092 心臓 に ついて
ここ数日、『進撃の巨人』のアニメオープニング曲である『心臓を捧げよ!』ばかり聴いている。Linked Horizonさんが歌っている曲だ。サビの「捧げよ 捧げよ 心臓を捧げよ」の部分は、くるものがある。この歌詞の時、いっつもエルヴィンさんが叫ぶシーンが思い出される。同時にあのポーズも頭に浮かぶ。コニーが普通とは逆の方に手を当てて、キース教官に頭を掴まれるシーンは面白かった。
胸に手を当てて、自分の鼓動を感じてみようと思ったが、いまいちよく分からなかった。手の感覚が麻痺でもしているのだろうか。そう問いかけても反応が返ってくるわけがない。だって、心臓は臓器の一つであって、生き物ではないのだから。言語を扱えるわけがないのだから。しかし、重要な人体の部品である。容易に失うことのできない重要なものである。
と、ここで一つ気になったのは、何故「心臓」なのかということである。「心」の字を冠するのは、それなりの理由があるのだろうか。「しん」という音なら他にも色々ある。「真」や「芯」、「身」や「神」などがそうだ。しかし、どれもしっくりこない。特に「神」は、仰々しい感じがしておよそ似つかわしくない。やはり「心」でなければいけないのだろう。長年使ってきた名称でもあるし、愛着は無いが、その他を考えることはできない。
「心」はどこにあるのか、というのは長年考えられてきたテーマだ。ある人は心臓だと言い、またある人は頭だと言う。おそらく、先に考えられたのは「心臓」の方だと思う。名前にそれは表れている。心の臓器、そう考えると何だかしっくりくる。もしかしたら、体の中「心」にある臓器という意味だったのかもしれないが、どうなんだろう。やはり、中心と言うには、少し無理があるだろうか。
現在は、頭に「心」があるという考えが広まっているように感じる。喜怒哀楽の感情は、言語化可能なものであり、思考によって生まれるものだと捉えられるからだろうか。そう考えると確かに、心臓で物事を考えることはできないので、頭に心があると言われてもおかしくない。だが、ちょっと待ってほしい。心は理性的なものだけでなく、本能的なものも含まれるんじゃないか? 思考よりも先に生まれる感情もあると思う。それが、培ってきた人生を参考に思考を追い越して生まれるものだとしたら心臓は関係なくなるけれども、経験則以外から導き出される感情もあると思う。
胸が熱くなる、という言葉がある。感動に打ち震えている時などに使う言葉だ。これは、頭でそういう感情を生成して、それが胸、つまりは心臓に伝わったのだろうか。それとも、心臓が外部刺激をそのまま処理しようとして熱くなったのだろうか。多くの人は頭で考えていると答えるだろう。実際私もそう思う。しかし、考えるよりも先に、感情が生まれてしまうこともあるんじゃないか? その時、本当に頭から感情は生まれているのかと疑問に思わないだろうか。
無意識に感じたんだと言われれば、なるほどそうかもしれない。しかし、その無意識から生まれた感情だという保証もない。心で生まれた感情は、目に見えるようなものでもないし、確認することもできないからだ。なので、もしかしたら頭ではなく、心臓に心がある可能性もなくはないんじゃないかな。吹けば飛ぶような考えに過ぎないけれど。
こういう考えはどうだろう。
『頭と心臓の両方に心は存在する』
片方にしかないと考えるからいけない。両方にあるとしてみてはどうだろうか。結構面白い考えだと思うんだが…。理性的な心は頭にあり、本能的な心は心臓にあると考えてみたらどうだろう。精神は理性と本能に分かれており、それぞれの心が存在し、それらは頭と心臓にある…。なんてね。
心臓の話というよりは、心の話になってしまったけれど、こういうのは考えていると結構楽しい。なぞなぞを解いているみたいだ。もっとも、あちらは答えが用意されているのに対し、こちらは全くの手探り状態なところが苦しいが。いつか、心の在りかが発見される日がきたとして、その時人々は何を思うだろう。




