004 百点 に ついて
「百点」という言葉には力がある。人を魅了する力だ。魅了されて、ついつい百点を探したり、百点を目指したりする。そんなことないとお思いかもしれない。
けど、一度もないと言い切れますか? Amaz◯nの欲しいものリストの数が百点だった時、訳もなく嬉しくなったりしませんか? 私は、個人的には、百点に魅了されなかった者などほとんどいないと思う。なかったら修行僧に近い。
そもそも、何故「百点」が素晴らしいと感じてしまうのか。その秘密は小学生時代にあるのかもしれない。そう、大人になった者たちが二度と戻ることのできない黄金郷、それが小学生時代。輝かしくも懐かしい記憶たちが襲ってきた者は、フィルターに避難せよ。ぼさっとしていると血を見るぞ。
茶番は置いておき、推測するに小学生時代のテストが私たちを魅了する一助になっているのではないか。テストと聞くと前回の横文字のようにアレルギーを発症する者がいるかもしれないが構わず続ける。
全ての元凶はテストだ、と私はお布団に包まりながら気づいた。テストの最終到達地点は「百点」だ(基本的に)。目指すべき場所が百点だと刷り込まれるのだ。人にとって最初の接触はとても重要だろう。何といっても第一印象が肝心なのだ。そのことから考えるに、私たちは百点が素晴らしいものだと思い込まされるのである。
勿論、そんな思惑など存在しないだろう。でなければ洗脳と変わらないから。百点を取った時の周りの反応も重要だ。多分、褒めてくれるだろう(それが普通取って当然だと思っている人には、ちょっと分からないかもしれないが)。そして褒められると嬉しい。悪い気はしない、はず。中には、対抗心を燃やして暗黒面に落ちた者からの襲撃があるかもしれないが、そこまで私は助けられない。
百点を最高点に設定することにより、百点の神格化が起こる。神格化は言い過ぎか。でも、そう思う。最高点ってところが肝だ。人が、一度は必ず最高点に設定する数字が百点だ。それが最高点なら、五だって十だって、五十だって構わないはずだろう。それなのに百が一番しっくり来てしまうのは、やはりテストのせいなんじゃないかと思わずにいられない。
ここで一つ思考してみよう。百点が良いものだと思い込むとどんなことが起きるんだろう。考えてみる。
①その他が価値の低いものに見える時がある。
欲しいものがあって、種類が複数あったとする。そして店員やらに、「私たちが提供できる中で百点満点の品です」と言われたとする。他の種類にも目を向けようとするが、結局百点だと推薦された物が一番良く思えて、その他が価値の低いものに見えないだろうか。わざわざ勧めてくるのだから良い物には違いないのだろうが、他に良い物があったかもしれない。
②価値観が固定される。
これはどんなことにも言える現象かもしれない。百点でなくても、自身にとって「素晴らしいもの」の位置に何かを置くと、自動的に最高点が設定される。結果的にそれ(最高点)と比較して考えることが多くなってしまうのでは? 価値観が固定されること自体は否定しない。その固定された価値観で不利益を被ってしまうのなら考えるけれど。
③評価されたものが良いものに見える。
これは①と似たようなものかな。方向性は逆かもしれないが。百点と評価されると、それが良いものだと思い込んでしまうんだろうなあ。たとえそれが糞であっても、「百点と評価されているから間違いない」ってね。その時に考慮すべきは、百点だと思った理由の方かもしれない。理由根拠に信ぴょう性がなかったら、一度置いてみることをお勧めする。
とりあえず、三つ挙げてみたけれど、重複したり考察が足りなかったりしてるので、聞き流してほしい。
今回言いたかったことは、百点をむやみに信じるなってことかな。