二次元なんて大きらい!
( 私の大切なこと。それは )
大切なことは、案外、嫌いな場所で習うものだ、と学校が行きたくなくてぐずっている私に母はよく教えてくれた。
学校ではあまり習わなかったような気もするが、私は今、その言葉を理解した。
( ありがとう )
あの出来事がなければ、私はここにいなかったんだ。
あの出来事には、あまり感謝したくないけど。
「おはよう」
元気に声をかけてきたのは五つ下の弟だ。よそって置いておいたご飯を口いっぱいに頬張っている。
「そんなに入れたら喉に詰まるよ」
そう笑いながら注意したのはお母さん。四十過ぎたわりには若い顔とスタイルだ。世の中のお母さんの中でも美人の方だと思う。それを本人に言うと本人はからかわれたと思って少し怒るけど。
「忘れ物しないようにな」
そう言って弟の頭を大きく撫でたのはお父さん。お母さんより年下だけど、何かあったときに冷静に判断してくれる、優しくて頭もいい、世の中で言う『良いお父さん』だ。
「パパも忘れ物しないでね!」
弟にそう言われ、笑いながら家を出るが、お弁当を忘れたことに気がついて戻ってきた。
「しっかりしてよ」
呆れながら私がそう言うと、お父さんは笑いながらごめん、と謝ってきた。
「アニメみていい?」
弟がそう言うと、お母さんは私の方をちらりとみると「今はやめなさい」と弟に耳打ちする。弟は残念そうに頭を垂れる。
私はアニメが嫌いだ。箱の中で生きているのか解らない物が人間みたいに動くのがどうしても苦手だ。それはアニメに限らず、ドラマや映画も苦手だ。だから家族の皆は私がいるときはテレビをつけない。一度弟が好きなアニメをむりやり見させられたが、その場で戻してしまった。なぜかイラストや写真は平気なのだけれど。
アニメが苦手な理由は他にもあった気がするが、忘れてしまった。
お父さんにお弁当を渡し、私も席を立ち、鞄を持って一つ咳払いしてから言った。
「行ってきます!」
弟とお母さんの「行ってらっしゃい」を聞いてから、一つ束ねた黒い三つ編みを揺らしながら外へ出た。
「おはよ!」
「おはよー」
角を二つ曲がったところでいつもの二人に会った。元気良く挨拶してくれたのは幼なじみの陽香。
眠そうに挨拶をしたのは同じく幼なじみの樹希。二人とも、私の数少ない大切な人。
「あのねー、樹希が言いたいことあるって」
「は!?ね、ねぇよ」
二人のやり取りをみて首を傾げると、陽香は冗談だ、と言って話題を変えた。
「ねえ、私の家で映画みない?」
「え、映画?」
聞き返すと、陽香は自信満々に言った。
「大丈夫!アニメだけど3Dだから!」
私は『アニメ』という言葉に寒気を感じ、樹希がその話題はやめろと陽香に目で訴える。
「ごめん、今日用事ある」
わかりやすい嘘をついて私はへらへらと笑った。陽香も「しかたないか」と言って笑ってくれた。
──映画みとけばよかった。
なんて後悔するのはもう少し先で。
何気ない授業を受けて、空がオレンジ色になり、帰宅の準備始める頃、陽香が教室に顔を出した。
「あ!いたいた!ねえ、お願いしてもいい?」
お願い?首を傾げると陽香は難しそうなことが書いてある数枚の紙を入れたファイルを渡してきた。
「これ、うちの二軒隣のおばさんのところに渡してもらっていいかな?どうしても映画みたいの」
自分の家で映画みるなら見終わった後に渡せばいいじゃないか、と思ったけど頼み事なら断れない。
「わかった。二軒隣だね」
そう言うと陽香はお礼を言ってさっさと帰ってしまった。
「一緒に帰ってくれないのか……」
と独り言をぽつりと零した。ファイルは後で取り出すのが面倒になりそうだから、カバンにしまわずに手に持ったままにしておいた。
「えーと、二軒隣……」
少ない街灯の道で、小さな灯りを頼りに道を歩く。この道は人通りが少ないという理由であまり帰宅の時に使わないが、もう少し暖かい時期に通ると、金木犀の香りがするとてもいい場所だ。
けど今は何の匂いもしない、アスファルトの上にただ、暗闇が漂うだけ。
街灯の少ない一本道を抜けると、街灯だらけの、目立つ色の家ばかりが並ぶ広い広場がある。端にあるその中でも目立つ変わった形の、赤色の屋根が陽香の家。その二軒隣の家は、茶色い屋根の、この広場の中でも珍しい地味な少し小さめの家だ。
三段しかない低めの階段を上がり、屋根の色と統一したであろう茶色の花の彫刻がある扉を、少し見つめた後、隣にある小さな音符が描かれたボタンを強めに押した。
特徴的な音楽が流れ、暫く待つ。が、住人が出てくる気配がない。もう一回押しても、音楽が流れたあとに、静まり返るだけだ。
居ない、ということを確信した後、ため息を吐き、鞄を持ち直した時、明らかにその家から何か重いものを落としたような鈍い音が聞こえた。
あ、この人居留守使ってる。
そう思った私は大胆に、「いませんか」等、大声をあげて扉を何度か強く叩いた。
「大切な用なんです!」
実際そうかは知らないが、ここまで言えば出てくれるだろう。が、住人は期待を裏切る。いつまでたっても出る気配がない。
なんだか腹が立ってきた私はさらに大胆なことを思いついた。
この資料、家の中に入って玄関のところへ置いてやろう。まあ、鍵が閉まっていなければの話だけど。
私はそっと扉を開ける細長いドアノブに手を添えて、力を込めてゆっくりと押す。
がチャリと音をたてると、扉は私の手に逆らうことなく開かれていく。
(噓、開いた……)
しばらく扉を半開きにした状態で口を開けて驚くが、開いているなら、と扉をさらに押す。
開けなければよかった。そんな後悔をしたのはもう少し後で。
目の前にはぐったりとして、青白い顔をした女の人が玄関に長い髪を垂らしてものすごい険相でこちらをみている。驚くところは、その人の水色の服に赤黒い色が染み渡っていく。
「ひっ……」
息が詰まり、腰が抜けて階段から滑り落ちる。尻餅をついただけでそこまで大きな怪我はなかったが、すぐに立ち上がることはできなかった。
ゆっくりと呼吸を整え、鞄の中から携帯を探す。ようやく震えた指で携帯を見つけ出し、救急車を呼ぼうとしたとき、後ろから視線を感じた。
顔をみせたくないのか、黒いフードを深くかぶり、全身黒で統一している。体格的に男の人だろうか。しかし、膝が笑い出したのは、そんな外見のせいじゃない。問題なのはその人が持っている物だ。
よく、台所でみて、よく使うそれは、綺麗な鈍色はなくて、先程みた赤黒いものが、こびりついていた。
声も出なかった。息苦しくて、整えた呼吸がまた乱れていく。
その人はそれを持ったまま、近付いてくる。ゆっくりと、わざとなのかと思うくらい、歩みが遅い。
このままではいけない。
そう直ぐに思った私は、力を込めて立ち上がり、覚束無い足どりでとにかく逃げた。携帯を握り締め、走りながら警察へと連絡しようとするが、汗のせいか、手からするりと抜けると、凄まじい音をしてアスファルトの上へと転がった。
拾おうとするが、奴がすぐそこまで来ていることに気付き、携帯をそのままにしてまた走る。
荒い息が後ろから聞こえる。なるべく遠ざけるように、ペースを落とさないように、一歩を大きくして、速く脚を動かす。
無我夢中で走っていると、公園がみえた。よく幼なじみと待ち合わせ場所にする、遊具はあまりなく、トイレだけは綺麗なお気に入りの公園。
(トイレ!トイレに逃げよう…!)
あそこのトイレには人が一人入れる大きな窓があり、その窓を抜けると私の家の近道である学校の裏道へと行ける。
トイレに入り、その窓から逃げて助けを呼ぶ、という作戦だ。
咄嗟に私は走るスピードを上げて、そのトイレへと駆け込む。そして扉の鍵を閉めて、窓を開ける。が、余裕の表情を浮かべたばかりの私にまた一つ、問題が増えていく。
地面がない、ただの黒。
窓からみた景色はいつもの風景ではなく、どこからどの角度で見ても、黒色しかない。
もう時間も遅いからこうみえるせいで、きっと他の窓からみたら違う景色がみえる。
そう考え、違うトイレの個室へと移動しようとする。
が、扉から二つ、ノックの音が聴こえ、口を咄嗟に押さえる。
奴が、追いついたんだ。もうすぐそこにいるんだ。
息を潜めて奴が通り過ぎるのを待つが、二つだけだったノックは数が多くなり、次第に叩き方も強くなってくる。
肩を震わせながら窓からの景色と凄まじい音が鳴る扉を見比べる。奴に捕まれば命はないが、窓から落ちれば奇跡的に助かるかもしれない。
窓の淵に足をかけて、生唾を飲む。
(生きろよ……私…!)
そして思い切り淵を蹴飛ばし、闇の中へと身を投げる。
鍵がこじ開けられた音がした時には、もう私はその場にいなかった。
霞んだ視界の中には、様々な色と形があり、瞬きを繰り返していくうちに視界ははっきりとしたものになる。それが一面に咲くたくさんの種類の綺麗な花だとわかる。
あまりにも異様な、綺麗すぎる光景に、私は死んだのか、と理解する。
綺麗というだけではなくて、暖かく、大好きな金木犀の香りもして、ほのかにシチューの匂いもする。
ここが天国か、と再び理解し、心地良い雰囲気のせいか眠くなり、再び瞼を閉じた。
「………じょ……?」
ぼんやりとした頭の中に鈴のような声が響く。その声は心地が良くて、あまり言葉が聞き取れないのを残念に思う。
「……じょうぶ……?」
声は段々とはっきりとしたものになり、頬は何か暖かいものに包まれている。まるで、お母さんの手のようなもの。
「大丈夫?」
ぼんやりとしていた言葉がはっきりと耳元へ届く。その言葉は私に言われているかどうか確認するために、ゆっくりと瞼を開けた。
「よかった…生きてる」
小さな悲鳴を上げそうになった。
最初に視界に入ってきたのは人の顔だった。男の人、だろうか。
真っ白な肌に映える垂れた黄金色のサイドの髪を耳にかけ、細い眉を下げ、我が子をみる母親のように目を細めている。翡翠色の瞳は少し潤んでいて、後ろの方の髪の毛先だけが真っ白なのを確認できた。
この人の顔に悲鳴を上げる要素はどこにもないが、問題なのはそこではない。これはどこからどうみても『キャラクター』ではないか。イラストなのに、立体的。何のアニメのキャラクターなのかどうかは知らないが、現実味の無さに硬直する。
しかし、不思議なことに吐き気はない。
そして、私の頬を包んでいるのは、この人の手。
(う、うわ!)
私は急いで身体を起こし、辺りを見渡す。先ほどの場所とは特に変わっていないが、唯一変わったところは、金髪の、枯葉色のロングコートを着た人がいるところ。私はとにかく此処がどこなのか、貴方は誰なのか、ということを聴くために口を開く。
(あなたはだれ?)
(…あれ?!)
声を発したはずなのに、口からはただの息しか出ない。何度も言おうと唇を動かすが、言葉だけが出なかった。
「えーと…?」
彼は首を傾げて私をじっとみつめる。少し考え込む仕草をしたあと、何か思いついたのか、にっこりと笑った。
「ついてきて!」
唐突に走り出す彼はすれ違い様に私の腕を掴み、引っ張る。私は何も理解できないまま、ただ引っ張られることだけしかできなかった。
「着いたよ!」
ここまで来るのに、そこまで時間はかからなかった。が、草、木、道全てがイラストで、そろそろ二次元酔いしそうだが、不思議なことにまだ吐き気はない。気落ちはしそうだが。
「ここだよ」
彼が私を引っ張ってきたのは、この家を見せるためだろうか。オレンジ色の大きな瓦でできた屋根、木でできたぼろぼろの扉。まるで絵本にあるような家だ。
彼はその家の扉を躊躇なく開けると、私に微笑みながら手招きした。
中に入ると、ずっと狭い廊下が続いていて、その廊下にはたくさんの扉と大きな全身鏡がたてかけてある。奥の方からは賑やかなたくさんの笑い声が聴こえる。
彼とあまり距離を詰めないように廊下を突き進む。存在感のある全身鏡を少し覗き、通り過ぎようとしたが、またその鏡を覗いて、悲鳴を上げる。もちろん、声は出ないけど。
鏡に映る私の容姿がガラリと変わっている。むしろこれは私なのかと問いかけたいくらいだ。
黒かったはずの髪の毛は明るい黄緑色になっていて、しかも下のほうは水色で、グラデーションになっている。長かったはずの前髪は眉の上くらいまでに短くなっている。
後ろ髪だけ結った一つだけの三つ編みは、左側だけサイドの髪の毛も小さく三つ編みがしてあり、そこだけが白色になっている。
茶色だったはずの瞳はウサギのように真っ赤になって、しかも、目は二倍くらいの大きさになっていた。
肌もいつもより白くなっていて、眉も細い。唯一制服だけはそのままだが、イラスト風になっている。いや、『風』ではない、『イラスト』だ。
私も、二次元の住民になっていることに…なるのだろうか?
くらりと目眩がして座り込むが、心配をかけたくないという思いだけで立ち上がり、彼の元へと駆け寄る。彼が心配するかどうかは解らないが。
奥の部屋へ入ると、『キャラクター』がずらりと丸いテーブルを囲んで座っていた。彼と合わせて、五人だ。それぞれ性別や歳はバラバラで、容姿もそれぞれ違う。
また目眩がするが、なんとか倒れないように持ち堪えることができた。
「あら新人ちゃん?よろしくねえ〜」
一番左側に座っている人は、多分、綺麗な人だ。暗めの茶色い長い髪をサイドテールに結っていて、オレンジ色の瞳はカラーコンタクトだろうか。
青いアイラインに赤茶色のアイシャドウ、ばさばさしたまつ毛、真っ赤な唇。
濃すぎるほどの化粧をしているから女性かと思ったが、オシャレとも思えない「お洒落」と筆で書かれている白いTシャツから伸びたごつごつとした腕をみると、案外違うのかもしれない。白いシャツに薄い青のジーパン。服のオシャレには興味ないのだろうか。
「まじか!新人!うける!」
その人のとなりでなぜか、けらけらと笑っている人は、ぱっと見ギャルだ。
瞳は左右違う色で、薄紫と濃い紫色だ。
明るい赤茶色の長くてくるくるした毛先の髪を二つに結っていて、先ほどの人よりかは化粧は濃くないが、頬にはハートの小さなシールをつけたり、まつ毛の先が赤色だったり、なんだか先ほどの人と似ている。が、嫌味というほど出っ張った胸や、ワイシャツに、緩めた水色のネクタイ、白のカーディガン、深い藍色のプリーツスカートをみる限りこの人は女性、というか私と同じ女子高生だろう。
「ん?あら、どんな子かしら?」
細い目の中には大きな黒い瞳が爛々と輝いている。真っ白な髪は、お団子にして全て後ろでまとめてる。シワが多い顔や曲がった腰をみると、おばあさん、だろうか。
黒を基調とした布に白いクラゲが描かれている浴衣を身につけている。
なんだか可愛らしい微笑む顔をみると、『おばあさん』というより『おばあちゃん』だ。
「…よろしく」
そう言ってそっぽ向いたのは、少し幼い顔をした青年だ。短く白い髪の毛先の一部は茜色で、藍色の瞳は深海をみているようにみえる。
この人は男性と解るが、一見、タキシードに見えたが、よくみると黒色の生地に白いフリルやレースが所々に付いた男性用のゴスロリ服を身につけている。白いネクタイにはフリルはない。
少し太めの眉とつり目のせいで、なんだかキツネみたいだ、と考えてしまった。
「さ、座ってよ」
イスを持ってきた金髪の彼が、イスに座るようにすすめる。遠慮なく座ると、ギャルの人に座り方がおっさんだ、と笑われた。
「自己紹介しよう」
また金髪の彼が元気よく言う。その場にいる皆も賛成と言って順番をジャンケンで決めている。結局、中々勝負がつかなかったので、端から順に自己紹介することになった。
まずは先ほどの化粧が濃いオネエ?からだ。
「アタシは『キンギョハナダイ』!ハナって呼んでね〜!五年前くらいにここにきたの!趣味はオシャレすることかな〜」
名前に少し違和感を感じたが、そういう名前もあるんだ、ということで聞き流すことにした。
次はギャルの子だ。
「うちは『アオミノウミウシ』!ミノウって呼んでね。ハナとお化粧研究中〜。六年前に来たからハナより先輩だよ〜」
ミノウがピースをしながらハナと寄り添う。二人ともそのまま決め顔をすると近くにあったデジタルカメラで自撮りしている。
その次はおばあちゃん。
「わたしは『ミズクラゲ』。好きに呼んでね。二十年前からここにいるから、わからないことがあったらきいてね」
なんだか先ほどから生き物の名前が多いのが気になるが、本名なのだろうか。聞きたいことはたくさんだが、自己紹介が済んでからでいいか、と思い、とりあえず自己紹介が終わるのを待つことにした。
ミズクラゲさんの次は無愛想な人だ。
「俺は『コサックギツネ』。呼び方はそのままキツネでいい。八年前くらいからここにいる」
ほんとにキツネだったことに対してツッコミはとりあえず置いておいて、皆ここに『来た』と言っている。最初から住んでいるわけではないらしいが、一体どこから来たのだろうか。
こんな考え方もおかしいかもしれないが、私と同じ三次元出身だろうか?
そして次は金髪くんが自己紹介してくれた。
「ぼくは『ユーフォルビアマルギナタ』。ユタって呼んでよ」
ユタは微笑むと、自己紹介君の番だよ、と言いながら小さめのメモ帳とペンを私にくれた。
《わたしは》
ここまで書くと、なぜかユタはペンとメモ帳を取り上げ、続きをすらすらと書く。すると、メモ帳を一枚千切り、テーブルの上へ優しく置いた。
すると皆はなるほど、と頷く。唯一頷いていなかったのはミズクラゲさんだ。ただ微笑んでじっとしている。暫くするとキツネがミズクラゲさんに耳打ちし、ミズクラゲさんもようやく頷く。
私もメモの内容を読んでみたが、あることないこと、というよりないことばかり書いてある。
《 私の名前は『アカエリトリバネアゲハ』!エリって呼んでね!!好きなタイプはイケメン!趣味はナンパ!声が出ないことは知っておいてね!よろしく! 》
声が出ない、というところは合ってるが、名前と好きなタイプ、趣味が違う。
弁解しようと思ったが、ハナとミノウの間で盛り上がってるので、そういうことにしておいた。
「じゃ、説明したいことあるから。ついてきてよ」
ユタは席を立つと、またすれ違い様に私の腕を引っ張る。今度はなんだ、と聞きたいがメモ帳を置いたままその部屋からでてしまった。
狭い廊下にまた出ると、その部屋から出たすぐ向かいの扉を開けて私を部屋の中へと入れる。
真っ白なカーテン、大きすぎる窓、小さな丸いテーブル、それに合わせた二つの丸いイス。端の方には小さな白いシングルベッド。
良くも悪くもシンプルな部屋。
「説明するからちゃんと聞いてね。この世界のルール」
ユタがイスに座ると、今まで微笑んでいた眼は突然笑みが消えた。
まるで、聴かなかったら噛み付く、と言わんばかりの、オオカミのような眼だ。
私は急いで何回も頷いた。
「ここは死んでしまった人が集まる世界」
ユタの言葉に息を詰まらせる。
(え…私やっぱり…し、しん…)
彼の言葉に青ざめると、彼は私の様子に気付いたのか、言葉を足した。
「自分を見失って社会から孤立してしまった、人たちの場所」
ほっと胸を撫で下ろした。そういうことなら大丈夫か、と安心する。安心していいのかどうかは解らないが。
(ああ、『死』ってそういう…でも私自分を見失った覚えないんだけど…)
首を傾げていると、彼は少し微笑んだ。
眼はまだあまり、笑っていないけど。
「もちろんもとの場所に帰りたいよね?」
( あたりまえだよ! )
彼の言葉に思いきり首を縦に振る。すると彼はそうだよね、と何故か意外そうな顔をして説明を続ける。
「この世界から帰るためには、鏡の前で自分が忘れてしまった『大切なこと』を、本名と一緒に言うんだよ」
(大切な…こと…?)
家族、友人、命。大切なことや物は忘れた覚えがない。他に大切なことがあるかどうか聞かれると、何も出てこない。
「君の忘れてしまった大切なことは、多分、言葉や声に関係あるよ」
腕組みをして彼は髪をいじりながら言う。
(言葉…声…なんで?)
少し前のめりになって彼の答えを待つ。彼は話をまとめているのに苦労しているのか、腕を組んだまま唸っている。
「ここの住人はその大切なことに関係した身体の場所が、使えなくなるんだ」
彼は困ったように眉を下げる。その言葉をきいて、私は自分の喉にそっと手を添えた。
(『使えなくなる』…?私の声が出ないのも大切なことを忘れたせい?)
喉を指でとんとんとつつきながら首を傾げると、彼は私に手のひらを見せて、その中心を私の真似をしているのか、とんとんとつつく。
「例えば僕は、触感がわからない」
(触感…?)
「一応説明しておくけど、ハナは記憶が六時間ももたない。ミノウは耳が聴こえない。ミズクラゲは目がみえない。キツネは味覚がわからない」
彼は言ったあとに、「これ言って良かったかな」と呟いたが、まあいいか、と息を深く吐いた。
(あれ?じゃあなんでみんな普通に会話できたんだろう)
私はそれを聞きたくて、自分の口の前で手を閉じたり開いたりしたあとに首を傾げた。
彼は私をしばらく見つめたあと、「あ!わかった!それはね!」と言って手を叩いた。
「みんなそれぞれのやり方で、みんなを支えてる。耳打ちで教えたり、メモを書いてみせたり」
彼はまた私の真似をしてジェスチャーをしながら教えてくれた。私は耳が聞こえるからジェスチャーは必要ないが、本人が楽しそうなので、放っておくことにした。
(みんな、助け合ってるんだ)
すごいなあ、と感心し、頷いていると、彼は思い出したようにまた説明を足してくれた。
「もちろん、元の世界へ戻るときはなくなったものがかえってくるよ」
その言葉に私は安堵し、少しだけ笑みを溢す。
(じゃあ、とりあえずあの鏡の前で色々言えばいいだけだから簡単かな)
余裕だと言わんばかりの笑みを再び浮かべると、彼は私に釘をさす。
「言っておくけど、チャンスは一回だからね」
今までよりもいい笑顔で彼は言う。
(え…)
しばらく私が口を開けてポカンとしていると、彼は「ここの部屋はエリのだから好きにしていいよ」と言いながら立ち上がる。
「じゃ、エリが帰れるように祈っておくよ」
扉を開けて帰り際にそんなことを言って悪戯に笑うと、扉を閉める。廊下から軽やかな足音と鼻歌が聴こえる。
(頑張れ、私…)
天の上まで届きそう深い溜息を、私はゆっくりと吐いた。
日が沈み、空がオレンジ色に染まる頃。
しばらくベッドの上でごろごろしながら、大切なことを考えていると、ノックが二つ聞こえた。
「エリさん、ご飯できたよ」
この優しい声はミズクラゲさんだ。まさかご飯があるとは思わなかった私は、すぐにベッドを飛び起き、先ほどの部屋へと早歩きで向かう。
部屋へ行くと、皆は既にご飯に手をつけていた。無愛想なキツネは美味しそうにご飯を次から次へと口の中に入れる。
ユタは確か、キツネには味覚がないと言っていたが、間違いなのだろうか。
テーブルの上に並べられた美味しそうなご飯。だが、やはり二次元。全てイラスト。
なんだか食べるのは気が引けるが、食欲と鳴るお腹には負ける。
( いただきます…!)
急いで席に座り、しばらく手を合わせたあと、自分の席の前にある可愛らしい花が描いてある黄緑色の箸を手に持つ。
まずはお椀からはみ出すくらいによそって置かれている白飯から頂くことにした。
(っ…〜!!!)
もっちりとした食感と、噛めば噛むほど溢れる甘味。
なんだか久々にご飯を食べたような気がして、やっと生きた心地がしてきた。
「エリ、美味しいって言ってる」
キツネがミズクラゲに笑顔で伝えている。するとミズクラゲは微笑み、「よかった」と呟いた。
ご飯はミズクラゲさんがつくったのか。目が見えないのにすごいな、と感心する。
それに、キツネのあの笑顔。無愛想でもあんなに笑うことができるんだな、と少し嘲笑ってやった。
キツネにはみえていなかったようだが。
幸せそうに笑う二人をみて、なんだか家族みたいだ、と思い、レモン色の小さい卵焼きを口の中に入れる。
( おいしい!)
私の様子をみたキツネが、嬉しそうな口調でご丁寧に説明してくれた。
「その卵焼き、ココナッツオイルが入ってるんだ。ミズクラゲの案で入れることにしたんだ、身体にもいいって…」
キツネは頬を赤く染めて、嬉しそうにミズクラゲさんのことを褒める。
そのキツネの様子は、親を褒めている息子にも見えたが、彼女を褒める彼氏にもみえた。
まさか、ね
とりあえず話に頷きながら、私も頬いっぱいにご飯を詰めた。
ご飯を食べ終わり、リビングで少しくつろいでいると、ミノウにお風呂へ入るようにすすめられ、入ることにした。
お風呂があるのは家の入り口に一番近い扉。広い脱衣室を抜けると、小さな浴場がある。詰めたら三人は入れそうな広さだ。
( つかれた、いつになったら帰れるかな )
湯船に浸かり、息をゆっくり吐き出す。水面に私の顔が映っていることに気付き、急いで目を逸らす。
(二次元なのに、いつの間にか慣れてるのかな…吐き気もない)
お湯の温かさに少しウトウトしていると、怒鳴り声が耳に届き、湯船に寄っかからせた身体を急いで起こす。
「いやだ!」
これは、キツネの声だろうか。地面が割れそうな、迫力のある声。
「絶対いやだ!いやだ…」
怒鳴り声は段々とチカラのない、震えた言葉になっていく。
何か喧嘩かもしれない、と下着とワイシャツ、スカートだけを身につけて急いで風呂から出る。
声の主はやはりキツネだ。扉を開けると、まず最初にキツネが視界の中に入る。キツネは溢れそうな涙をがっと堪え、唇を噛んで前を見据えている。
キツネの前にオロオロした様子でミズクラゲさんが立っている。
「キツネさん、怒らないで」
「怒ってない!」
キツネはそう言うと自分の部屋であろう扉へ入って行ってしまった。
乱暴に閉められた扉の音は廊下中に響きわたり、その音を聞いたハナが顔を覗かせ、どうしたの、と心配してくる。
ハナに事情をメモに書いて渡すかどうか悩んでいると、泣きそうな顔でミズクラゲさんは「なんでもないよ」と首をふる。するとハナも、少し考え込んだあと、解ったと言って自分の部屋へと戻って行った。
「そこに誰かいるの?」
ミズクラゲさんが不意に言った言葉に、私はどうすればいいか解らなかった。彼女は目が見えなくて、私は声が出せない。全ての連絡手段が絶たれてしまったのだ。
「…いてもいなくてもどっちでもいい。少し、独り言をきいてほしいの」
ミズクラゲさんはそう言うとゆっくりと深呼吸を繰り返し、話始めた。
「二十年前にここへ来た時、気が狂いそうだったのよ。何もみえないし、話す人もいなかったし、心地良いけどどこにいるか解らない恐怖だけが、わたしを襲ったの。途方に暮れて、泣いたりもしたのよ」
彼女は大切なことも解らないし、と困ったように眉を下げ、微笑んだ。
「息子も亡くしてね、ほんとに生きる意味なんて無かったから、死んでも別に良かったの」
告白された言葉に、ガン、と殴られたように衝撃を受ける。
(息子さん…が…)
「死んだ方がマシだったの」
ぽつりと零した言葉を、私は聴いてしまった。
(そんなに悲しいこと言わないで)
そう言おうと口をぱくぱくさせるが、声が届かなければ、思いも届かない。
でもね、と彼女は続ける。
「本当に絶望の淵へ落ちそうなとき、キツネさんが来たの」
彼女の瞳がきらりと輝いた。
「キツネさんも無口な人でね。足音がするまで人が来たことなんて知らなくて、キツネさんが話しかけてきたときは驚いたのよ」
くすくすと可愛らしく笑った後、何故か笑みが消えた。
「息子に少し似ているの。無口なのに、おはようとか、おやすみとか、ありがとうはちゃんと言うところが。この人は本当は息子なんじゃないかと思い始めてしまってね…」
彼女の声は少し震えていた。
私の推測だが、ミズクラゲさんは過ごして行くうちにキツネを本当の息子と思ってしまって、息子と思いたい気持ちと、息子と思ってはいけないと思う気持ちで葛藤しているのだろうか。
「それにね、大切なこと、見つけたの」
息を吐き出しながら彼女は言う。
(…え!?)
どういうことか詳しく知りたいが伝える方法がない。とりあえず彼女が話してくれることをじっと待つことにした。
「本当はもう三年くらい前に大切なことに気がついたの。けれどね、キツネさんと…その…離れたくなくてね」
そこで私はまた推測する。息子と離れたくなくて、でも元の世界に帰りたいことで葛藤しているのか、と。
「でも、この世界でも私は歳をとる。このままここにいたら、もっと悲しいお別れをするかもしれない…だからね、元のところへ帰るって伝えたの。そしたら、怒鳴られてしまって…」
ため息を吐くミズクラゲさんをみて、私はキツネに文句を言おうとキツネの入って行った部屋へと突撃する。
「何勝手に入ってんだ」
部屋の隅でうずくまっているキツネをみつけ、シングルベッドの上にあったシンプルな枕をキツネに向かって投げつける。
(女の人にため息つかせるなんてサイテー!)
(困らせるのはもっとサイテー!!)
(それなのに被害者面してんのはさらにサイテー!!!)
気持ちを乗せた枕をキツネに向かって投げ、拾っては投げ、を繰り返す。
キツネは何がなんだか解らないまま枕を受け止めている。
(なんとか言ってみろ!キツネ!)
しばらくそれを繰り返していると、キツネは俯き、私にこんなことを聞いてきた。
「ミズクラゲさん、困ってた?」
そしてちらりと私をみる。私は大きく頷いてやった。
「そっか…そりゃそうだ…」
彼もまた、ため息を吐き、唇を噛む。
「あのさ、こんなことエリに言うのもおかしいけど、笑わないできいて」
枕を持ったまま、私は投げようとする体勢で彼の言葉を待つ。
「好きなんだ」
枕が手から滑り落ちた。
「ミズクラゲさんのことが、好きなんだ」
キツネの顔は爆発しそうなくらい真っ赤になっている。この顔はキツネ、というよりタコだ。
キツネは、誰にも伝えるなよ、と私を睨みつける。そして、話を続けるため、顔を赤くしたまま咳払いをし、口を開く。
「わがままだって解ってるけど、行かないでほしいんだ」
彼は手で顔を覆う。そのせいで、どんな顔をしているかわからない。
「俺を見ないまま、行かないでほしい」
ミズクラゲさんだって、離れたくて言ったわけではないのに、というかそれを伝えればいいのに、と心の底から思う。
「意見、聞かせて」
キツネはそう言うと、机の上に置いてあった手のひらサイズの白紙と黒色のシャーペンを私に手渡してきた。
私は白い紙に、なるべく相手が読めるように、急いで文字を書く。
《 ミズクラゲさんに言いたいことを言えばいい。それで解決 》
書き終わり、キツネにその紙を突き付ける。するとキツネはまた赤くなり、私を睨みつける。
「できたら苦労しない」
《 意気地なし 弱虫 》
さらに書き足すと、彼の瞳からぽろりと雫が零れた。
(ええ!?泣く!?)
「そんなの自分が一番わかってる!味覚もないせいで、ミズクラゲさんのご飯美味しいって言えなくて、思えなくて、すごく悔しくて!無口な俺にもミズクラゲさんは接してくれて、めんどくさいとか言わないでくれて…!」
言葉は段々と嗚咽へと変わっていく。流石に申し訳ないと思った私は、急いで先ほどの言葉を塗り潰し、謝罪の言葉を書く。
《 ごめんなさい、言葉をもう少し選べば良かった》
彼にまた紙を渡して、頭を下げる。
「…泣いて悪かった」
袖で涙を拭いながら、彼も頭を下げる。
「俺さ、殺されかけたことあるんだ」
涙を拭いながら惨いことを彼は軽く言う。驚愕し、硬直した私を放って置いて話を続ける。
「毒、盛られてたんだ。そのせいで、食べることが怖くなって、母さんのつくるご飯、いつも食べたふりして捨ててた」
「味覚失くして当たり前だと思う」とか言ってへらへらと笑っている。
「もうそれからご飯捨てることに慣れてさ、最初は、その…ミズクラゲさんの作ったご飯も捨ててたんだ」
彼は申し訳なさそうに言う。
「でさ、ある日突然、ミズクラゲさんが、野菜がどうやって実るのか知ってるかって聞いてきたんだ。もちろん俺は素直に知らないと答えた。そしたら一緒に作ろうと言ってきたんだ。それにも特に文句はなかった」
頬をぽりぽりと人差し指で照れたようにかきながら、話を続ける。
「最初はトマト、その次はイチゴ、そのまた次はリンゴ。ミズクラゲさんと育てるのは楽しくて、それから出来たものを調理もしたんだ」
《 楽しそう 》
そう紙に書くと、「楽しかった本当に、楽しかった」と彼は返して、微笑んだ。
「そして調理をしたとき、気付いた。ミズクラゲさんは目が見えないのに、一生懸命調理している。美味しく食べてもらうためにって照れくさそうに笑いながら言うんだ。その時ぼくは、忘れた大切なことを思い出した」
《思い出してたの!?》
急いで紙に書き、その言葉を指でさし、とんとんと叩く。すると彼は頷く。
「もうだいぶ前に思い出した。でも、ミズクラゲさんと離れるの嫌で」
《 じゃあ一緒に元の場所に戻ればいいのに 》
また書いて渡すと、訳が解らないと言わんばかりに首をかしげる。
《 同時に大切なことと本名言って帰ればいいんじゃないの? 》
そう言うとキツネは一層表情を曇らせた。何か言おうとしてるのか、口を開いては閉じ、を繰り返している。
《 ミズクラゲさんの目が見えないままでいいの? 》
紙を突き付ける。すると彼は、「そんなことない」と大声を出した。
「そうか、もう帰らないと、だな」
深呼吸をして、彼は立ち上がり、私をみて、今までよりも美しい満面の笑みを見せた。
「ありがとう、エリ」
彼が無愛想すぎてあまり気付かなかったが、彼はイケメンだ。二次元でのイケメンは三次元でもイケメンというのか解らないが。
彼が出ていくところを、慌てて追いかけようとすると、誰かにぶつかり、衝動で尻餅をつく。
( 痛ー…)
誰だと思い切り見上げると、ユタが目を丸くして急いで私が立ち上がるのに手をかしてくれた。
「ごめん、痛かったよね」
ユタが怪我はないかどうか聞いてくる。私が首を振り、こちらこそごめんなさい、と頭を下げると、「お互い怪我なくて良かった」、と笑ってくれた。が、ユタは私をみて何かに気付き、少し頬を赤く染めて視線を外す。
「えーと、言い難いんだけど、その格好は…あまり良くないんじゃないかな」
その言葉で私は思い出した。下着は着けてるが、ワイシャツとスカートだけだ。
私は急いで脱衣室まで走り、制服全て装備する。
( キツネも教えてくれたっていいのに…! )
火が出るような恥ずかしさに泣きそうになる。
(それにあまりタオルで拭かないで着たから…下着…透け…うわあああああ!!)
恥ずかしすぎてドタバタと脱衣室のなかを走り回ると、扉の向こうから「ごめん、大丈夫?」とユタの声が聴こえた。
大丈夫じゃない!と叩きたいが、ここは落ち着いた対応をしようと、一度脱衣室から出て、余裕を持った笑みで対応した。本当は心臓がうるさくてそれどころじゃないが。
「あ、大丈夫そう。良かった」
ほっとした彼は自分の部屋に戻ろうと踵を返すが、一度立ち止まり、振り向く。
「キツネとミズクラゲさんみなかった?」
ズボンのポケットから可愛らしいメモ帳とペンを取り出し、私に差し出す。
《 多分、もう元の世界に帰ったよ 》
メモをみたユタは、目を丸くした。
「キツネが…?そうか、一歩踏み出せたんだね」
彼は微笑むと、首を傾げた。
「いいのかな…二度と会えなくなるのに」
彼が呟いた言葉を私は聴き逃さなかった。
《 二度と会えなくなる? 》
また書いてみせると、彼はまた首を傾げる。
「だって、キツネはミズクラゲさんのことが好きなんでしょ?彼らは元々住んでる世界…次元が違うから、二度と会えないよ」
《 次元が? 》
震えた手で書くと、「言ってなかったっけ?」と彼は頭をがりがりと掻く。
「ハナとキツネは二次元出身、ミズクラゲと僕は三次元出身」
あまりの驚きの発言に、顎が外れそうなくらいまで口を開く。
( え、えええええ!?元々二次元出身もいるの!? )
だとしたら、あの二人が元の世界へ戻ったら、本当に離れてしまう。
二度と、会えなくなってしまう。
二人を止めないと。
私は無駄に長い廊下を真っ直ぐ走る。
鏡の前には、二人が、いる。
割って入ろうとするが、ユタに肩を掴まれ、余計なことはするなと言わんばかりに私を睨む。
「キツネさん、手、繋いでもいい?」
「うん」
二人は手を繋ぎ、じっと鏡を見据えてる。
「ミズクラゲさんの本名教えて」
暫く沈黙が流れると、彼は口を開く。
「わたしの名前は、久良守 実花。キツネさんは?」
「俺は、常木 紺」
二人は名前をお互いに伝えると、微笑み合う。
「ミケ、さん。俺は、あなたのことが好き。好きです」
キツネがそう言うと、ミズクラゲさんは、身体を反らして驚いている。
「冗談は良くないよ」
「本気」
ミズクラゲさんの言葉を遮って、キツネは伝える。ミズクラゲさんは頬を赤く染めたあと、「ありがとう」とキツネに伝えた。
「あなたと過ごしているうちに、そろそろ息子の死を認めないと、って思っていたの。真実をみて、前に進むことも大切だからね」
ミズクラゲさんはまたキツネに「ありがとう」と言っている。キツネは涙をぐっと堪えて、震えた唇を一生懸命動かしている。
「ミケさんのおかげで、ミケさんの料理のおかげで、食べることの大切さと、作った人への感謝を思い出した。お礼を言うのはこっちの方だ」
キツネは言い終えると、溢れた雫をぼろぼろと零す。深海のような瞳から溢れる涙は、まるで魚が海から飛び出したようにみえる、と呑気に考えた。
そして、鏡から、真っ白な光が、溢れる。
鏡は白い光を放った後、元の鏡に戻った。
鏡の前には、二人はいない。
けれど、鏡が白い光を放っている時に
「また会おう」
「ええ、必ず、ね」
という短い会話が、聴こえたような気がしたのは、私だけだろうか。
「寂しくなるね」
暫く流れる沈黙をやぶったのは、ユタの一言だった。
確かに、寂しくなるけど、彼らが、最後まで微笑んでいたから、これはむしろハッピーエンドだと、私は信じたい。
ベッドの上に再び転がり、今日あった出来事を頭の中で巡らせる。
追いかけてきた男、二次元の世界、出ない声、大切なもの探し、仲間。
なんだか時間が長かったように思える。
( ありがとう、好き、おはよう、おやすみ… )
声を出そうと腹から出してみるが、出てくるのは息だけで、言葉は何も出ない。
あの微笑ましい二人をみて、言葉を出せることが唐突に羨ましく思えた。
( どうせ言葉が話せるようになっても、元の世界ではあまり使わない。…でも)
綺麗な言葉を、言いたい。仲間と、話したい。
いつになったら叶うのだろうか。
考え事をしているうちに、深い、眠りに落ちてしまった。
「エリりん起きて〜!!」
扉の向こうから聴こえた大きな声に、飛び起きる。
何だ、と寝惚けた頭のまま扉を開けると、目の前には白を基調として、たくさんの赤い大きな金魚が描かれている浴衣を、ハナが着こなしている。
「今日は『星咲かし祭』!ほら、エリりんも浴衣着て!」
(ホシサカシサイ?)
すると、遠くから赤を基調とした、白い花がたくさん描かれている浴衣を着こなすミノウもこちらへ駆け寄る。
「まじテンション上がる〜!エリちゃん、楽しもーね!」
二人はまるで純粋にお祭りを楽しもうとする可愛らしい双子だ。
《 え〜!ちょっと、ミノウ超可愛い〜! 》
「この浴衣まじ可愛いよね!」
ハナは聴こえないミノウのためにメモを書いて渡す。お互いを褒め始めた。前言撤回。この二人はまるで女子高生だ。
( 私も女子高生だけど…あんなにキャピキャピしたことない… )
「エリちゃんの浴衣持ってくるね!」
ミノウはそう言って奥の部屋へと行く。
「…ほんと…可愛い…」
ハナが顔を手で覆い、そう呟いたのを、私は聴いてしまった。
暫くして、浴衣を渡され、着るのをミノウに手伝ってもらい、やっと浴衣を着ることができた。
水色が基調の、薄い黄緑色の蝶々が描かれた、可愛らしい浴衣。
ミノウが小さな蝶々の形をした金色のかんざしを貸してくれて、今日は三つ編みではなく後ろ髪を一部だけまとめたお団子にすることにした。
「できたよ!」
そう言って私を廊下に押し出し、可愛いくできた、と誇らしげに笑っている。
「…可愛い…」
目の前で、意外そうに言ったのは、先ほどいなかったはずのユタだ。青っぽい黒色の甚平を来ていて、うちわで口元を隠している姿は、まるで女子だ。
(男性は何処へ…)
なんだかまるで女子会のような雰囲気だ。
もちろん、女子会には参加したことないが。
「ほら、早く行こうよ!」
ミノウはそう言うと、入口から出てしまった。それをハナも慌てて追いかける。
「僕たちも行こう」
そう言ってまたユタはすれ違い様に、今度は手を握り、引っ張る。
大きな温かい手を、軽く握り返した。
定期的に聴こえる太鼓の音、鳥の鳴き声のような笛の音。たくさん並ぶ屋台と、溢れる人。この世界にはまだまだ人がいたんだ、となぜか感動する。
「危ないから、僕と離れないでね」
ユタはそう言うと、握っていた手をさらに強く握る。
《 危ない? 》
紙を渡して、首を傾げると、彼は私から視線を外さないで、真っ直ぐ見据えて説明してくれた。
「ここは社会から孤立してしまった人がくる場所。そういう人たちが、必ずしもいい人とは限らない。逆に廃れて、取り締まる人がいないのをいい事に好き勝手暴れる奴もいるんだ」
だから絶対僕から離れないでね、と釘をさす。大きく頷くと、空いてる手の方で、頭を撫でてくれた。
「じゃあ、リンゴ飴食べよう」
彼と私はリンゴ飴の屋台へ行き、列の後ろへと並ぶ。ミノウとハナはそのとなりの綿菓子のところへ並んでいる。
とても楽しい時間はあっという間に過ぎてしまった。
二次元でも三次元でもお祭りが楽しいことは変わりないとまた一つ学んだ。
キツネとミズクラゲさんがいたらもっと楽しかっただろうか。
それだけは少し後悔していた。
日が少し沈んで、オレンジ色の空が藍色に成りかけている頃、「そろそろだね」とユタが立ち止まった。
( え、え!何これ! )
地面に金平糖のような小さなものが落ちたかと思ったら、それは雨のように降り注ぐ。
ユタは「毒だから食べてはいけないよ」とか呑気なことを言っている。
「この飴が降っている時に、お願いごとを心の中で、一回だけ強く願うんだよ。願いが叶った時に『星花』にありがとうを言うことを忘れないようにね」
( 『 ホシバナ? 』 )
よくわからないが、とりあえず頷いておいた。
(大切なことをみつけてみんなと元の世界へ帰れますように!)
これでいいのか、とユタの方をチラリと見る。
すると、ユタはお願いごとを言ってるのか、目を瞑って、指を組んで、そのままじっとしている。
(ユタって美人さん…?)
長いまつ毛、白い肌。金髪に白い毛先。すらりとした長い手足。
後ろにいる女の子たちがキャーキャーと歓声を上げている。
( 二次元のユタもいいけど、三次元のユタをみてみたい )
「どうしたの?」
声をかけられ、ハッとする。なんでもない、と首を振ると。ユタは首を傾げ、「まあいいか」と言ってまた手を握ってくれた。
ミノウとハナとも合流し、一緒に帰ろう、というときに、事件は起きた。
「助けてー!」
女の人の悲鳴だ。周囲がざわつき、状況を理解していないミノウに、メモに書いてみせた。
《 女の人の、悲鳴 》
「それ、やばくない?」
ミノウは声を震わせ、悲鳴を上げた人を探しに人混みの中へと消えていく。
「ミノウ!まって!待ってってば!」
走り出したミノウを追いかけて、ハナも走り出す。なんだかさっきの声はハナ、というよりも男の人っぽい声だった。という感想は置いといて。
( 女の人… )
そのキーワードだけで、あの家で倒れていた女の人を思い出してしまった。
「大丈夫だよ、きっと、何もない」
そんなことをユタは呑気に言う。悲鳴が聞こえて何も思わなかったのだろうか。もしかしたらあの時みたいに、人に…
「顔色悪いよ…?大丈夫…?」
感情と記憶だけで動かされてしまった私は、急いでユタの手を振り払い、ミノウやハナを追いかける。
「エリ…!?」
名前を呼ぶ声は、聞こえないふりをして。
「エリちゃん!」
暫く走ったところで、ミノウに会った。近くにハナの姿はない。
「ていうか私、周りの音聴こえないのにバカしちゃった…」
こうべを垂れるミノウに、《 任せて 》とメモを書き、周りの音に耳をすます。
すると、何か物が倒れたような音が、響きわたる。
屋台の裏側にある、路地裏の方へ目をやると、倒れたゴミ箱と、小さな女の人をでかい男が三人ほどで囲んでいた。
( これは、やばい )
ここは一旦頼れる男の人を探そう、と離れようとするが、あの状況に気付いてしまったミノウが、そこへ走り出す。
「ちょっと!女の子泣かすとかほんと最低だから!」
私も急いでミノウを追いかける。小さな女の人は私の胸へ飛び込み、ガタガタと震えている。
「う、あ、わ、わたし…お金盗んでなんか…」
大丈夫だよ、と頭を撫でる。声が出ないのは本当に不便だな、と改めて思う。
「盗人女!じゃあその懐に入った小銭袋はなんだ?」
女の人に怒鳴りつけるように言う。
「これは、あなたが持っていてほしいと…」
「おぼえとらんわ」
なんだか、どっちが本当のことを言っているかわからない。
ユタやハナと連絡をとりたいが、携帯がないのも不便だ。
私は小さな脳をフル回転させる。が、いい方法は思いつかない。
《 逃げて 》
そう書いたメモを、女の人に渡す。女の人は少し後ずさりした後、私とミノウを交互に見ながら、お辞儀をして、走り去る。
「待てこら!」
追いかけようとする男の腕を咄嗟に掴む。
が、私は簡単に投げ飛ばされ、背中に激痛が走り、ズキズキと痛む背中のせいで暫く動くことができない。
「エリちゃん!大丈夫!?」
( 大丈夫じゃ…ない… )
けど、心配はかけたくない。笑顔をみせた。が、ミノウの表情は曇ったまま。男の人を睨みつける。
「手出すとか最低なんだけど」
そう言ってミノウは男に殴りかかる。
見事ミノウの拳は一人の男の鼻にヒットし、男は倒れ込む。
「何しやがる!」
( 危ない! )
ミノウに殴りかかるポッチャリ体型の男に、転がっていたゴミ箱を投げる。
男は倒れ、その隙にミノウと逃げようと謀るが、まだいたスキンヘッドの男が、両手を広げて通せんぼする。
( え… )
男は私の胸ぐらを掴みあげると、拳で思い切り私の頬に入れる。
( 痛い…!こいつ!容赦なく殴…!! )
文句を言おうと口をパクパクさせるが、男に「痛くて声も出ないのか」と笑われる。
( 悔しい…! )
涙をぐっとこらえていると、ミノウがこれでおさえて、とピンク色の可愛らしいハンカチを渡してくれた。
鼻血が出ていたようだ。
「お前ほんと最低」
ミノウの表情は怒りで満ち溢れている。こんなときにこんなこと思うのもあれだが、私のために人に怒っているなんて、なんて優しい子だろう。
陽香や樹希は、どうだっただろうか。
ふと、幼なじみを思い出した。
「エリ!」
遠くから聴こえたその声にハッとした。
ユタだ。
ここだよ、と口を動かすが、届かない。
届くわけがない。
ミノウは喧嘩腰で、相手に殴りかかるが、中々あたらない。
私は立ち上がり、スキンヘッドの顎を思い切り殴る。
これは、ヒットした。
殴り慣れていないせいか、手は痣だらけで、ズキズキと痛む。
( でも、私が動かないと、ユタはきっと気付いてくれない。私の意志で、動かないと )
今何か大切なことを思い出したような気がしたが、忘れてしまった。そんなことより、ここから離れよう。
「逃げよう!」
ミノウは私の手をとり、あいつらが起き上がる前に走り出す。すると、走って間もない距離で、ハナに会った。
「どうしたのそれ…」
いつものふざけた雰囲気はなく、ただ、目を丸くしている。
「浴衣…汚しちゃった…ごめんなさい」
ミノウはハナに頭を下げる。すると、こちらに気付いたユタが急いで駆け寄り、帰ったら詳しく聞く、と私をおぶってくれた。
私はただ、大きな背中に身を預けることしか出来なかった。
私の部屋で、時計の音が虚しく響いている。
「僕から離れないでって言ったよね」
ユタがテーブルを叩き、私の肩は震える。
《 ごめんなさい 》
そうメモに書いて渡すと、ユタはため息を吐く。
《 勝手に行って、勝手に怪我したことはほんとごめんなさい。でも、女の人を助けられたから後悔はしていないよ 》
そう書いて手渡すと、ユタはその紙をくしゃりとつぶし、「後悔だらけだ」と呟く。
「もっと自分を大切にできないの?」
私を睨みつけて、大きな声で言う。自分を大切にしているつもりだが、今日のことばかりは仕方がないと思う。
それに、私のことを心配して怒ってくれてるのはありがたいが、もう少し言い方を変えて欲しい。そして怪我の心配をして欲しい。一応、まだかなり痛い。
「僕をなんで呼ばなかったの」
声が出ないことを知っててわざと言っているのだろうか。
「女の子だけじゃむりだよ」
解ってる、そんなこと。でも他に男性がいなかったし、奴らを片付けることは実際できた。
「声が出ないなら出ないなりの工夫を…」
私はテーブルをだん、と思い切り叩いた。ユタは面食らったような表情をするが、すぐに私を睨みつける。
( そんなこと言われなくても解ってるよ!声を出そうと頑張っても出ないし、テレパシーなんて使えない!それに、好きであの喧嘩の中に入ったわけじゃない! )
唇を動かして、一生懸命訴えるが、声は出るわけもなく、ただ息だけが、吐き出される。
なんだか訳がわからなくなって、ユタをじっと見詰めていると、涙が溢れてきた。
楽しいお祭りだったのに、こんなに一瞬で人って変わってしまうものなのか。
ユタに背を向け、部屋を出た。名前を呼ばれた気もするけど、気のせいだ。
廊下を歩いていると、ミノウに会い、《 今日は泊まっていい? 》と紙に書いて渡すと、即答で「いいよ」が返ってきた。
「入って!…汚いことは気にしないでね」
そう言って招かれた部屋は、以外にも白で統一した、シンプルな部屋。変わったところはその辺にお菓子の袋が散らばっているところ。
狭いシングルベッドにむりやり詰めて入り、「恋バナしよ!」と、声を弾ませてミノウは言う。
「ぶっちゃけ、エリちゃんって…ユタのこと好きなの?」
突然の質問に、飛び上がる。そんな短時間で好きになるわけない!と言いたいところだが、声が出ない。
《 好きではないよ。それに今喧嘩中?だから印象最悪 》
そう紙に書くと、ミノウは、あ、と声を漏らし、「うちもだよ」と笑いかける。
《ユタと?》
そう書いてみせると、首を振る。
「ハナと」
私は驚愕した。
あんなに仲がいいのに、喧嘩することもあるのか。やはり先ほどの事件のせいだろうか?
「なんか説教が長くてさ。女の子なんだから、とかなんで呼んでくれなかったの、とか書いた紙を押し付けてくるわけ。腹たったから思ったこと言っちゃった」
《 最低なこと? 》
ミノウはゆっくりと頷いた。
「お祭りのことも、私のことも忘れたくせに調子乗るなオカマ!って言っちゃった」
私は頬をひきつらせた。オカマはさすがに良くない気もするが、忘れたくせに、という言葉も良くない。
「記憶がなくなるのは、仕方ないことだし、教えてあげるのが私の役目なのにさ」
《 仲直りしないの? 》
「いいよ、あと三十分くらいでどうせお祭りも喧嘩したことも全て忘れるんだから」
良くない、と唇を咄嗟に動かす。ミノウは何?と聞き返している。
《 良くない。ちゃんと覚えてるうちに仲直りしないと、だめだよ。もっと関係が最悪になる》
私の紙をみてミノウは、そっか、と感心している。エリちゃんは優しいね、と言いながら頭を撫でてくれた。
すると、ミノウはこんな話を始めた。
「うちね、ハナに会う前から恋してたんだ」
《 会う前!? 》
急いで書いて、みせる。するとミノウはにこりと微笑み頷く。まるで、恋する純粋な乙女だ。
「ハナは、うちが何年か前にやってたゲームのサブヒーローでね、最初はオカマなんてありえないって思った」
( ゲームの、サブヒーロー… )
こんな偶然あるのか、と感心しているうちにも、話は進んでいく。
「うち、中学の時さ、地味なせいでいじめられてたの。派手な女子から蔑まれて、罵られて、いっそ殴られて証拠ができたら良かったのに、あいつらはそれ以外は何もしてこなかった」
なんて書けばいいかわからず、手を震わせていると、でもね、と話を続ける。
「あんな地獄な思いはもうしたくなくて、化粧を頑張って、髪も染めて、周りに合わせてよく解らないドラマの話もしたりした。いじめられないなら、それでいいと思った」
派手なのにも理由があるんだ、と知る。
「それでさ、ゲームしてる気のあいそうな子たちに思い切って話しかけてみたらさ、しらけちゃって…その場から離れたらさ、その子たちの愚痴聴こえちゃってさ…」
ミノウは俯く。
「ギャルのくせに入ってくんな、とか…絶対ゲームの良さ解ってないにわか野郎だとか言われちゃって…髪染めて化粧しただけで同志にこんなこと言われちゃうんだなって知ったよ」
声を震わせたミノウを心配し、オロオロとしていると、大丈夫の代わりに笑顔をみせてくれた。
「それから聴くことが、人の声が怖くなっちゃって…ひきこもるようになったんだよね…ゲームもやる気起きなかったんだけど、しばらく経ってからやらなきゃいけない気がしてさ、久々に起動したの」
彼女はさらに目を細めた。
「そしたらさ、ハナがうちに、というかプレイヤーに言ったんだ。『周りの声に惑わされずにオシャレする人はかっこいい』って。もうそのセリフみたとき世界が輝いてさ」
きらきらと輝くミノウの瞳は、まるで夏の夜空だ。
「でもね、勇気だして学校行ったらさ、うちの机なかった」
「人間って難しい」とミノウはため息混じりに言う。
「もうその日からまたいじめられ生活。もう消えたいって思って気付いたらここにいたんだよね」
《 もうその時にはハナのこと好きだったの ?》
なんだか暗い話題が続きそうなので、話題を変えるため、そう聞くと、ハナは深く頷いた。
「ハナが来たときはほんとに奇跡、というか運命感じたよ!もう一緒に自撮りするだけで心臓ばくばくだし!」
枕を抱きしめ、顔を真っ赤に染めてジタバタする。
( ハナもミノウのこと好きなのかな )
恋をしたことないので、恋心というものがわからないが、なんだか二人は両想いな気がする。
《 ミノウいる? 》
しばらく話し込んでいると、扉の隙間から小さな紙が滑ってきた。その紙をミノウに渡すと、ミノウは「ハナの字だ」と言って目を輝かせる。
ミノウが急いで扉を開けて、ハナを招く。
ハナは私の顔をみると、え、と声を漏らした。
「エリりんこんなところにいたの〜?ユタっちが心配して探し回ってたよ〜?」
なんだか嘘にも聞こえるが、多分、あともう少しで記憶が消えてしまうから、ミノウと話したいことがあるんだろう。
私はユタに会ってくる、と言ってその部屋を出た。
自分の部屋に戻ってもユタがいなかったので、家の周りを探してみたが、いなかった。
二人は多分まだ話し込んでいるだろうし、時間つぶしに風呂でも入ろう、と脱衣室へと入る。
「っエリ!?」
脱衣室には、私の探していた人物がいた。
謝ろうとしたが、謝る気も失せた。
ユタもお風呂へ入ろうとしたのか、甚平を脱ぎ、上半身は裸だった。
問題はそこではない。
腕に何ヶ所も、痛々しい切り傷の跡がある。
これって、もしかして、自分でやったんじゃ…?
私はユタをじっとみた後、メモを書いて渡した。
《 人の事、言えないんじゃないの? 》
ユタは「え?」と素っ頓狂な声を出す。
私の中の何かがプツンと切れた。
( 自分のこと大切にできないの?とか怒ったくせに自分が一番大切に出来てない! )
脱衣カゴをユタに向かって思い切り投げる。
「わ、ちょっと、エリ!」
カゴを見事にキャッチしたユタは、私を落ち着かせるために、「深呼吸だよ」とか呑気に言ってる。
( 何が深呼吸だ!!こんな状況で落ち着けるか!そんな綺麗な身体に傷つけるなんて…ありえない! )
腕をとんとん、と指さし、地団駄を踏み、怒っている、とジェスチャーする。
「え、もしかしてこれみて怒ってる…?」
痛々しい切り傷を指さして、ユタは首を傾げる。
大きく頷くと、ユタは何故か吹き出し、大笑いする。
「なんで?エリには関係ないよね?それに言ったよね。僕には触覚がないから、痛くないよ」
へらへらと笑うユタに、私は腹の底から上がってくる怒りを止めることができなかった。
それは、一瞬の出来事。
私が思い切り手を振り上げ、手のひらをユタの頬に勢い良く当てる。
凄まじい音が脱衣室に響き、ユタの頬は真っ赤に腫れている。
「エリ…?」
彼の顔から笑みが消える。
私は紙に書いて、つきつける。
《 自分のこと大切にしてない人に、「自分を大切にして」とか言われても嬉しくない 》
ユタは俯き、ごめん、と小さく呟いた。
( しまった…やりすぎた…! )
ごめん、叩くつもりはなかった、と言って謝りたいのに、紙で一々書くのが面倒すぎる。
急いで謝罪の言葉を書こうとペンをとると、とっさに腕を掴まれ、「わかってる」とユタが呟いた。
「謝らなくていい、僕のために怒ってくれたんだよね。僕、あんなにひどいこと言ったのに…エリは優しいね」
震えた声で、弱々しく言う。
そんな言葉をきいたら尚更謝りたくなる。
( ユタだって私に怒ってくれた… )
言い方は少し酷かったけど、怒ってくれた。
《 仲直りしよう 》
そう書いて、握手を求めて、右手を出す。
そうすると、ユタも握り返して、また微笑んでくれた。
大きな手が、私の手を包む。
そんな些細なことが、とても楽しかった。
ユタが着替え終わるまで、しばらく廊下で待っていると、ミノウの部屋から出てきたハナが私に手を振る。
「エリりん、短い間だったけど楽しかった!また会えたら会おうね〜!」
その言葉を聞いたとき、私は理解することに時間がかかった。
( 帰っちゃうの!? )
唇を動かすと、伝わったのか、ハナは大きく頷く。
鏡の前に立ち、深呼吸をしている。ミノウは、どうしたんだろうか。
「アタシの名前は…」
そこまで言うと、ミノウの部屋の扉が勢い良く開かれる。
「うちも…うちも一緒に帰る…!」
涙でぼろぼろで、化粧が崩れたミノウが出てくる。
ハナは目を丸くしたあと、微笑んだ。
「エリちゃん、今までありがとう」
ボロボロに涙を零しながら、ミノウはお礼を言ってくれた。
お礼を言うのは、こちらの方なのに。
《 ミノウから名前言って 》
二人は鏡の前に立つと、沈黙が流れたが、ハナがミノウに紙を渡し、ミノウが大きく頷いた。
「うちの…私の名前は…今日花 美乃羽」
ミノウが言い終えると、ハナが大きく頷いた。
「アタシの名前は青憂未 大輝」
ミノウは震えた声で、話始める。
「耳聴こえないとかほんと不便。最初はさ、悪口とか聴くの嫌だったから良かったんだよね…でも、ハナ……ダイキと話してるうちに、世の中には汚い言葉だけじゃなくて、綺麗な言葉もあるって、思い出した」
言い終えると、ミノウはハナに、頭を下げる。ハナは、名前知ってたの、と驚愕している。
ミノウはゲームをしていたから知っていたのか、と今思い出す。
「アタシは…忘れられることは仕方ないと思ってたの。流行が変わると、みんな離れていく。余計な感情なんて忘れた方がマシ、と思ったけど、やっぱり忘れる方も忘れられる方も辛いのよね…せっかく記憶があるなら、覚えないと。ね、ミノウ」
二人が微笑み合うと、ハナは不意に、ミノウの頬に、唇をおとす。
「ずっと、液晶画面からみてた」
ハナがそう言って、ミノウの頭を撫でる。
「よく頑張ったね。これからも辛いだろうけど、諦めないで」
そこまで言うと、鏡から真っ白な光が溢れる。
もちろん、光がなくなると、二人はいない。
廊下にぽつり、私だけが取り残される。
二人がいないと、本当に静かだ。
なんだか寂しさで胸がいっぱいになり、鏡に触れてみる。
鏡に映るのは、イラストの自分だけで、鏡には温もりもなく、冷たいただの硝子だ。
「二人とも、帰ったんだ」
ユタがそう言いながら脱衣室から出てきた。
「寂しくなるね」
ユタは呟くと、鏡の前に座り込む。私も、ユタの隣に距離を詰めて座る。
「この世界にはまだまだ人がいるけど、この家にはもう僕たちだけだね」
こくりと頷くと、ユタは「僕も帰ろうかな」と呟く。
《 大切なこと、思い出した? 》
そう書くと、今さっき思い出したよ、と嘘か本当かわからないことを微笑みながら言う。
《 私は、アニメが嫌いなもう一つの理由思い出した 》
書き足すと、ユタは「アニメ嫌いなの?珍しいね」と呑気に答える。
《 アニメだと、キャラクターの気持ちが、意志が、言っていないのに、『 声 』になってる。ナレーションのように、気持ちを声に出せている。主人公にしか解らない事が、視聴者に伝わる。私は嫉妬でアニメが嫌いだったんだ 》
ユタは頷く。
「確かに、羨ましいね。気持ちなんて普通自分で言うものなのに、ナレーションが代わりに言うよね」
そう言ったあと、ユタはくすくすと笑い、私に手を伸ばす。
「なんだ、解ってたんだ、大切なこと」
( どういう…こと? )
ユタをじっと見つめると、ユタは、微笑む。
「ほら、口ぱくでもいいから、アニメが羨ましい理由、言ってみて」
そう言われ、ごくり、と唾を飲む。
( 羨ましい理由は、キャラクターが、自分の気持ちを、意思を素直に言えるから )
そう思い切り唇を動かすと、鏡が微かにきらりと光った。
ここで私は理解した。
( 私の大切なこと、それは……意思を、自分の思ったことを素直に相手に伝えること )
あとは名前を言うだけで、元の世界に帰ることができる。
が、言いたくない。
言わないの?とユタが首を傾げる。
( ユタを、独りにさせたくない )
ユタの顔をじっと見つめると、ユタは私の頭をぽんぽんと優しく叩く。
「エリは優しいね」
微笑む顔をみて、私の胸は締め付けられる。これは罪悪感のせいか、それとも。
「エリが行ったら、僕も追いかけるよ。元の世界で名前を教えてね」
( 本当に?嘘じゃない? )
彼の微笑む顔を見て、安心したいのに、視界が霞んで彼の顔がみえない。
すると、不意に彼が小指を、私の小指に絡める。
「嘘吐いたら針千本…だっけ?それとも魚のハリセンボンだったかな?」
首を傾げ、また呑気なことを言っている。
「…三つ編みより、そっちの髪型の方が似合ってるよ」
指を絡めたまま、彼は言ってくれた。どんな表情かは解らないけど。
「元の世界でもその髪型がいい」
そう言うと彼は、私の背中に手をまわし、胸へと寄せる。
「会えるよ。きっと」
鼓動は少しずつ、早くなる。「会える」という単語だけで笑顔になれる私は単純な奴だな、と改めて思う。
「会えたら、声聴かせてね。あと、エリの手、もう一度握らせて」
ユタの言葉に頷き、深呼吸をして、覚悟を決める。
帰らなきゃ、私を待ってる人のために。
帰らなきゃ、元の世界で会うために。
( 私の名前は…! )
白い光が、私を包む。
白い光が、ユタの微笑む顔を遮った。
( ありがとう、また会おうね )
気がつけば、白い空間の中、誰かが私を呼んでいる。
聴こえる方へ、無我夢中で走る。
その時、ふと思った。
ユタの忘れた大切なことって、なんだろう?
霞んだ景色は、まばたきを繰り返すと、次第にはっきりとしたものになった。
白い天井、私を囲むカーテン、眩しすぎる照明。
ゆっくりと身体を起こすと、背中に激痛が走る。
「いったー!……え?」
声が、出た。
久々に聞く、自分の、声。
しばらく感動していると、扉が開いた音と共に、何か軽い袋のようなものが落ちる音がした。
落ちたのは、大きな花束だ。
「…目、覚ましたのね…?」
お母さんだ。
お母さんの言葉に頷くと、お母さんは膝から崩れ落ち、「よかった」と繰り返し呟いている。
お母さんが連絡を取ると、お父さんと弟も駆けつけてくれた。陽香と、樹希も。
携帯って便利だね、と言うと、「今更どうしたの」とお母さんはクスクスと笑った。
その日は大変だった。陽香がごめんなさいと言いながら泣き崩れたり、滅多に泣かない樹希も本当に大丈夫かと泣きながら何度も聞いてきた。
私は、「大変だったけど大丈夫」と笑ってみせた。
「あら、それどうしたの?」
お母さんが私の手を指差す。
最初、痣のことかと思ったが、手の中にあるものだ。
話し込んでいて気付かなかったが、私はずっと、何かを握っていた。
金色の、小さな蝶の形をした、かんざし。
「おはよ!」
そう言ってリビングに入る。すると眠そうな顔をしながら「おはよう」を返してくれた。
私は幸い、一週間で退院することができた。痛む背中も完治し、今はもう痛いところはどこもない。
「アニメ見ていい?」
「いいよ」
控えめに聞いてきた弟の頭を撫でる。弟は嬉しそうにテレビをつける。
お父さんとお母さんは目を丸くして私を見る。
「行ってきます!」
口を開けてポカンとしたしたままの両親を放ったらかして、カバンを提げ、髪を一部だけまとめたお団子と、左側のサイドだけ結った三つ編みを揺らしながら、外へ勢いよく飛び出す。
「おはよ!」
「おはよ…」
二つ角を曲がると、会える幼馴染にも挨拶をする。
「あれ、髪型変えたの!可愛いー!」
陽香は元気に私を褒めてくれた。
「なんかね、わたしのクラスに女の子の転校生が来るんだって!」
陽香は楽しみだ、と言いながらウサギのように跳ねている。
「あー…転校生」
樹希がそう呟くと、ため息をついた。
どうしたの、と聞くと、なんでもない、とそっぽ向いてしまった。
教室へ行くと、何も変わっていなかった。騒がしい笑い声、転校生の話題。
私は窓側の席に座り、ホームルームが始まるまでじっと待つことにした。
「着席!」
担任が少し早い時間に教室へ滑り込む。
私は窓から見える景色をただじっと見据えていた。枝に止まる鳥、灰色の雲、誰もいない虚しいグラウンド。
「転校生を紹介する!」
ガラリと扉が開く音と、カツカツと特徴的な足音がする。
女子の歓声が教室に響き渡る。
「柳 菜優汰です。大切にしていることは、人の温もり、優しさを忘れないということ、かな」
聞き覚えのある声と、見覚えのある金髪に、視界が霞んだ。
「会いたかった」
そう誰にも気付かれないように呟くと、彼は「僕も」と言って微笑んだ。
すると彼は私の席まで駆け寄り、頭を下げた。
「ここでは、初めまして」
翡翠色の眼が細くなる。
私もゆっくり頷いた。
涙を、零さないように。
私はそのとき、みつけた。
これから花開こうとしている、その樹に一つしかない桜の蕾と、一生懸命羽を動かしている、真っ白な蝶々を。
これからその蕾は開くのか、蝶はどこまで跳んで行くのか
私たちは、まだ知らない。
恋愛と生きる道をテーマに書いてみました。主人公に感情移入しやすいように、と名前は伏せておきます。
書く時間がなかったので、メモ書き程度になってしまったのが悔しいです…本当はもっとガッツリ内容を書く予定でした。
読んで下さりありがとうございました!
書いてて楽しかったので、また恋愛系書きたいなと思います!