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ドラマと盲目 -「そのときはじめて」は誰の言葉か-

作者: 水野 洸也

 吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』(晶文社、全集版)を読んでいると、141頁に井上光晴からの引用文が載っていた。私はそれを読んで、どきりとした感触を覚えた。以下はこの感触がどういう性質のものであるのかを、論文調にではなく散文調に解き明かしたものである。それに付随する形で、【言語の美】や【小説というドキュメント】についても考えていき、最後に小説そのものについて考えてみようと思う。



 問題となっているのは次の引用文だ。


「黒い異様な臭気を放つ穴の近くで珍しく通りかかった男が、今日は二十日ですか、二十一日ですかと彼にきいたが、彼がこたえようとする間もなくふうふうといいながら返事もきかずに通りすぎていき、そのときはじめて仲代庫男の眼の中に涙があふれた。」(井上光晴「虚構のクレーン」)


 全体的な印象としては、「黒い異様な臭気を放つ穴の近くで通りかかった男」という文章が、「男」の所在や地位、境遇などをよく表しているなというものだった。そしてそれはすぐさまプロレタリア小説の手法に結びついた。「珍しく」ということから、この男がほとんどの時間をくさい穴の中で過ごしているであろうことも容易に察しがつく。「男」はつまり、社会の隅で生きていかざるを得ない同情すべき人物であり、読者としての我々も、「男」の境遇に憐みの気持ちを抱かざるを得ない。「ふうふうといいながら返事もきかずに通りすぎていき」の一文も、「男」の精神にもはや余裕が残されていないこと、他人との会話よりも作業に集中しなければならないほど切迫しているということを暗に示している。


 文中の「彼」、つまり仲代庫男は、上記の一文から判断するに、「男」の穴の中での生活を知らない。知っていたとしてもそれは伝聞でしかなく、「男」を穴の中で直接見たとは限らない。そんな「男」に対して仲代は涙を流す。その涙は唐突に現れたものでありながら、確かな根拠に基づいたものだ。だがそれを言葉に出すことはできない。仲代にできることといえば、ただ涙をあふれさせるのみ。端的に言ってしまえばそこが、この文の妙であり、美である、ということになろう。


 ところで気になることがある。第一に、仲代庫男という人物は、作者である井上光晴といったいどういう関係にあるのか、ということだ。まず、仲代が井上と同一人物である、という線がある。特別な根拠はないものの、上記の引用文は迫真性が高く、明らかに作者の実際の体験談が基になっていると思えるからだ。今ではそうした同一視は禁忌になっている節があるものの、後に説明するように、読者はそうした見方からは決して逃れられない。加えて、同一視するかどうかで、その文章の価値が変わるわけでもないのだから、どう思おうが読者の勝手でもあろう。それが作者の体験談でないという証拠が、少なくとも引用文の中には存在しない以上、そうした思惑は許されてしかるべきではある。


 だがそうなると厄介なことになる。たとえば文中の「異様な臭気」とは、いったい誰視点の言葉なのか。素直に考えればそれは作者本人であろう。なぜなら、もしも穴を「異様な臭気」と感じたのが仲代であれば、今あるような文として繋がりはしないからだ。あらゆる出来事が、引用においてはたったの一文で繋がっている以上、その場に居合わせている仲代本人の言葉でないことは明らかなのだ。そうすると、仲代と作者とが同一人物であるという線はあやふやになってしまう。文中で、「今日は二十日ですか、二十一日ですか」と「男」に質問された仲代と、その時のことを後から書いた作者が分離してしまう。たとえ「虚構のクレーン」という作品が、文中で語られているその日の出来事を、仲代が後から文章として纏めたものであるという裏設定があったのだとしても、それだって結局、仲代は当時の自分を、自分と切り離して【対象化】しているわけだから、そこでも断絶が起こる。仲代=井上説は退けられるべきであろう。


 となれば作者は、上記の引用文を、いわゆる「神視点」で語っているということになる。舞台背景としての穴は、仲代がそれを「黒い異様な臭気を放」っていると認識する前から、作者によって語られることになる。「珍しく」も同様だ。仲代が「男」を「珍しく通りかかった」と思う前から、作者による押し売りとして、読者に提示されている。


 では、「そのときはじめて」も同様だろうか。「そのときはじめて仲代庫男の眼の中に涙があふれた」という一文は、いったいどのような【時制】によって語られているのだろうか。つまり、「そのときはじめて」とは、いったいどの時点を指しているのだろうか、またそれは誰の言葉なのか。ここが第二の気になるポイントである。


 まず、その時点とは「彼がこたえようとする間もなくふうふうといいながら返事もきかずに通りすぎてい」った直後のことである、という線がある。これは文の繋がりからして当然のことのように思える。だが果たしてそうだろうか。「通りすぎていき」と「そのときはじめて」には、明らかな断絶がありはしないか。つまり私の言いたいのは、【仲代庫男は、男が通りすぎていく前からすでに涙を流していた】のではないか、ということなのだ。


 確かな証拠はないものの、断絶は、ごく普通に読んでいれば容易に感じ取ることができよう。「そのときはじめて」以前は、文のほとんどが「男」の描写に費やされていた。だが、「そのときはじめて」が挟まれた後は急に、仲代庫男の描写に移っている。また、どうしてこの引用文において、「彼」という代名詞が先に出現し、後になってから「仲代庫男」という固有名詞が現れているのか、というところもおおいに疑問だ。普通であれば、


「黒い異様な臭気を放つ穴の近くで珍しく通りかかった男が、今日は二十日ですか、二十一日ですかとにきいたが、仲代庫男がこたえようとする間もなくふうふうといいながら返事もきかずに通りすぎていき、そのときはじめて彼の眼の中に涙があふれた。」


となるはずではないだろうか。そうならなかった理由は、最後に「彼」と持ってきてしまうと、「彼」とは通りすぎた「男」なのか、それとも仲代のことなのかが一瞬わからなくなってしまうから、という配慮にもよるのだろうが、それよりもまず、作者の描写する対象が、「そのときはじめて」以前と以降とでまったく異なっており、その異なり具合を、読者だけでなく作者自身にも(意識的にせよ無意識的にせよ)言い聞かせているのではないか。そういうことを、想像してしまうのである。


 引用文における描写の移動を、レンズの動きにたとえてみる。つまり、「そのときはじめて」以前は、作者のレンズはずっと「男」のことを追っていた。作者は「男」の後ろ姿が見えなくなるまでレンズを動かさなかった。しかし、ふと気になって、レンズを仲代の方に向け変えてみると、なんと彼は涙を流しているではないか! 作者は急遽きゅうきょ、仲代のその様子を描写する必要に迫られた。だが、仲代は一体どれくらい前から涙を流していたのだろうか? レンズは「男」に終始向けられていた以上、不明である。結果として作者は、仲代の涙の流し始めの時点を、自分がレンズを彼の方に向けたその時点に定めることに決めた。こういう筋書きが考えられるであろう。そうなれば井上の上記の引用文は、たいへん映像的であると言うことができる。


 現に吉本隆明は、『言語にとって美とはなにか』において上記の文を引用する前に、「南極探検」という記録映画の話を、芸術の喩え話として持ってきている。その後で吉本は「たんに任意にとったフィルムをつなぎあわせたにすぎないようなその「南極探検」の映画も、場面を意識的にしろ無意識的にしろ撰択〔原文では太字〕したところにすでに初原的な美のもんだいが成り立っている」と述べている。それはつまり、場面を選択し、切り取る装置としてのレンズが、小説においても有効な視点足りうるということである。(こうした考え方は一方、映画が登場してからでないと現れてこなかった。小説をいくつかの「シーン」に区切ったりする考え方も同様のことが言えよう。小説に対するそのような認識が広く定着してしまった以上、これから小説を書く際には、こうした読者の認識方法について無視するわけにはいかなくなる。少なくとも、読者は小説をそのような視点で見もするのだということを常に念頭に置かなくてはならないのだ。そうした読者の姿勢に忠実に従うか、対決しようとするかはともかく。)


 吉本は引用文を指して、「これが言語の美になっているとすれば」と前置きしたうえで、次のことを述べている。


「異様な穴のそばで、通りかかった男が日付をたずね、返事もきかずに立去ってしまったとき、「彼」はなにかに駆られて涙をながした、という概念的な意味を、視覚や嗅覚や聴覚をよびおこすようなコトバをくみあわせて、あるときは文中の「彼」に、あるときは通行人の「男」に、あるときは作者の位置に転換〔原文では太字〕しながら表現しているからで、いわば場面の転換がなにをもたらすかをよくしめしている。」(141-142頁)


「転換しながら表現」というのは、まさしく的を射た見方と言えよう。井上という作者は、ほとんどのフォーカスを「男」にしか向けていなかった。だがふと、レンズを仲代に向け変え、彼の顔をドアップで映してみた。「そのときはじめて」、彼が涙を流していることに気づいた。こういうことになろう。またここで表現の対象となっているのは、「男」や仲代だけではない。実はそこには「私」なる【書き手】(井上光晴という作者とは区別される)も追加されるべきであり、よって引用文を次のように書き直すことが可能となるのだ。


「黒い異様な臭気を放つ穴の近くで珍しく通りかかった男が、今日は二十日ですか、二十一日ですかと彼にきいたが、彼がこたえようとする間もなくふうふうといいながら返事もきかずに通りすぎていき、そのときはじめて仲代庫男の眼の中に涙があふれているのを私は知った。」


 もしも井上光晴の引用文に【言語の美】があるとすれば、「男」から仲代にフォーカスを移した瞬間、彼が涙を流しているのを書き手である「私」が発見し、その際の驚きと感動を「そのときはじめて」という表現を捻出したところに認められるべきであろう。我々は決して、仲代の涙する「シーン」に感動したり、あるいはこの文を作者の体験談として読んだ場合の作者の感受性だったり、その時感じたことを、生の言葉で伝えるのではなく抑制の取れた表現で言い表すことに成功している、我々自身のそうした勝手な思い込みだったりに心を打たれるのではない。そうではなく、作者の手に握るレンズが、仲代の涙に追いつくことができず、「そのときはじめて」という言葉を、その場に居合わせた(作者ではない)【書き手】としての「私」に託すしかなかったのだという緊迫感に、読者はどきりとした感触を覚えるのである。



 以上のことから、上記の引用文で起きていることというのが、井上光晴という作家の、「虚構のクレーン」という物語を映画手法で書き進めていった時にふと起こってしまった一種の【ドキュメント】である、ということが言えよう。『柄谷行人蓮實重彦全対話』には次の文章がある。


「『枯木灘』からはじまる中上健次のすごさは、小説を書いているつもりの自分が、いつのまにか物語の主人公になってしまったことの深い驚きが、事件を構成しているところにある。その出来事に揺り動かされている自分自身のドキュメントとしてこれがあるがゆえに、『枯木灘』がかろうじて物語をかわした小説としてわれわれを感動させるわけです。」(298頁)


 蓮實のいう中上式【ドキュメント】と、私のいう井上式【ドキュメント】の違いを見極めることは、【小説とはなにか】をめぐって有益足ることであろう。


 まず、蓮實がそう主張することのできる根拠となる文章が、果たして中上のどの小説に存在するのか、というところを確認しなければならない。彼が引き合いに出しているのは『枯木灘』という1977年に出版された長篇小説だ。幸い、私も読んでいるものではあるが、手元にはなく、記憶に頼るしかない。頭の中で、記憶を篩にかけてみると、どうやら蓮實の言及している部分らしいのは、中盤辺りで、主人公が腹違いの妹と一緒に父を訪ねるシーンではないかと思う。その前後で、二人が生き別れの兄弟だったことが発覚し、また父は、二人が近親姦を犯していたことに対して、主人公が求めていたような反応をしてこなかった。この辺りは一種独特の読書経験だったように思う。『枯木灘』の面白かったのは無論ラストシーン(の一歩手前くらい)ではあるものの、小説全体に繰り返しの表現も多く、【書く】という作者の闘いの跡がところどころに垣間見えた。蓮實の言う「小説を書いているつもりの自分が、いつのまにか物語の主人公になってしまったことの深い驚き」とは、そういうところにあるのだろう。テクスト分析をすれば、その根拠となる文章も見つかるに違いない。


 次に、各【ドキュメント】の具体的な内容に入っていきたいと思う。中上式【ドキュメント】は、作者である中上が、小説を書き進めていくうちに「いつのまにか物語の主人公になってしまった」という体験が重視されている。つまりこのとき、中上はその小説の物語構造がどういうものであるのかを知覚し、自分がそこに加担していることを見て取ったのだ。この驚きは、それまでにその構造を認識できていなかったこと、同時に、作者である中上が、その構造について少なくともよく自覚していたことを意味する。またその瞬間というのは、作者である中上が、物語の登場人物の一人である、【書き手】としての「私」が何者であるのかを発見した瞬間でもあった。蓮實の言う「自分」や「自分自身」は、中上本人を指してはおらず、今まさに書かれつつあるところの「私」を指しているのだ。そしてそれは、一度知覚に成功してしまえば、以降は二度と起こることのない一回限りの出来事であっただろう。「私」の正体に気づいてしまった以上、気づく前の状態に戻ることなど到底不可能なのだ。それはまさしく歴史的・物質的な出来事であったと言える(詳しくはポール・ド・マン『美学イデオロギー』を参照)。


 一方、井上式【ドキュメント】というのは、レンズを回している作者が、人物にフォーカスを充てるという技術化からはみ出てしまうような出来事が起きてしまい、【書き手】である「私」が「そのときはじめて」と口にすることによって、それまでの文の性質が破綻せざるをえなかった、そういう性質のものだ。上記の引用文以前の文章において、このような破綻が起きているとは考えづらい。今まで作者のレンズは寸分の狂いもなく、あらかじめ計画していた通りの量で以って、人物や風景を映しえていたのだ。それが「男」の登場によって駄目になった。どれほどリテイクを繰り返しても、レンズは仲代の涙のその瞬間を捉えることができなかった。そしてそれは、とりもなおさず作者に問題があった。作者は最後の場面において、つい「男」に過剰に気を取られてしまった。プロットを逸脱した、いわば【書く】という行為に引っ張られた結果だ。一応、「彼がこたえようとする間もなく」の一文から、「男」からの執着から脱出しようという意図は感じられるものの、それは功を成さず、作者は依然として「通りすぎてい」く「男」にばかりレンズを向けるのである。「通りすぎていき」と「そのときはじめて」の間には、よって相当の時間の断絶があったと見てよい。「そのときはじめて」と【書き手】である「私」が口にできるまで、作者としての井上は、「男」から片時も目を離すことができなかったのだ。離すことのできたのは、「私」が「そのときはじめて」と叫んだからこそに他ならない。その言葉と同時に作者は冷静さを取り戻し、以前のように神視点で以って仲代を描写している。それまで姿をひた隠しにしていた「私」がついに現れてきてしまったところに、私のいう【ドキュメント】の意味がある。


 だがここには、中上のような物語構造に対する気づきはまったく含まれない。「私」は実は、「虚構のクレーン」という作品に常に潜在していた、物語の隠された登場人物だったのだが、作者である井上は、ついにそれを看守することができなかったのだ。本来小説とはここから始まるべきなのだが、この作品はおそらく、そこで終わりを迎えるだろう。たとえ続きがあったのだとしても、そうした気づきに巡り合わなかったがために、この作者は幾度となく同じような失敗をしでかすことだろう、つまり、「私」の露呈の場にいつまでも居合わせることができないというニアミスを。


 一度きりの中上式とは違い、井上式の【ドラマ】(ドキュメントよりこちらの言い方の方が良いだろう)はいくらでも起こりうる。なぜなら、作者と「私」の混同はいつのまにか起きてしまうものだからだ。どれだけ小説を書いている者であっても、「私」に自覚的になれない者は大勢いる。そのことを鋭く指摘できるのは、最も鋭利で熱心な読書家でもある批評家だけなのだが、彼の言葉を作者が理解できなければ意味がない。一般の読者にしても、その小説に書かれてあることを作者の実体験であるという思惑を完全には看過することができない。たとえ作者が「私」に自覚的であったとしても、読者の側がそれに気づいてくれなければ意味がない。作者と批評家と一般読者が一つになるというのが理想なのだが、それはユートピアであるのかもしれない。


 しかし、そうした問題をできるだけ起こさないよう個人的な努力をすることは大切なことだろう。中上式の【ドキュメント】は、起こそうとしても起こすことはできないが、井上式の【ドラマ】は逆に、いつでも簡単に起きてしまう。前者は方法論的に不可能なのだが、後者は方法として解決が可能な問題である、ということだ。つまり、たとえば井上の身に起こったドラマを、一つの【技術】として、目に見える形として取り出し、誰にとっても運用可能なものにすることが必要であるように思える。言い換えれば、一つの有効なテクニックとして、「そのときはじめて」といった言葉遣いを再現できるようにならなければならない、ということだ。【ドラマ】は決して天才から生まれるものではなく、物語に対する盲目という、作者-読者による共犯関係によって起こる、非歴史的なイベントだ。「人物にレンズが追いつかない」という手法は、読者を感動させる神秘的な才能の賜物ではなく、お互いにお約束となった、小説を書き始めるうえでの一つの前提として了解されなければならない。でなければ小説は、いつまで経ってもびっこを引いたままトラック競争を続けることになろう。


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