046 嘘 に ついて
「もしも、嘘をつくことができない世界だったら」。
そういう妄想をしたことがある。いつ頃していたか、はっきりとは思い出せないが、最近は考えもしなかったということだけは確かだ。ふと思い出したので、嘘について言葉を連ねてみようと思う。芋づる方式で、また何か思い出せるかもしれない。
学校での嘘の取り扱いはどうだったか。基本的に嘘をつくことは駄目なことだけれど、相手のことを慮ってつく嘘は許されていたような気がする。つまり、条件次第で嘘をつくことが許可される。
道徳の時間などに何かの読み物を読まされて、「この場合は嘘をつくことはいけないことなのか」と問われる(こんな直接的な表現ではないだろうけれど)。私たちはそれまで、「嘘をつくことはいけないこと」だと教えられてきたので混乱する。そうやって混乱した頭で、葛藤しながらも嘘をつくという選択肢を選びとろうとするのだ。
しかし、教師も意地悪なもので、何度も問うてくる、「本当にそれでいいの?」と。最後の最後まで考え抜いた末に、私たちは嘘をつくことを選ぶのだが…。実際に受けた授業のことは忘れてしまったので、落ちを思い出せないが、それでも、今現在の気持ちを素直に述べるとしたら、この授業ではっきりと、「嘘をつくことが良いことだ」と明言することはないように思う。
理由は、条件次第で許せるとは言っても、嘘をつくことが本当に正しい状況というのは、正確に判断することは難しいからだ。状況は容易に変化する。意図しないところから爆弾が投下されることもあり得なくはないのだ。
では、嘘をついていい状況とはどんな状況なのか。相手(誰か)に嘘をつくという場面なら、嘘をつくことで相手が救われる可能性があるという状況ではないだろうか。少しでも救われてほしいというのは、勝手な願いだとは思う。しかし、その想いに嘘がなければ(嘘を悪用しようという気持ちがなければ)、勝手であっても相手のことを思いやることになるのではないか。思いやることはそんなに悪いことではない気がする。であれば、嘘をついてもいいのではなかろうか。
某スナイパーの漫画、そのアニメで、盲目のおばあさんが犯罪者と息子を間違えて銃で撃ち殺してしまうという話がある。おばあさんには娘もいて、その娘がついた嘘には、おばあさんに罪の意識を抱かせないようにという想いがあった。「兄さんは、また、出かけてしまったわ」(原文ママではない)という嘘は、犯した罪は償わせなければならないという点から見れば、間違った行動なのかもしれない。けれど、嘘をついていい、むしろ、つかざるを得ないような状況だと思う。
賛否両論ではあると思うけれど、老い先短い盲目のおばあさんのことを考えた娘さんの判断が、間違っていたとは、私は思わない。しかし、本当にやりきれない話だ。
他にはどんな状況があるだろう。では、相手ではなく、自分に嘘をつく時に、嘘をついていい状況を考えるか。
自分に嘘をつく時、その場はしのげても、後々に綻びが生まれてくることは多々あるだろう。テスト一週間前に、「部屋が汚いから掃除をすべきだな」とわざわざ口に出して整理整頓に時間をかけてしまい、結局、テスト勉強の時間を取れなかったという人は、いないかい? 私も経験があるが、あれも自分自身につく嘘だろう。さほど気になってもいないのだが、勉強から目を逸らしたいが為に、掃除をしなければならないという気持ちに自らを誘導する嘘だ。
この嘘は別につかなくてもいい嘘だけど、精神を安定させるという意味では必要なことだろう。まぁ、その不安定な状況(普段から勉強せずにいたので、テストが目前に迫った時に焦るという状況)を生みだしたのも自分自身なので、自業自得としか言えないわけだけれども。
でも、追い込まれた時の嘘というのは天上から垂れ下がってくる蜘蛛の糸みたいなもので、縋りつかずにはいられない。そう、頼らずにはいられないのだ。自分が観測する自分の状況では必要なことなのだ。たとえ、他者からは滑稽にしか見えないとしても。
嘘は、「ついていい、いけない」で語ること自体が間違っているのかもしれない。つかざるを得ないもの、それが嘘なのだろう。勿論、嘘をつかずに真正面から立ち向かい、それを乗り越えることで人間的に強くなるという過程は否定しない。だが、そのような勇敢な者ばかりではないのが人だ。愚かで弱虫で貧弱な面も持ち合わせているのが人だ。嘘をつくことでかろうじて生きることができるのも人の一側面だ。
だから、「もしも、嘘をつくことができない世界だったら」、近いうちに人は絶滅するんじゃないかな。耐えきれなくなって、絶えてしまうんじゃないかな。嘘で騙さないと、直視するには光も闇も強すぎるもの。
エイプリルフールに関しては、ネタとしては面白いと思うよ。案外、ガス抜きになっているのかもしれない。そう考えると、嘘をつくことができる日というのも貴重だな。




