表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

平和教育、やるならやれ。

作者: 山中 孤独




 日本は平和教育が遅れているように感じる。

 平和「教育」というものがそもそもおかしいという主張に一定の妥当性がある当たり、もしかしたら遅れているという言い方も不適切なのかもしれない。


 「二度と戦争の惨禍が起ることのないようにする(憲法前文)」にはどうすればいいのか。

 日本国民の中にこの問いの答えを持つ人がどれだけいるだろうか。

 憲法学や平和教育の名の下に、憲法九条について議論も巻き起こる中で、この答えを日本国民が持つ必要があるのではないだろうか。


 求めすぎかもしれない。だが、良賢なるエリートは答えを堅持していなければならない。

 たとえ民主主義が揺らごうと、立憲主義が揺らごうと、日本を担うエリートは日本が太平洋戦争の引き金を引いた過去に向き合い、立場を示さなければならない。

 

 歪んだ平和教育を正義とするのなら、平和教育などしなくてもよい。

 

 戦争はなぜ起こるのか。

 平和とはどういう状態なのか。

 軍隊はどうして存在するのか。

 戦争を防ぐにはどうすればいいのか。


 平和教育を「悲惨さ」の自慢大会と勘違いする日本人の悪しき風習は切り捨てなければならない。

 もうすぐ「悲惨さ」を伝える世代は、この世界から消滅する。

 それと同時に日本は、平和教育を考え直すかつてない機会に恵まれる。


 自分が戦争の引き金を引かなければ良い、というエゴから脱却せよ。

 意志を強制させようとする他国の意志を粉砕しなければ、戦争は防ぎえない。

 平和主義を唱えるからには、その責任を果たすべきである。

 暴力以外の方でも他国の意志を粉砕しうるのだから、それに対して全力で取り組むべきである。


 口を開けば開くほど、自分の無知が嫌になる。

 戦争のことを語るとしても、人より戦争について知っているように錯覚しているだけで、本当は何も知らないという恐怖と戦わなければならない。

 それでも激動の時代をただ生きていただけで自分の視野だけど「悲惨さ」を語る資格を得ている人々の声だけがまかり通る世の中に抵抗するには、声を張り上げなければならないだろう。


 今までは祈るしかできなかった。

 「悲惨さ」の語り手が腐るほど、この国を腐らせるほどいたからだ。

 だが、もう少しで時代が変わるのだ。

 声を張り上げなければならない。


 「戦争反対!」――なら、その戦争を防ぐためにどうするのか?

 「九条守れ!」――自衛隊の存在とどう向き合うのか?

 「立憲主義を守れ!」――国民主権を守ることに向き合わなくていいのか?


 「悲惨さ」を知っているならなぜ日本人は、戦争を無くそうとしないのか。

 平和教育において、なぜ未だに太平洋戦争のことを語るのだろうか。


 「悲惨さ」の語り手を完全否定するわけではない。

 むしろ、自分は被曝三世であり、「悲惨さ」の語りの中で自己を確立してきたからこそ、彼ら彼女らの話を否定するつもりはない。

 だが「悲惨さ」の語りの中において、それ以外の声に耳を向けることが難しくなっているあまりに、価値観の排除につながっているのだ。

 憲法でいくら思想の自由を認めたとしても、その声が大衆に受け入れられないのなら、ホロコーストも太平洋戦争もエチオピア併合もズデーテン割譲も何もかも止められないのではないだろうか。

 

 教育の暴力性に目を向けよ。

 教育は他者の未来への干渉であり、危害行為と紙一重である。

 それをどこまで理解して教師になろうと思うのだろうか。

 啓蒙思想だけにかぶれて教師を目指す人間は沢山いるが、彼らのどれだけが責任を感じているのだろうか。

 教育が民主主義や資本主義に大きく貢献するのも事実だが、その裏側にあるものを見なければならない。

 ユーゲントを量産するのも教育なのだ。


 日本は特殊な国だ。

 島国が世界に五十弱ほどあるが、日本ほど独自に文化を築いた国家は他にないだろう。

 イギリスも、ケルト人、アングロサクソン人、ノルマン人と入れ替わり、大陸との近さ故に混ざり合った文化を持つ。

 日本も中国から様々な文化を輸入したが、それを独自の形で進化/深化させてきた。


 19世紀まで、圧倒的に整備された官僚制に基づく米本位制という奇妙な封建社会を実現していた。

 そこから圧倒的な文化吸収力で、西欧と肩を並べ、太平洋戦争を経て、経済大国になった。

 西欧に限りなく近いアジアの国でありながら、その文化的根幹は何もない。

 何もないというと、誤解を生むかもしれない。

 だが、秘伝のタレと同じだ。日本人というベースに、中国、欧州、米国と様々な国の文化を継ぎ足してきたのだ。

 日本人の国家の文化的根幹が日本人であること、というトートロジーなのである。


 少し偏った思想かもしれない。

 また、日本は特殊な国だから特別であり偉大なのだ、と主張したいわけでもない。

 この特殊さに目を向けて、太平洋戦争の加害者/戦争の被害者という短絡的なアイデンティティから脱却して、もう一度「日本文化」を築いていこうという提案がしたいのだ。


 平和教育だけではない。教育は他者への暴力的な干渉である。

 太平洋戦争の反省をいつになったら始めるのか。

 戦後はいつになったら終わるのか。

 答えを出さずに「悲惨さ」を押し付ける暴力は、「万歳!」を強要するのと何ら変わらない。

 「自由」や「権利」すらも押し付けるような事例が見られる。

 

 教育するなら教育する覚悟と制度をきちんと用意しろ。

 適当に「悲惨さ」を押し付けて教育してると自己満足するだけなら、やらないほうがマシだ。

 

 もう一度言うが、もうすぐ「悲惨さ」の語り手はいなくなる。

 その時に、平和教育を考え直さなければならないが、今から考え直すことは可能だ。

 むしろ「悲惨さ」の語り手がいる今のうちに、別な平和教育が用意されるのが理想だろう。

 

 

 私の意志が砕かれるまでは叫ぶだろう。 


 「敵の意志が屈服されぬ限り、戦争の終結はない」




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 最近は韓国とか『蛙の楽園』なんかのお陰で平和ボケもだいぶ見直されて来ましたけど、そうやってちょっと修正されたかと思うと「北方領土は戦争で取り返せ」と煽る議員が出て、まあ役体もなく単純なこと。…
2019/06/15 22:15 退会済み
管理
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ