053 眼鏡 に ついて
私は普段、眼鏡をかけないけれども、遠くのものを見る時などにかけるようにしている。常時かけるのはつらいから。コンタクトレンズにすればいいのではという意見もあるだろうが、あれは恐い。つける時もそうだが、本当に恐いのは取り外すのを忘れた時である。私は忘れっぽいので、つけたまま寝そうな、そんな予感がするのだ。眼球の裏側にいくこともあるというし、激痛を想像すれば、つける気になれない。対して、眼鏡は取り外しが楽だし、痛みも無い。どちらが良いかというのは人によって違うのだろうけれど、私は眼鏡派。
眼鏡は、視力低下に伴ってかけるという人がほとんどだろうが、中にはオシャレとしてかけるという人もいる。補助的道具としてではなく、自らを演出する一つのアイテムとして活躍するなんて、世に出た当初は思いもよらなかっただろう。それほど、受け入れられたということか。
それとも、眼鏡をファッションに取り入れることが、これまでにない新鮮さを醸し出したのだろうか。かけているうちにファッション美を感じていった可能性もある。
ファッション性という属性を得たからかどうか知らないが、眼鏡には多種多様な形が生まれた。眼鏡自体が様々な部品の集合体であるので、それら一つ一つに変化を持たせるだけでも違った眼鏡が生まれるだろう。
よく知らないが、「ヘキサゴン」とか「ラウンド」とか、「スクウェア」などのオシャレな名称の眼鏡があるらしいね。それまでは「眼鏡は眼鏡」としか思っていなかっただけに、いろんな名称があると知った時はとても驚いた。同時に面白いなと思った。形を変えることによる印象操作もそうだが、それに対して名前をつけるというのは、やっぱり人間だからだろうか。まぁいっぱいあっても、覚えきれていない人間がここにいるんだけどね。
形状に関する名称もそうだが、眼鏡に関連していろんな言葉が生まれた。一つ言葉があると、それに関係した言葉が生まれるのは自然な現象で、眼鏡にもいろんな言葉がくっ付いた。それだけ身近な物になった証拠だろうね。頻繁に使われるからこそ、言葉として認知されていったのだろうし。
「色眼鏡」はその一つだ。「色ガラスで作った眼鏡」のことも指すが、「偏見や先入観にとらわれた、物の見方」という意味の方が先に思い浮かぶ。つまり、眼鏡がバイアス、偏りの象徴になっているわけなのだろう。何かを通して見た世界は、そのものが持つ色に染まってしまう。色を取り除くには、何かを取り外すしか方法がない。
そういえば。最近のニュースで、どうしても色眼鏡をかけてしまうことがあった。某文書の問題で、「あった」と主張している人の行動だ。詳しくは書かないが、如何わしい店を利用していたことについて、「独自の調査をしていた」というような発言をしている。
某文書とは関係の無い行動かもしれないが、発言に対する信用を落としたことは間違いない。少なくとも私は、信じられなくなった。もしかしたらの可能性もあるかもしれない。ただ、すでに色眼鏡がかかった状態では真っ直ぐ見ることはできない。悪い方へ悪い方へと、ついつい思考を歪めがちだ。
しっかり見たいが為にかける眼鏡、時には思考を惑わせ考えを歪めてしまうこともある眼鏡、どちらの眼鏡をかけたいかと言ったら、まぁ前者になる。けれど、わざと後者の眼鏡をかけるというのもいいかもしれない。「理解できない方向にあるものを理解しようとする時に関しては」、という条件付きだが…。
自分に無い考えを得ようと思ったら、泥まみれの沼に飛び込むことも必要になってくるだろう。飲み込まれないように気を付けてほしい。とはいっても、現実世界のほとんどは、何らかの色眼鏡を通したものに思えるけれどね。




