066 日記 に ついて
日記という単語で私が思い出すのは、夏休みの宿題。学習とは関係ないように思うが、「毎日日記をつけよ」と命じられるがまま、小学生の私たちは日記を書いていたものだ。時折書くのを忘れて二、三日分を一気に書いた記憶もある。当然思い出しながら書くのであるが、如何せん二、三日前のことであるからほとんど忘れかけている。なので、自然と無難な内容になるわけだ。「天気が良かった」「雨が降ってつまらなかった」などといった天気の話や、「宿題を進めた」「本を読んだ」などといった何回も繰り返すことの出来そうな話題を書いていたのである。とりあえず、空白という穴を埋めることに躍起になった日記の記憶だ。
思い返せば、中学生の頃も書かされた気がする。小学生の頃と記憶の内容は全く変わっていなかった。ただただ埋めることに専念。
高校生の頃は、そもそもが夏休みという夏休みは砂漠に現れる蜃気楼の如く、夢まぼろしであった。ほとんど学校に通っていた。日記などつけなかった。その代わりと言っては何だが、日々の学習記録を書かされていた。何時ごろにどれくらい勉学に励んだのか、そういった諸々の内容を専用のノートに書き記すのである。その学習記録は毎日教師側に回収されるので、あまりにも学習時間が少ないと教師から色々と言われる。私はそんな面倒なことはされたくなかったので多少は時間を操作していた。とは言っても、課された宿題を解いたり、次の日の予習なんかしていると結構な時間を使うのだけれど。時には、部活で疲れてやる気が起きないこともあったから、そんな時に多少、ね。
そもそもの話、部活をしているからこそ自由な時間が減っていくのだし、学習する時間も少なくなるのだ。いや、分かっている。部活でしか得られないものもあるとか言うんだろう? そうだな、確かにそうだ。だが、それを言うなら、他のことにも適用されるはずだ。何にだってそこでしか得られないものがある。部活ばかりを神聖視するかのような考えは、私は好きではない。また、学生の本分はやはり勉学であると思う。それを圧迫するのならば、部活動を続けることに意味があるのかなどと考えてしまう。まぁ、勉学は学生の本分ではあるけれど全てではないので、勉強ばかりが良いわけでもないが。
話が脱線した。日記に戻そう。
高校を卒業してからはほとんど日記をつけることは無くなった、わけではない。スケジュール帳を買って、それに付属していた日記に日々のあれこれを書きつけていた。高橋書店の1000円以上するやつだ。大きめの財布を想像してほしい。大体そんな感じの大きさだ。一日のスペースに八行くらい書くことのできるタイプで、備考欄も一週間に一つ存在していた(私はそこに、その週に使ったお金を計算して書いていた)。びっしり埋め尽くすこともあれば、一行二行でちょこんと終わらせることもあった。そして、たまに書き忘れてしまうこともあった。思い出して書くこともあったし、そのまま空白にしておくこともあった。別に宿題でもないし、それくらいの自由さで良いだろう。
日記を書く、そういった心境になるのは何か自分にとって大事なことがあった時かもしれない。もしくは記憶に残っていることを書いておきたいと思った時。人によってその理由は様々で、十人十色なわけだけど、私の場合はそんな感じだった。
そういえば、漫画『三月のライオン』で、主人公の桐山君が日記帳を買おうとしているシーンがあったっけ。ラムネを作った回だった気がする。ほろほろと口の中でくずれるラムネが生み出す切なさ。そして、友人たちとの思い出を日記に残しておこうと、日記帳を買いに走る桐山君。その姿を見つけて桐山君の隣にすっと入っていく野口先輩。あのシーンを思い出していると、悶えてしまう自分がいることに気づく。
もはや取り戻すことのできない時間は確かにあるけれど、それを文字として残していくことは、過去に対する一つの抗いになるはずだ。人の記憶は主観的なものでしかないのだろうけれど、その主観的記憶もまた記憶である。書いた内容に意味が無くとも、書きつけることには意味があると信じたい。




