朝顔
夏の朝、短い間に咲き誇る朝顔を私はこの世で一番綺麗だと思う。
そして、私はその花にいつも母の面影を重ねる。
暗く深い闇から、太陽が空へと高く高く伸び上がり周囲を照らすその時を待ち詫びて、力の限り花を咲かせて散り急ぐ。
とても潔く、美しく、清楚な夏の花。
私の母も、とても潔くさっぱりとした人だった。いつも太陽のように輝いていて、よく笑い、良く働き、容姿が良い訳でも無いのにとても綺麗な人だった。
けれど、ナゼ“だった”と私が過去形で母を思い出すのか…それはもう、この世に母が居ないからだ。
あの人は本当に信じられないほど潔くて、家族だけでなく周囲の人全てがあっけに取られたのを覚えている。
『まったく…母さんらしいや……』
そう兄が洩らした一言が、今でも私の心に深く残っている。でも、コレは悪い意味ではない、寧ろ逆で…私も同じ感想を抱いたからだ。
母さんらしい、その一言がみんなの納得を得た。
だって、母さんは…そういう人だったから。
自分がどんなに辛くても、決して弱音を吐かない。弱みは見せない。誰かに心配をかける位ならば、石に噛り付いたって我慢する。
『……生きていれば、人が苦しむのも、辛いのも、死ぬのだって必然。だったら、それはソレ。うーん、そうだな…もし、あくまでも、もし…悪いモノを挙げなければならないんだったら、それはタイミングくらいだよ』
だから、思いっきり悩みなさい。そう言って母さんは、私が思春期の辛い時期に笑ってくれた。
制服越しに伝わった母さんの手の暖かさが、とても心地よかったのを覚えている。
けれど母さんは…私が大学に通うようになったある日、二度と目覚める事はなかった。
父を早くに事故で亡くし、女手一つで私と兄を育ててくれた母さんは、いつものように布団に横たわり、静かに穏やかな顔で眠っていた。
優しい顔で、それはそれは静かに微笑んでいた。
医者には頭の中で血管が切れた、とだけ説明された。きっと、私の顔がそれ以上細かいことを聞ける状態ではありません、と言っていたのかも知れない。
兄だけが先生としっかり何かを話していた。それだけはボンヤリ視界の隅で捕らえていた。
それからの日々は非常に慌ただしく…気が付けば何もかも終わって、残るは母さんの遺品整理だけとなっていた。
次々と運び出される、様々な思い出の品。
写真、綺麗にファイリングされた私たちの幼い時の作品、そして古びた宝箱に眠った父から母さんへのラブレター。
兄と思い出を語りながら、色んなものを整理した。そして、私たちにとって、一番想いで深い品がひょっこりと顔を出す。
二人とも、一瞬言葉に詰まった。
それを暫く無言で見詰め続ける。
いつ以来、見たコトがなかったのだろうか?それでも、私たちの目の中には深く濃く焼き付いて決して色褪せたコトが無い物。
私の中ではボンヤリとしか思い出せない父の広い背中に並んで、朝顔を模した柄の帯を締めた母の背中があった。
夏の薄く透ける着物に絞めた、華やかな帯。
きっと兄の中にも同じ思い出が甦ったのだろう、今の今まで一度も流さなかった涙が頬を伝っていた。
『ねぇなんで、お母さんは浴衣じゃなくて着物なの?』
『ん?それはね……』
にっこりと、嬉しそうに微笑む母の顔。恥ずかしそうに顔を背ける父の姿。
『お父さんが、初めて母さんに買ってくれた帯を締めたいからよ。夏って、着物を着る機会が殆んどないからねぇー』
そう言って、母さんはからからと笑った。
私たちにとって、記憶に残るソレが最後の家族の団欒。その後、私の記憶から父の姿は消えている。
「ね、お兄ちゃん。私にこの着物と帯、頂戴よ」
「別にイイけど。お前、着物なんか、着れんのかよ?」
「これから着れる様になるから、いいんだもん」
「そっか」
「うん。そう」
それから……そんな会話をした日から随分と年月がたった。
あの時、社会人一年生だった兄は二児の父となり、私も結婚をした。
そして。
「お母さん、なんで着物なの?」
「ん?それはね……」
そして私は、母の着物と帯を締めて今年の夏も父と母のお墓参りに出かける。
「夏、だから…かな?」
「ふーん、変なのー」
不思議そうに首を捻る娘に、私はもしかしたらあの時の母と同じ微笑を向けているのかも知れない。
きっと、いつか…娘も同じ様に私を思い出してくれる日が来るのだろうか。
私が母を思い出すように。
夏に着る、この朝顔の帯を締めた私の後姿で……。
辛い思い出も、いつか時間が経てばそれなりにいい思い出として話せる時が来ます。きっと。