プロローグ
一人の男が少年に命乞いをしている。
「やめろ…悪かった、見逃してくれ…」
少年が、表情を変えず倒れた男の頭を踏み潰す。
黒い目には何の感情も浮かんではいない。
雑に伸ばした黒髪を掻き、少年は男の死体をバラし始めた。
溢れる血を気にもとめず、男の体を素手で引き裂いていく。
手をさらに奥に入れ、心臓を掴み出すと、少年はそれを躊躇いなく口に運んだ。
ここは、"S.L.ウォール"と呼ばれている。
いつごろから、この街がその名で呼ばれていたのかは分からない。
だが世界の人々が気付いた時にはもう、S.L.ウォールは存在していた。
ありとあらゆる物が集まり、存在しない人間がそこにはいる。
人口 約10万人(増加中) 面積約30平方km(拡大中)
別名、「この世界で最も汚れた場所」―。
貴重品を持つ者は奪われ、奪っているその人間が別の人間に殺される。
ゴミ溜めのようなこの場所に法律はない。
たった一つの決まり、「弱者からは何も奪わないこと」を除いて。
この街にはそぐわぬ、黒いフードをかぶった10人ほどの集団が道を走り抜けている。
ある程度奥まで入り込むと、その集団は散り散りになった。
その気配を、少年は敏感に察知していた。
数時間後、大きく開けた場所に黒フード達はこの街の人々を追い立てていた。
集められた人間は、女性や子供…明らかに弱者と呼ばれる者達だ。
集団が次々とフードを脱ぎ捨て、黒い覆面を被った顔を顕にする。
軍隊装備に身を包んだ彼らは、人々に銃口を向ける。
「50人、集まりました」
一人が、隊長格らしい白い覆面をかぶった男にそう報告する。
「記録完了。殺せ」
彼らの銃の引き金が引かれようとしたその時、銃を持った一人が縦に両断される。
残りの人間が一斉にそちらを向くと、両断された死体の間から血に濡れた少年が顔を出した。
「まさか、ここの決まりを忘れたわけじゃねえよな?」
剣のように変化した腕を元に戻しながら少年がそう言い放つ。
「撃て!撃てェ!」
悲鳴とも怒号ともとれるような叫びと共に、発砲音が響く。
だが少年はその場所から姿を消し、別の軍人の首をへし折る。
さらに悲鳴をあげる軍人の目の前に現れ、口を耳まで裂けさせ、頭にかじりつく。
一迅の風が通り抜けると、次々と軍人達はバラバラになっていった。
隊長格の男だけになると、少年は動きを止めた。
「ヒ…ば、化物ォ!」
狂ったように銃を乱射するが、その全てが少年の目の前で静止する。
カチカチ、と弾切れの音が聞こえると、弾丸は突然反転し男を撃ち抜いた。
「またこいつらか…世界は馬鹿ばっかりだ。やってらんねー」
そう呟くと、少年は姿を消した。
「ああ、キリヒト様、ありがとうございます」
「またあの方が救ってくださった…!」
後に残った人々は、口々に感謝の言葉を少年…キリヒトに向けた。
S.L.ウォールには追われた犯罪者等も逃げ込んでくる。
倫理上問題があると判断した世界は、定期的に軍を送り込み、『虐殺』を始めた。
当然意味などあるはずもなく、その結果は弱い難民が殺されるか、今のように
軍隊が殺されるかだけであった。
この『虐殺』は世界にとって建前でしかなく、ただ安心するための手段でしかなかった。
S.L.ウォールで唯一きれいな空気が吸える場所である小高い丘。
ここがこの街で最強であるキリヒトの特等席だった。
一本だけ生えた木にもたれかかり、空を見上げる。
何もすることが無い時は、大抵キリヒトはこうしていた。
ここに来た時言われたことを思い出し、キリヒトの口からため息が出る。
"S.Lウォール。ここでは力が正義だ。だが、同時に弱者がたどり着く最後の場所でもある"
かつて言われたこの言葉の意味を、キリヒトは理解し始めていた。
要するに弱い奴らはきっと"エサ"で、それを食いに来た力のある者を
もっと力のあるキリヒトが喰う。
そうやってこの場所の均衡は保たれているのだと、キリヒトは結論づけていた。
「よし」
キリヒトは立ち上がり、後ろから来た攻撃をひょいとかわした。
鉄の棒が地面に当たり、鈍い音を立てる。
「かわし…!!」
言い終わる前にキリヒトは男の首をねじ切り、丘の下へ放り投げた。
キリヒトを殺せばS.Lウォールの支配権を手に入れられることは周知の事実であったため、
彼はいつも命を狙われていた。
キリヒトが一日のほとんどをこの丘で過ごすのは、敵を探すのが面倒なせいもあった。
この場所にいることが知れ渡れば、暗殺者や殺し屋は自分からやってくる。
そしてキリヒトは圧倒的な力だけでそれをねじ伏せ、10年以上頂点に君臨してきた。
「今日は大漁だ」
男の体から掴みだした心臓をキリヒトはかじり、残った部分から金品を漁った。
「金持ちだな。外から来たばっかりか」
いくつかの宝飾品と、ペンやベルトといった日用品を取り出し、死体を放り投げた。
そして、キリヒトはゆっくりとごみ溜めの中へと入っていった。
どんな環境であれ、人が集まるところにはコミュニティが出来て、経済の流れも生まれる。
顔を隠した人間が行きかい、あちらこちらでもめ事が起こっている。
掘っ立て小屋には日用品と非合法の商品が雑多に並び、薄暗い路地では売春婦が立っている。
これが、S.Lウォールの日常だった。
キリヒトは顔を隠してその中を歩いていた。
以前人の多い場所で襲われてから、キリヒトは面倒ごとを避けるために顔を隠すようになっていた。
「これ、買い取ってくれ」
キリヒトは一軒の店に戦利品をどさりと置いた。
顔に巻いた布を整えているキリヒトを見て、店主は笑顔になった。
「おお、旦那ですかい。いつもありがたいことで。おい!眼鏡をもってこい」
奥から渡された眼鏡をかけて、店主は一つ一つを取り出し、じっくりと観察し始めた。
キリヒトは興味無さそうに店の商品を眺め始めた。
「装飾品は多少傷んでますが、まあここじゃそんなの問題になりませんや。
日用品はどれもまだまだ使えそうですな。いい値段をつけさせてもらいますよ」
ごそごそと奥にある袋から、店主は金を取り出した。
「1、2、3…これでどうですかい?」
束になった紙幣と、積まれた硬貨を見てキリヒトは首を傾げた。
「前より増えてないか?」
店主は手をすり合わせ、へっへっ、と笑った。
「礼ですよ、これからも商品をよろしくってことでね。
旦那ほどの腕前になら、多少色付けても釣りが出ますぜ」
「俺の正体を知っても襲い掛からなかったのは今のところアンタだけだからな」
金をしまってキリヒトはそう言った。
「あっしは他の奴らとは頭の出来が違うんですよ。なんせ以前は…おっと」
口をおさえた店主を見て、キリヒトはうなずいた。
「過去の話はお互いしない約束でしたな」
何も言わずキリヒトは、その場を立ち去った。
歩き出して、しばらくするとさっきの店から大きな叫び声が聞こえた。
「待てこの泥棒!!」
キリヒトが振り返ると、薄汚れた子供がいくつかの品物を抱えて走っているのが見えた。
子供はこっちに向かって走ってきていた。
「へっ、俺の足に追いつけるわけ…うぐっ!!」
側に走ってきた子供に、キリヒトは足をかけて転ばせた。
ドサドサと品物が散らばり、子供は慌てて立ち上がった。
「う…くそっ!」
「おい!…ほらよ」
品物を捨てて逃げようとする子供に、キリヒトは硬貨を一枚弾き飛ばした。
硬貨をキャッチした子供は笑顔になり、そのまま走り去った。
「ぜぇ…ぜぇ…また旦那には借りができちまいましたね」
息を切らした店主は、品物を拾い集めてキリヒトに頭を下げた。
「別に貸しにするつもりはねえ」
「そうですかい?…まあ、最下層の弱いモンを虐げないのはここのルールですけどもね」
全て拾ったことを確認すると、店主は背を向けた。
「じゃあ、またお願いしますよ」
そう言って店主は店へと戻っていった。