017 声 に ついて
言葉の形態を考える際、文字(点字を含む)や手話などに加えて、音声がある。
この音声というのは意外とすごいもので、様々な要素を言葉に付加させることができる。
文字にも音の要素はあるけれど、音声ほどではない。音声の言葉は、それ自体が音に近い。言葉を理解するための入り口が目ではなく耳であること、それが言葉をより近くに感じさせ得るのではないだろうか。
「あし」という言葉があるとする。これを文字にして表現する時、「足、脚、葦」というふうに様々な漢字に変換することで違いをつける(言語が違えばそれだけで違いとなるかもしれないが、今回は日本語で考えてみたい)。文章になると、その流れから用法を推測するということもできる。文字は視覚で認識するので、この手間が必要だ。
対して音声は、発音によって違いをつける。音の高低・区切れ・抑揚など、表現の工夫による意味構築は様々である(と私は思っている)。共感覚で音の中に色を見る人もいるらしいが、この色の変化が音の強味だと思う。勿論、文字も色を付けたり、大文字にしたりスペースを入れたり、と様々な工夫ができる。できるが、私には何故か、表現の工夫は音の方が豊かだと感じてしまう。
先ほど、文字表現の工夫を書いたが、あれは何か小手先の技術のように思えるのだ。何か、文字の本質で勝負していない感じがするのだ。たとえ黒文字であっても、色を表現できるのが文字の良さであるのに、文字に色を付けることがそれを否定しているように感じさせるからかもしれない(あぁしかし、これは表現の幅を狭めることだろうから考えるべきでは無いかも。…まぁいいか)。その表現法でしか生み出せないものもあるに違いないからな、必要な工夫だろう。
文字の工夫が小手先の技術に感じるのに対して、音声にはその感覚が無い(あるいは薄い)。個人的な推測だが、音声それ自体が音であるため、どれだけ工夫しようと小細工にはならないと思う気持ちが強いからだろう。
本当に人間の感覚は厄介だ。些細な違いで好き嫌いが出てしまう。しかし、その感覚の違いが表現を高めていったのもまた事実だし、複雑な感情だ。
そういえば、ほんの数日前に文字情報と音声情報について何か書いていた。詰め込まれている情報があけっぴろげか引っ込み思案かという話だったっけ…。
似たようなことをつらつら書いてもつまらないだろうから、別のことを書いてみることにする。
声優という職業をご存じだろうか。動く映像に声を吹き込み、まるで生きているかのように思わせる技術を会得した方々が成る、あれだ。
最近になって一般にも知れ渡るようになった(と私は思っている)。アニメなどサブカルの影響が大きいことは言うまでもない。映画の吹き替えなどで、時々テレビのテロップに取り上げられるくらいだったのが、今では番組の中で、声優専用のコーナーまで作るほどである。
それほど知名度が上がった声優だが、巷では「声優なんか誰でもできる」、なんて戯言をはいた奴がいるらしい。私はそうは思わない。肉声と機械を通して聞こえる声は違うもので、そこからまず表現力を問われる。さらには、声を吹き込む対象に合った声をださなければならない。映像は動くので、声がズレるといかにも間抜けな感じが出る。動きに合わせて声を出す、しかもその動きの中で実際に動いたような声を出すのは難しい。「簡単」などという言葉は、実情を知るほど出てこなくなるものだ。
そもそも日常的に、表現された声・音声にさらされているにも関わらず、その良し悪し、難易度に気づかないとは何事か。実際にボイスレコーダーで自分の声を録音し、それを聞いてから発言したのならまだ許せる。それだけの能力があると思って発言しているのだから。
しかし、それを実行しもせず、能天気に何かを貶すという行為が私は許せない(これは、声優のみならず、本とか本とか、様々なことに言えるのだろうけれど)。俗に言う「知ったかぶり」が私は許せない。
私はボイスレコーダーで自分の声を聞いたことがある。あれはトラウマだ。地声だったからなおさら。
Q.自身の思う声と差があり過ぎる場合、人はどんな反応をすると思う?
A.もだえ苦しみ、胸をかきむしる(雛◯沢症候群レベルで)。
試す際はくれぐれもご注意を。覚悟を決めてやるように。
話が経験談に逸れたが、何も経験せずに語ることほど愚かなことは無い。よしんば経験していたとしても、それを活かせなければ無駄に等しい(無駄無駄ァ!)。
説得力とは弁論術のみで生み出せるものではないのだから、まずは経験することが必要、ですかね。
まだまだ語りたいないがまた毒を吐きそうなので終わる。覚えていてほしいことは一つだ。
「声を笑う者は声に泣く」。
では。




