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ユリウスとルシアの婚約については、瞬く間に人々に知られることになった。
彼がルシアを横抱きにして去って行ったことで、一部のお嬢様方は妄想がオーバーヒートしているらしい。
障害が多いほうが、恋は燃えるのよ、などといいネタにされている。
「なんで、俺はお前の婚約者を見れないんだ?」
黒い猫が人の言葉を喋った。
「本当は誰にも見せたくなかったんだ。あなたに見せるわけがない」
そこはユリウスの自室。
パラパラと書類に目を通し、必要なものだけ抜き取る。
「お前のほうが俺よりよっぽど、魔王らしいな」
猫は呆れた様子で、ユリウスの仕事机に飛び乗る。
「俺に死んだふりをさせるなんて、恐ろしいやつなのは確かだな」
この黒猫こそ、ユリウスと取引を交わした魔王だった。
この事を知っている人間は、ユリウスとジュードしかいない。
「あなたが、そこら辺の魔法使いより正義感があって使える人材だと判断したまでです。殺す理由がない」
魔王はユリウスのもとで、諜報活動をしている。
彼は700年前は人間に復讐していたが、マテマの記憶を覗いて方針を変えていた。
魔王はもとは魔法使いだった。
貧しい身だったが、妻子を持ち幸せに暮らしていた。
しかし、腐った貴族にふたりを殺され、彼は怒り狂った。
気がつけば禁術に手を出し、こんな腐った世界など滅べばいいと暴挙を成した。
なぜそんな彼が、不正を行うものだけに罰を食らわせることにしたのかと言うと、マテマが戦姫エーデに殺されたから。
マテマは、誠実に、懸命に、生きているものまで苦しめることが許せず魔王の討伐に参加した。
孤児である彼女は貧しい人々のために尽くし、命を救ってきた。魔力がない彼らにも平等な社会を作るために、魔法陣まで生み出し、まるで聖女のようだった。
そんな彼女が殺された。
魔王、いや、ゼファエルは正しい者が死んでいくことが許せなかった。
マテマが死んだのは自分のせいでもある。
来世で幸せになろうと、自分の死を知りながら魔王の討伐に参加したマテマの為にも、封印から解放された今は悪行を積んだものを狙って苦しめた。
封印から放たれた彼は、魔王なんて見た目だけで、中身はまるで善人だった。
700年という時を封印の中で過ごしたゼファエル。罰は十分といっていいほど受けただろう。
もしもの時には責任を持って命を救ったユリウスが対処することにし、彼らはゼファエルを受け入れていた。
「……でも、そうですね。ルシアに手を出そうとする輩への対処は何よりも優先して欲しい気はしますね」
「どーせ、お前、婚約者のことを自分の所有物だとでも思ってるんだろ?」
「それが何か?」
「こいつ、ありえねぇ」とゼファエルは心の底からユリウスを軽蔑する。
「お前の育て方が悪いんじゃねーのか、アズベル」
「ユリウス様がわたしを召喚したのは、5歳の時です。その時には手遅れでした」
「嫌な餓鬼だな」
ユリウスは満面の笑みをふたりに向けてから、仕事に戻る。
「こえ〜。こんな奴の婚約者なんて、その子も可哀想だな」
ゼファエルは机から降りて、アズベルの足元へ。
「とても美しいお嬢様ですよ。しかし彼女は視力がほとんどないので、そのことがわかっていないのです」
「目が見えないのか?」
ゼファエルは驚いた表情で、ユリウスの方を見る。
目が不自由なのに、こんな男がパートナーなんて、なおさら大丈夫なのか心配になった。
心中を察したアズベルはしゃがみこむと、小声でゼファエルに話しかける。
「ユリウス様が幼い頃、魔力を暴走させた時に、助けようとして。彼女は全く魔力を持っていませんから、直接、目に光を浴びてしまったのです」
「へぇ。それは不運な」
「ユリウス様はずっと視力を元に戻す方法を探しておられるのですよ。本人は自分の気持ちについては超がつくほど鈍感ですけれど、彼女を大事にしていることには変わりありません」
アズベルはグッと親指を突き立てて、ゼファエルから離れる。
「ふーん。魔導師マテマが生きていれば、目を治してもらえたかもな」
ガタンっ、と椅子が倒れる大きな音が部屋に響く。
「ゼファー、今、なんて?」
いつになく真剣な表情のユリウスに、ゼファエルは思わず一歩後ろに下がる。
「魔導師マテマなら、視力なんて簡単に元に戻せただろうって言ったんだよ」
それを聞くと、ユリウスは勢いよく立ち上がったせいで転がった椅子なんて無視して、つかつかと彼のもとに行くとゼファエルを持ち上げた。
「700年前の魔王討伐であなたを封印した魔法使いのこと?」
「魔法使いじゃなくて、魔導師だって言ってるだろう。あいつは魔法も使えたが、魔法陣の使い手だ。魔法陣を生み出した創始者といっていい。ま、そのせいで魔王討伐に紛れて戦姫エーデに殺されたがな」
「殺された? 英雄マテマが?」
ユリウスは耳を疑う。全く史実には書いていない話だ。
「あいつが編み出した魔法陣っていうのは、道具と知識さえあれば誰にでも魔術が使えるものだ。貴族どもにはそれが不都合であいつは消された。だが、マテマもお前と同じ精霊の愛子だった。魔王討伐後、国は長雨が何ヶ月も続いた。慌てて王も、マテマを英雄として讃えて、許しを請うたんだよ。反吐が出る。だから人間は嫌いなんだ」
術者のマテマが魔法の発動中に殺されたため、封印は中途半端だった。ゼファエルはその場に縛り付けられ、ずっと世界を見ていたのだ。
「あいつが生み出した魔法陣については、すべての記録が消された。殺されると知りながら、それでも俺を封印しに来たんだ。最後に『来世では幸せになれるといいね』なんて言い残しやがって。とんだお人好しだったよ。…………いい奴だった。だが、殺された。あいつ以外に魔法陣を知ってるやつはいない」
「……そうか」
話を聴き終えたユリウスは、力なくゼファエルを床に降ろす。
ゼファエルはアズベルと顔を見合わせた。
(なんだ。案外、人間らしいやつだな)
静かに机に戻っていったユリウスの背中は、いつもより小さく見えるのだった。
「おい、アズベル」
ゼファエルはアズベルを呼ぶ。
耳を傾けるアズベルに、彼はこっそり聞いた。
「なんで、あの餓鬼は魔力の暴走なんてしたんだ? 精霊がついていれば、滅多に起きないだろ」
「……魔眼の幻術にかかってしまったんですよ」
「魔眼だと?!」
ゼファエルが突然大きな声をあげるので、アズベルは耳を抑える。
「オイ、魔眼が今もこの世界にあるのか?!」
焦った様子のゼファエルに、仕事をしていたユリウスも手を止める。
「ルシアが壊してくれたものは、厳重に保管してある。自分が情けなくなるからその話はやめてくれ」
ユリウスは先ほどの話の後で、見るからに機嫌が悪い。しかし、ゼファエルそんなことはお構いなしで話を続けた。
「俺はそんなことを聞いてるんじゃない! あれは人の憎悪を食らう悪の根源だ。俺が魔王になったのもあれの力を利用した禁術を使ったからだ。そんなものがまだこの世界にあるとなると、第2の魔王が現れるぞ!」
深刻な訴えに、ユリウスは魔眼に自分が飲み込まれそうになった時のことを鮮明に思い出した。
「ゼファー。その話、詳しく聞かせて」
急遽ジュードも呼び、会議が開かれた。
黒い玉、すなわち魔眼と思われるものの存在を確認したところ、恐るべきことに五ヶ所でそれらしきものがあったと報告された。
「あった」とはつまり、今はない。
何者かに持ち去られた可能性が高かった。
「5つも魔眼を集められたら、相当不味いことになるぞ」
ゼファエル曰く、彼が魔王になる為に使った魔眼はひとつだそうだ。それでもかなりの闇の力を使えるようになるので、5倍になればユリウスでも相手になるかわからないらしい。
「魔眼が5つすべて無くなっているのは、不自然だ。誰かが集めたと考えるのが妥当だろう。となると、早急にその犯人を見つける必要があるな」
ジュードは今までになく落ち着いていたが、その静けさは怖いくらいだった。
***
所変わってオーランド家。
ルシアはその日、夢を見た。
『マテマ。我の倅がやられた』
大きな赤いドラゴンが、震えている。
すぐにテレサだと気がついた。
『テレサ様? 倅って、息子さんがいたんですか?』
『ああ。300歳になる可愛い息子が、闇の魔法使いの餌食になった』
闇の魔法使い、と聞いてルシアは肩を揺らす。
『奴は魔眼を5つ集めておる。我の倅を禁術で、闇の破壊者にするつもりだ』
『魔眼を5つ!?』
彼女は驚きを隠せなかった。
700年前のゼファエルとは、強さの桁が違う。
『そなたが魔法陣を使いたくない気持ちもわかる。だがな、マテマ。このままでは本当に世界が崩壊する』
嫌な汗が額を流れる。
これはただの夢であって欲しいが、テレサの魔法だとわかっていた。
『それに考えてみろ。奴の相手をすることになるのは、そなたと共に我に会いに来た小僧だぞ』
ルシアは目を見開く。
『ユリウス様が……』
想像しただけでも、喉は乾き、手には汗がにじむ。
『マテマ。我の倅を助けてはくれないか』
ドラゴンは大きな体をルシアの前で地に伏せる。
テレサは前世からルシアに力を分けてくれた恩人だ。
彼女が困ったときには助けると、マテマの時に誓っている。
『……覚悟を決める時が来たみたいですね。もしかすると、このために私は生まれ変わったのかもしれない』
『…………マテマ』
夢の中では、テレサの姿がはっきり見える。彼女も息子のために戦ったのだろう。よく見れば身体中傷だらけだった。
恩人の願いを無下にはできないし、何よりユリウスが危ない。最悪の場合、彼を失うことになるかもしれない。
ルシアの意志は固まっていた。
*
ユリウスは、ゼファエルの助言も受けて、魔眼の探知に成功した。
犯人は東の山脈を越えた草原地帯に潜伏しているようだ。
彼はこの国の魔法使いが着るローブを羽織って、準備を終えた。
「必ず帰ってくるんだぞ」
見送るジュードは遣る瀬無い気持ちでいっぱいだった。自分も筆頭魔法使いとして、この危機を打開するためにユリウスとともに任務に向かいたかった。
しかし、ユリウスからすれば、他人は足手まといでしかない。
「わかっています。ルシアのもとに寄ってから、行くことにしますよ」
本人の自覚は怪しいが、ユリウスには愛する人がいる。まだ、こんなに若いのに、その肩に乗る重圧は想像もつかないものだ。
「ああ。姫君を待たせるのは、紳士の恥だぞ」
「はい」
ジュードの言葉に、ユリウスは笑いかけるとルシアのもとに飛ぶ。
「うわ! びっくりした! 部屋に直接くるなんて珍しいですね」
彼女はとても驚いた様子だった。
机に座り、ガラスのペンを握っている。
勉強中だったのかもしれない。
「ユリウス様、その足元の黒いのは?」
「猫だよ。これでも魔法が使える猫なんだ」
「これでもってなんだよ。そして別に俺は猫じゃねぇ」
「しゃ、喋ってる」
ルシアは喋る猫に興味を引かれたようだ。
「いつから、猫を飼ってたんですか?」
「つい最近だよ」
「そうでしたか。お名前はなんて言うんですか?」
「ゼファエルだ」
猫の言葉を聞いて、ルシアはまさかと思う。マテマの記憶が蘇り、魔王の声と猫の声が確実に合致した。
「嬢ちゃんも大変だな。こんな腹黒が婚約者だなんて」
「……ユリウス様。この猫、どこで?」
「色々あってね。わたしが面倒をみることになったんだよ」
「そうですか。触ってみてもいいですか?」
猫はこれ見よがしにルシアの膝に乗る。
魔王だとわかっているユリウスの眉間にシワが刻まれた。
ルシアはゼファエルを持ち上げ、小さな声で言う。
「ユリウス様を困らせるようなことをしたら、ただじゃおかない」
突然の脅迫に、ゼファエルは毛を逆だてる。
シルバーの瞳はものが良く見えないらしいが、全てを見通されている気分になった。
ルシアはゼファエルを下ろす。
解放されたゼファエルは、すぐにユリウスのもとに戻った。
(ユリウスもユリウスだが。こいつもヤバそうなやつだな)
「で、今日はその猫を私に見せに来てくれたんですか?」
ルシアは話を切り替えた。
ユリウスはいつもと違う服を着ているようだし、こんな風に登場するのは、何か嫌な予感がする。
「いや。任務の前に、君の顔を見に来たんだ」
「……任務」
どうやらユリウスたちも、魔眼に気がついていたようだ。ルシアの準備はまだ少し残っている。
「どんな任務なのですか」
「詳しいことは教えられないんだけれど、いつもよりちょっと危ない任務かな」
「それはひとりで?」
「ゼファエルとアズベルがいるよ。そんな心配そうな顔をしないで。わたしは〈精霊の愛子〉だ。すぐ終わらせて会いにくるから」
ユリウスはルシアの頬に手を添えた。
彼女はその手を上から握る。
「いいえ。いつもあなたが来てくれるから、今度は私があなたを迎えに行く番。すぐに行きますから、ちゃんと無事でいてください」
「はは。じゃあ、その前には終わらせないとね」
ユリウスは彼女の言葉の真意を知ることはできなかった——