014 見ること に ついて
見る、視る、看る、観る、診る、と「みる」に当てはまる漢字は様々だが、今回は「見る」について考えていこうと思う。
「見る」はよく使われるだけでなく、その意味が複雑に分かれている(と私は思っている)。語句の説明(用例を含む)をしていれば、それだけで2000文字に近くなるので今回は私自身の感覚で語りたい。
とはいっても、何も書かないのはあれなので、特に使っていそうな意味を書いておく。
以下、その説明。
・みる【見る】
㊀目を対象に向けて、その存在・形・様子を自分で確かめる。
用例>本を―〔=a:眺める。 b:内容を(軽く)読む。〕
㊁物事の状態を調査(観察・判断・評価)する。
用例>折(顔色・相手・出方)を見る。
※出典:『新明解国語辞典』第六版 ・引用の際、内容の抜粋と、文章を少しいじっている。本来記載されているものとは異なるのでご注意を(原文はもっと文章が多いのです)。
視界に入れるという意味もあれば、状態を調査するという意味もあって、「見る」は単純なものではないなと思った。「きく」も似たような感じ。ただ耳に入れるのと内容等をしっかり把握しようとするものがある。
しかし、残りの五感である「嗅覚」「触覚」「味覚」の表現は感覚情報をすぐさま認識している気がするのは何故だろう。変換できる漢字の多さが関係しているのか? まぁいい。
感覚情報といえば、文字情報と音声情報について語りたいことがあった。簡単に言うと「目でみるか耳できくか、どちらがより認識しやすいか」みたいな感じだ。私は、視覚よりも聴覚の方が刺激が強いと思う。そして、聴覚の方が強いからこそ音声情報は文字情報よりも社会に大きく広がっていると思う。伝わりやすいんだろうな、音声情報は。「百聞は一見にしかず」なんてことわざもあるけれど、そういう話をしたいのではない。あくまで文字と音声の話である。あしからず。
文字を目で追うよりも、生の声、力のこもった声が発する音は、何故か容易に惹きつけられる。声の強弱、大小、抑揚などなどは個々人によって千差万別であり、違いも意識しやすい。対して、文字情報からその個性を把握しようとすると多少の時間を必要とする。
文字の方は、詰め込まれている情報が隠れ気味だからだろうか? 音声の方は、強弱、大小、抑揚などが隠れるどころか前面に出ているような印象だ。そういうところも何だか「文学少女と部活動男」っぽいな。引っ込み思案と快活さ、勝手に付きまとう対比のイメージ。
別に、神経伝達の速さがどうとか、そういうことは言わない。けれど、ちょっとなんか悔しい。文字も文章も良いものなんだ。伝わるとドはまりすることだってある。それが無ければ生きていけないとさえ思うことがある。
しかし、悲しいかな。声、音声には一歩及ばない感じ。勿論、その状況が覆ることもあるが、伝わりやすさにおいては音声情報が強い感じがするのだよ。それに、陳腐な言葉も素晴らしく聞こえるのだけれど…。何故だ…。
(例として挙げるならば、和田たけあき(くらげP)さんの『エヌ』。あの曲は最近聞いたのだけれど、面白い。歌詞の九割は「ナポリタン」で構成されている。字で見ると「あぁ、ナポリタンばっか…」となるのに、声を通してきくと、「Hoo~‼ ナポリタン‼」って感じになる。あれは卑怯だ。ナポリタンが陳腐な言葉がどうかは関係なかったな、スマソ。)
話題が「見る」より「きく」になったので軌道修正。
文字のことを書いたけれど、今までは主に小説等の中の文字をイメージして書いた。黒で統一された文字たちは、統一性という意味では視覚的な美しさを感じるけれど、絵画と比べると物足りない。
それは文字が色彩の美しさよりも、構成的な美しさを優先させた結果かもしれない。言葉を重ねて重ねて、その果てにできた「構造を美しいと感じさせる術」を追求してきたからかもしれない。絵画や音楽にもそういった面はあるだろうけれど、この点においては文字の方が努力してきた感はある。まぁ、個人的な感想に過ぎないけれど。
ここまでを読み返すと、「見ること」が主で無い気がするがさておき、今回のまとめ。
伝え方や表現方法を工夫すれば、「見ること」の方が「聞くこと」よりも大きく伝わる(こともある)。
文字が音声を凌駕した情景を、私は見たい。さぁ、筆を執り、書けるもの書きたいものを書くのだ!




