019 実写映画 に ついて
最近、実写映画の宣伝をよく見る。この宣伝というのは重要で、後の集客を左右するものだと私は思っている。いかに内容が優れていたとしても見てもらわれなければ意味が無い。「小説家になろう」と一緒だ。こちらでは活動報告やあらすじが宣伝に相当するだろうか。
実写は何も、漫画やアニメに限った話ではない。根本となる「実況や実景をフィルムなどに写しとること(たもの)。記録映画」というのが実写という語句の意味である(『新明解国語辞典』)。「実写映画」と聞いてアニメ等しか思い浮かばなかった方は? あなた方はサブカルチャーに毒されている。あるいは、視野が狭くなっている。社会の物差しに惑わされてはいけない。
小説や詩も実写化できる。「詩の実写化などできるの?」と考えた方、不思議に思ったことでしょう。実はもうされている。最果タヒさんという詩人をご存じか? タヒさんの『夜空はいつでも最高密度の青色だ』という詩集が映画になっている。残念ながら、私はまだ見たことが無いのだけれども。詩を、詩集を映像にするなんて果たして出来るのだろうか。新しい芽吹きに対する期待と、底の見えない暗闇を覗くような不安を感じる。
全くの想像で内容や全体を語ることは避けたいので、多くは言わない。
恋愛映画らしいので、興味がある方は詩集と合わせて見てみてはどうだろう。いつも見る恋愛映画とはまた違った、不思議な感じを抱くかもしれない。
他に実写映画で気になるものは、『ジョジョの奇妙な冒険』と『鋼の錬金術師』だろうか(サブカルばかりで失礼)。どちらも漫画が原作で、私はどちらも手に取ったことがある。
ジョジョの方は四部のみ、しかも最初あたりだけというふざけた読み方になっているが、当時の私には受け入れづらかった。しかし、アニメ版の声つきの動く映像を見てから、虜になった。近いうちに全部読みたいものだ。
ハガレン(『鋼の錬金術師』の略)の漫画はすんなりと読めて全巻読破したし、アニメの方もいくつか見ている(Yuiさんのオープニング曲が良かった)。エルリック兄弟を見ていると心穏やかになれるから不思議だ。
二つの原作をあげたが、これらが実写映画になるという。正直私は、難しいのではないかと思っている。この「難しい」というのは、他の方が受け入れるかどうかだけでなく、自分自身も受け入れられるかどうかも含めている。すでに基礎建築ともいえる土台は出来上がっている。現在の質を超えたものでなければ、中々取り換えることは難しい。
「取り換える」ではなくて「組み込む」という表現でもいい。最初出会った時に感じた感覚や、触れあう中で培ってきた物があるのだ。これらは容易に覆せない。表情の細かな変化、声音の微妙な差異が気になってしまうと思う。違和感というのは、それだけ小さくて大きいものなのである。
思っていたのと違ったという経験は、誰しもが遭遇することだ。想像と現実、二つの差は如何ともしがたい。その差を逆に良さへと転じさせる試みも悪くない。悪くないが、結果的に試みなくてもそのままが一番などと言われれば、何の為の挑戦だったのだろう。
幻影は幻影のままが美しいのか。
あえて言葉にしない美学というのか、触れた途端に壊れる雪の結晶というのか…。
本物はそんなことで揺らぐものではないという反論が聞こえるけれども、表現は常に揺らぐものだと私は思う。生み出す者が人間であれば、観測する者もまた人間である。人間自体が揺らぎ続けているのだから、そこから生み出されたものも観測の内に揺らいでいるのではないか、とそんなことを考えた。
実写化は本当に難しいものだ。表現法の違いがそのまま作品にダイレクトに影響する。原作との違いを致命的なものにもする。どうして、あえて困難な道を生みだし進むのか。私には理解しがたいが、一方で分かるような気もすることも事実だ。
既に完成されているものを見つめなおし、新たな道を模索することは重要なことだ。ただそこに、人の感情を交えると難しくなるのだ。作り手と受け手は別の生き物だと考えた方が良いかもしれない(勿論、全くの別物ではないだろうけれどね)。
余裕があったら、身近にある色々なものを現実に持ち出して考えてみると良いかもしれない。それはきっと、これまでとは違った視点を生みだすに違いないし、見えなかったものが見えてくるかもしれないから。
創造力を鍛えるという点でも、やって損はないだろう。あるとしたら、現実を見据えすぎて空想が消えてしまうということだろうか。
何にせよ、長所と短所は一つの輪の中に内包されているのだから、気にせず励むといい。私も励むことにする。では。
<お詫び>
最果タヒさん原作の映画は、まだ公開されていませんでした。
混乱させてしまったかもしれません。ごめんなさい。
どこで知って、何と間違ったのだか…。
劇場公開日は5月13日らしいです。
追記日―2017/5/9




