第十話
安普請の家が建ち並ぶスラムにおいても、遠くからでも一際目立つ建物を目指して私は傘を差して歩いていた。
向かう間に日は沈み始め、厚い雨雲のせいで暗くなるのが早くなったのもあり明かりの少ないこの場所では先が見通せなくなる程闇が濃くなっていく。
「……失敗したわね。もっと晴れた日の日中に行くべきだったわ」
雷鳴の音も響きつつある、遠からず土砂降りになるだろう。
伏魔殿と呼ばれる場所に行くにあたって今の状況は雰囲気は抜群だが、別に戦いにムードなど不要な私には煩わしいだけだった。
「しかも、目的の場所の様子がおかしいときてる……私が来るのを読んでいたわけじゃないと思いたいわね」
遠くからだと分からなかったが、近付いていくと様子がおかしい事に気付く。
まだそれほど遅い時間ではないと言うのに、館に明かりが一つも無かった。以前あの場所を見た時には外からでも分かるほど爛々と明かりが灯され、ただでさえ不気味なあの場所を更に酷いものにしていたのだが。
4本の剣が提げられたベルトを締め直す。もし戦いになった時に、相手は一人とは限らないのだ。全部駄目になる前に終われば良いのだが……。
館の門扉に手を掛けると、鍵が掛かっていなかった。不用心なのか、誘っているのか。
敷地の中に入ろうとして、足元から鉄の擦れる音がした。私は身体を前に投げ出すと、バランスが崩れた所で正面から風切り音が近づいてくる。そのまま鞘から剣を抜き打って私はその飛翔物を叩き落とした。
弾いた物が乾いた音を立てて転がっていく。確認すると、飛んできた物は鉄で出来た太いダーツだった。
小さく息を吐いてから立ち上がり、後ろの様子を見ると、ちょうど入り口の地面から黒く鈍い光を反射する槍が飛び出している。前に飛び出さなかったら身体を貫かれていただろう。
「……服が汚れるじゃない」
私から置いていかれた傘は貫かれて使い物にならなくなっていた。取り敢えずこんなふざけた物を置いた奴を困らせる為に、
飛び出した槍を八つ当たり気味に蹴りつけて元に戻らないようにしてやる。
それにしても、この殺意に溢れた罠が正面だけにしか存在しないという事は無いだろう。
寧ろ、館へ辿り着く距離が伸びる横や裏から無理に入ったらどうなるか――私でも試したいとは思わなかった。
息を大きく吸って、館の入り口を目指し地面を蹴った。背後から金属音が何度も響いていく、一体幾つ仕掛けてあるのやら。
そのまま駆け続けた私は勢いをつけて入り口の両扉を蹴破ると、中の様子を窺う。室内も明かりが全く無かった。
外でさえ雨雲で月明かりが届かないというのに、こうなると目が慣れていても視界が充分とは言えなくなる。
「相変わらずアンブレラさんは元気ですね」
玄関ホールから2階へと続く両階段の手すりを撫でながら、片手にランタンを持って館の主人が降りてくる。
普段は整えられた男の服装は、今日に限って赤黒い血に汚れていた。
「どうやら立て込んでたみたいね。折角の服が台無しになってるわよ?」
「……?ああ、これですか。別に大した事じゃありませんよ。ちょっと家畜の屠殺をしましてね、思ったより暴れてしまって困りました」
私の視線を感じたのか、ザペルは肩をすくめながら服の汚れの原因を話し始める。
言葉遊びが趣味の奴の事だ。家畜の屠殺がそのままの意味では無いのは分かっている。
きっと敵対した相手を捕らえてそのまま嬲り殺しにでもしたのだろう。まあ、加虐趣味なのは私も同じなのだから否定するつもりはない。
ただ、本当に大した事がないという風に言うあの男の神経は私には分からなかった。
私ならば相手を殺す段階になったら怒りやら、喜びやら何かしら思う事があるのに、ザペルにはそれすら全くなさそうに見える。
あれはただのポーカーフェイスなどでは断じてない。本気でそう思っているからこその発言だと私は直感した。
「それより、そろそろ来られる頃だと思っていましたよ」
そして、どんなマジックを使ったのかはわからないが、やはり、ザペルは私が来ることを読んでいたようだった。
私の部下に情報を漏らしている者でも居るのか?いや、私がここに来るのを決めたのは今日で、話をしたのも出る直前になってからだ。
適当に言っているのか、本当に知っていたのか、情報が少なすぎて私には判断出来ない。
いや、そんな事などどうでもいいだろう。私は私の目的の為に来たのだ。
女王を連れ戻すという名目で、ザペルと戦えればそれでいい。
「へえ……なら話は早いわ。あの娘を連れてきなさい」
もちろん断るだろう。ザペルが娘を攫った目的はわからないが、今も館に居るならば何か手放さない理由があるはずだ。
それか、既に女王は死んでいるか……何れにせよ、後のザペルの言葉で私が悪魔と戦う理由が出来る。
――いや、おかしい。戦う理由なんて私には不要な筈だ。
やり合っていいと思ったならば、口に出す前に常に行動して来た。何故今になってそのような思考を私がした?
相変わらず、コイツと話すと調子が狂う。
「もちろん、今呼びますね。少し待って頂けますか?」
私の予想に反して、ザペルはあっさりと承諾し娘を連れてこようとする。直ぐにランタンの明かりが遠ざかって、悪魔は見えなくなっていった。
雨音だけがホールに響いていく。
一人になった事で、頭の中が冷えていった。自然と浮かんだ思考はザペルの事だった。
目立つように女王を攫って少し経ってから解放する意味はなんだろうか?国の機密を知りたいのならば、わざわざトップを攫う必要は無いだろう。
他にも国の裏を、それこそ女王より知る者は多いし、攫わなくても今の貴族の現状ならば金さえ渡せばペラペラと情報を喋ってくれる筈だ。
何しろ噂になっていたとはいえ、女王の誘拐をそれこそ周りに耳が沢山ある中で話し始める程に、今の貴族は口が軽いのだから。
「相変わらず、意味のわからない男だ……」
やはり、策略を巡らすのは私の本分ではないな。全く意味がわからない。
何、ザペルが何かを企んで私を害するならば、力でその策ごと食い破ってやる。それでいい。
私の中で簡単な結論が出た所で、杖を突く音が近づいて来る。
娘は怪我でもしているのか?確か女王は健常者だった筈だ。公の場に顔を出す事もある彼女にそのような話は聞いた事が無い。
「お待たせして申し訳ありません。ほら、グラディエルちゃん。お迎えが来たようですよ」
ランタンの僅かな光でその姿が浮かび上がった時、まず目に入ったのは手に持っていた禍々しい杖だった。
地面から少女の頭まであるその長い杖の先端には山羊の頭蓋骨が刺さっていて、暗い眼孔がこちらを見つめていた。
「死神様。確かに今の私はグラディエルですが、もう一つ遥か過去から魂に刻み込まれた真名が有るのです」
闇の中でさえ浮くような、暗い色のローブを身にまとった人物が答える。胸には幾何学模様を象ったペンダントが提げられて、中心には大粒の宝石があった。
グラディエル。確かにこの国の女王の名前だったはずだ。しかし、フードによって顔がよく見えないせいで判断が出来ない。
「私はマルファ。72の魔の落とし子にして創造と情報を司る者」
少女の声をした誰かが、フードが取り払って素顔を見せる。
ああ、以前見たことのある顔だ。あれはそう、一年に一度、この国の王がこの街の一番大きな広場で演説をする時に見た顔だ。
今はもうやらなくなっていたが、前の王が演説台に立った時に、後ろに控えていた子が目の前の少女だった気がする。
「ザペル……洗脳したのか……?」
だが、目の前の少女は変わり果てていた。
支離滅裂な言動で、人間らしくない格好で、爛々とした目で、私の事を見ていた。
以前と変わらない顔なのが余計に気持ち悪さを駆り立てた。一体何のために、あの悪魔はこの少女を作り替えたんだ……?
「洗脳なんて人聞きの悪い……私は彼女を保護しただけですよ?ただ――ちょっと私の家でゆっくりして貰いましたがね」
そう悪魔は悪びれる事なく言うと、傍らの少女の髪を撫でる。
魔女の格好をした女は、その手に自らの手を重ねて、恍惚とした表情で小さく息を吐いた。
「グ……マルファちゃんは甘えん坊ですね。さあ…………マルファちゃん。あの人に付いていって下さい」
「はい」
悪魔に言われるままに魔女は明かりを持たされると、ゆっくりと近付いてくる。
提げられた剣の柄に手が伸びる。もう、彼女は駄目だろう。寧ろ、死んでいた方が幸せだったのではないだろうか。
楽にしてやろうと思ったが、寸の所で手が止まる。まだ重要な事を聞いてないのを思い出したからだ。
――何故この状態の少女を私に預けようとする?
「一体何が目的なんだ……?ザペル、答えろ!」
「何って……決まっているでしょう?この子を家に返してあげるんですよ」
王宮に返すだと?この状態の少女をか!?
とても、政治が出来るような精神状態には見えない。いや、それが狙いなのか?
今でこそ服装のせいで奇妙な事になっているが、顔が変わっているというわけではない。きっと着替えてしまえば相手は気付かないだろう。
そして、おかしくなった彼女をコントロールする術を持った目の前の悪魔が、後ろからこの国を手に入れようと――
「悪魔様、ですか?」
「何……?」
少女が、私の顔を覗き込む。
「悪魔召喚の儀式、成功したのですよね?ああ、意外に悪魔様って綺麗ですね……」
何を言っているのか私には理解出来なかった。ただ、目の前の少女が哀れだった。
少し前にも同じく女王を哀れと思っていたが、今は心の底から同情している。そして、今の私にもこのような感情があったのかと私自身驚いていた。
そして、ようやくザペルと話していると調子が狂う理由がわかった。
私とザペルは同じだと思っていた。恐怖で相手をコントロールする、ただ手段が違うだけだと。
でも、今回の件でわかった。私はムカつく奴をぶん殴った事もあるし、今日は不意打ち気味に貴族の首を刎ねたし、沢山の犯罪者を殺してきた。
決して私は綺麗な人間とは言わないが……それでもコイツ程邪悪じゃない。
そして、何故コイツと話すと調子が狂ったり、何だかんだ今までやり合ってこなかったのか理由も分かった。
心の底では本当は恐れていたんだ、ザペルが時折見せる邪悪が私の身に影響を及ぼす事を。
「ザペル……私の柄じゃないのは分かっているんだけどね、こんなの見せられたら私も黙っていられないんだよ」
鞘から剣を抜き去って、切っ先を悪魔へと突きつける。
恐怖は私のアイデンティティだ。いつまでも他人に主導権を握られちゃ堪らない。
まずはこの悪魔の魂胆を砕き、私の身に宿る恐怖の元凶を乗り越える。そして――改めてこの世の全ての恐怖を支配してみせる。
「今から本気でこのお姫様を助ける事に決めた。悪魔――いえ、魔王の方が今のアンタにはしっくりくるわね。魔王、お前を討つわ」
―数時間前―
「シ、シドラさん……アレ、本当に大丈夫なんですか!?いくらボスでもあの格好は見たらドン引きしますよ!?」
「………………ご主人様が欲しがった物は何でも与えろと申されましたので」
「何かボスのせいにしてませんかぁ!?」
いつも、皆さんのポイント評価感想有難うございます。
レビュー嬉しいです。こういうものを貰ったのは初めてなので感動しました。
これからもこの作品を宜しくお願いします。




