009 懐かしさ に ついて
時たま、胸の内に去来する懐かしさに押しつぶされそうになる。彼らは、今現在の自分を破壊しようとして来るのではない。どうにも割り切れなかった想いや思考せずに通り過ぎていった痛みを思い出させようとしているのかもしれぬ、そんな風に思う。
現実を直視しなければ、生活に支障をきたす。言われずとも分かっていることだ。私たちが生活している人間社会というものはどうしようもなく、理想だけで回ってはいない。そこには、綿密に組まれた、「プログラム」と言う他に表現できないものや効率的に体系化された「システム」がある。それらは、感情や意思とは少し離れた所に位置している。それらが中核を担えば、社会の維持ができなくなるからだと私は考える。人の感情では割り切れないが、どうしても選択しなければならない事柄がそこにあるからだ。
とまぁ、何だか重苦しい話になってしまったが、今回はそんなことを述べたいわけではない。人間社会と「懐かしい」という感情の関係について考えたいわけではない。
『「懐かしい」という感情とは何か』、これについて考えたい。
「懐かしさ」、これは過去を積み重ねた者にしか得られない感情だろうか。
私には分からない、はっきりと断定できない。そうだとも言えるし、そうでないとも言える。
情報は変質するからだ。感情が伴えば、何でもない記録も物語に変わり、その物語は記憶に成り代わる。まぁ、これは極端な意見だろうから、賛同できずとも構わない。
それにこの「情報の変質」は、起きたり起こらなかったりする。不安定な事象だ。まるで、感情で揺れ動く人間みたい。「変質」と書くと語弊を生むかもしれない。これは「勘違い」の方が合っているかもしれない。要は言い間違いのようなものだ。Aと言いたいのにBと言ってしまうようなものだ。
何故そんなことが起きるんだろう。少し考えたが、他の情報がそうさせるんじゃなかろうか。「過去」と呼ぶにはさほど時間が経っていない出来事でも、本人にとっては過去である。今日の朝ご飯も過去だ。昨日の昼ご飯も。それらが本人の意思に感応して情報の変質、勘違いが起こる。
その現象の一つが、「懐かしさ」なんじゃないかと、私はぼんやり思うわけですよ。
だから、過去を積み重ねていなかったとしても、何かの勘違いで「あぁ、懐かしい感じだ」と思うのではないでしょうか。勘違いならありそうでしょう? 「勘違いかな」の一言で、はっきりと原因を探さなくてもいいし。もし探そうとしたら他の記憶と混同して、また懐かしく感じるのかもしれないですね。
一つ思いついたのですが、「懐かしさ」は人が感じる感情ではないのかもしれません。人間ではなく、物や建造物、液体、気体等々が吸収してきた「記憶」なのかもしれません。どういうことかというと、
どういうことなんでしょう?
待ってください。考えます。
先に挙げた奴ら(全部含めると「もの」ではしっくりこないので「奴ら」)が普段どこにあるか、考えてみてください。そう、私たちの周辺です。誰もいない場所にあることもありますが、概ね私たちの周辺でしょう。
奴らは普段、何をしているのでしょうか。「そりぁ、人ではないから考えること自体が無駄だ」ときっぱり言うことは確かにできますが、あえて人のように扱うならば、「懐かしさ」を吸収してため込んでいるのではないかと思うんです。「懐かしさ」は「記憶」と言い換えても良いかもしれません。「記録」でも良いかも。そして、奴らの記憶が私たち人間に投射されることで、私たちは「懐かしい」と感じるのかもしれませんね。
長い歴史の中で、人はたくさんの想いを生み出してきた。誰にも認知されることがなかった想いもあるかもしれない。それらが空気に溶け込み、どこかの何かに吸収・投射され、それを後の私たちが感じ取る。何だかちょっとロマンチックです。真実がどうであれ、こういう考察は楽しんだもん勝ちですよ。えぇ。
今回のまとめ。
「懐かしさ」は人が思うのみにあらず、人以外との接触によっても得られる「もの」なり。
※今回は本当に、何を言っているのか本人も分かっていない。まぁ、犬にかまれたとでも思って理解することを諦めてくれ。
ノスタルジアって言葉、かっこいいよね。しかし、「時代」とは大きな括りだ。
◯ノスタルジア
異郷にいて、故郷を懐かしむ気持ち。また、過ぎ去った時代を懐かしむ気持ち。郷愁。ノスタルジー。
「―をおぼえる」
出典:デジタル大辞泉






