことは以前のニュースを思い出した。関わった者は全員処刑――処刑の意味くらいは知っていた。

「みこと。おまえには、ずっときれいなものだけ見せていたかったけど、やっぱりダメなんだ。背が伸びて、声が変わったろ?おまえは大人になる」

「大人に……」

「これだけ忘れないでほしい。愛してるよ。唯一無二の友人、かわいいみこと!」

みことは、この手をはなしてはいけないと思ったのに、気付いたらねいはみことの手を振り切って、どこか見えない場所へと行ってしまった。

しばらく経って、例の壁が破壊され、向こう側に押しやっていた、大量の汚いものが流れ込んできた。みことの住む国は、きれいなだけではなくなった。ごちゃまぜになって、でも、みことはそれでようやく、本当に自分の国は美しいのだと理解した。

壁を破壊した人間は、大量の爆弾を身にまとっての自爆でそれを成したそうだ。『向こう側』の人間には爆弾を作る知識がなかったから、こちら側のわずかな人間で実行したらしい。その中にねいがいたかどうかはわからない。

ねいのことを語ろうとするとき、ふと、相手がいないことに気付く。使用人は口を揃えてそんな者はおりませんでしたと言う。坊ちゃんが宙に向かって話しかけるので、仕方なく食事だけは用意していた、と。そういえば、ねいが食事している姿を思い出せない。

今ではすっかり学校にも慣れて、友人もたくさんできた。けれど、一番の友人はずっとねいだけだ。みことが病気のときにはずっと居てくれて、元気になったら途端に手を離したねいは、もしかしたらみことの理想の幻だったのかもしれない。みことは多感な時期をあまりに孤独に過ごしていたから、友人を作り出したのかもしれない。明るくて、優しくて、力強くて、何もかも知っていたねい。写真どころか、髪の一本も残さず消えたねい。幻でもなんでも、彼がいなかったら、みことはもっとねじくれた、嫌な人間になっていただろう。

みことはときどき、昔のスケッチブックを引っ張り出す。絵には自信があった。だから、この鳥みたいな車みたいなへたくそな落書きを見るたび、首をかしげる。

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