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私的徒然草  作者: 半信半疑
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061 難解 な 文章 に ついて

「私たちの思考する存在としての包括的な戸惑いは、もはや引き返せないところまで来ている。それは、善良で悪意的な一擲によって生じてしまったが、しかし、全てが全て狂気のせいにするのは些か強引すぎる判断としか思えない。そうでなく、貴重な時間的資源を有効に活用するためには、複雑怪奇で狂信的な火力が求められる。傲慢な南瓜は言う。寂寞を誤魔化すために氷塊を氷解させてはいけない、と。だが、世に漫然と蔓延る魑魅魍魎たちは私たちの選択を待ってはくれない。唯一にして無二の朋友、その毀棄を否定し慰め懺悔を以て、この閉塞的空間作用を観測させるに違いない。私たちは捕縛された家畜の群れだ。放逐された眼差しは憂慮の念を抱いている」


 唐突に奇怪な文章を読まされて、酷く苛ついた方もいるだろう。それとも、何か意味を内包するものとして認識し、それを理解しようと努力された方がいるのだろうか。だとしたら申し訳ない。先ほどのものは、ほとんど意味のない文章のつながりである。気まぐれに書かれたお遊びの文章である。真面目に考えることは、酷い言い方をすれば、無駄に等しい。


 しかし、最後まで読んでくれたとしたら嬉しい。というのも、私は頭の中であるものを考えながら、わざと難解な言葉を使って文章を書いたからだ。それが何かは書かないが、むしろ書かないことによって、想像力が仕事をしてくれるに違いない。まぁ、所詮遊び故に、深く考えずに書いた文章だ。こんなものは何かの論文と大差ない。


 こんなことを書けば批判が殺到するかも知れないが、論文の中には、読む側に対して一切配慮していないものが少なからず存在する。自分の語りたい事物を自分の好きな言葉で、これでもかと飾り立てた文章のクリスマスツリーを眺めるのはさぞ楽しいだろう。その際「本人にとっては」という注釈がつくことだろう。


 形容詞の弾雨がこれでもかといわんばかりに長く続き、意味の途切れが何処なのかさえはっきりとせず、挙句の果てには難解な言葉で意味を誤解させたりする。例を用いる時でさえ、凝ったものを使用せずにはいられない性でも背負っているのかと疑いたくなる。あのようなおかしな文章の集合体を、「論文」と呼ぶのは躊躇われるのだが、人間というのは変な生き物で、その難解な言葉たちの連なりを高尚なものに感じてしまったりもする。あれは単なる深読みのし過ぎだとしか思えないのだが…。


 先日、論文に関しておかしな(本当におかしな)事件が起こった。私も詳しくは知らないが、米ポートランド州立大学の哲学者ピーター・ボグホシアン教授とジェームズ・リドル教授という方々が無意味な論文をでっちあげて、それが認められたというのだ。件の論文のタイトルは『社会構築物としてのコンセプチュアル・ペニス』。これが、英社会科学ジャーナル「Cogent Social Sciences」の査読審査を通過して掲載されたらしい。なお、教授たちはこの論文でジェンダー学の学術的なレベルの低さを指摘することを目的としていた模様。



ジェンダー論において、男女の性差を社会的な構築物として理解することが最善だと考えられていることを利用したらしい。「ペニスを生物学的な器官ではなく、世界の悪徳の原因だと主張してみてはどうか」とジョークを思いついたことがきっかけって、変なことを考えるものだ。難解な文章の例としては、次のようなものがある。



「詳細なポスト構築主義的言説批判と、気候変動の実例を通して、

 この論文は、ペニスが男性の生物学的な器官として理解されることが最善だとする、

 人口に膾炙した有害な社会的修辞的比喩にチャレンジするものである」



 一見すると何のことを言っているのか全く分からない。しかし、一つ一つの単語をほぐして考えていけば奇妙なつながりがあるようにも思える。思えてしまう。そこが言葉の妙というのだろうか。それぞれの単語について注釈が付いていたなら、全て考えて書かれていると判断してもよさそうなものだが、この論文には無かったのかもしれない。やはり、ただの深読みのし過ぎだったのだろう。審査をした方々は深読みのし過ぎだったのだ。


 論文に限らず、文章になっているものは全て、今回の事件のような可能性を孕んでいる。レトリックで遊んでいいのかどうか、最初にそのことを考える必要があるのかもしれない。少なくとも、何かを証明する時には比喩をあまり用いないようにすべきだと思う。比喩に比喩を重ね、そこにまた比喩をのせれば、認識がズレにズレていくのではないか。多くとも二個くらいの比喩が適切ではないかと考える。


 が、本当のところ、どれくらいの量が適切かは分からない。また、量だけでなく質も重要なのだが、これは言うまでもない事だったな。これは失敬。失敬ついでに、今日はこれで終わろう。


参考サイト

・ブログ-トラネコ日記>社会>科学>ジェンダー、フェミニズムは学問ではない、国を滅ぼす悪魔思想だ!

http://ryotaroneko.ti-da.net/e9597558.html

・TOCANA>海外>ジェンダー学は全くの“デタラメ”だった!

http://tocana.jp/2017/05/post_13325.html

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