しわ
嫌な顔をしていると言われるようになったのは、いつのころからだろう? 幼少時には、すでに言われていた記憶がある。小学校の運動会の写真で、わたしは額にしわを刻み、仏頂面でピースサインをしていた。
「由利ちゃん。女の子なんだから、もっと愛嬌のある顔をしなさい」
たしか、母親の言葉だったと思う。
運動は昔から苦手で、徒競走ではいつもビリだった。運動会も好きじゃなかった。だから、そんな顔をしていたのだろう。
父親も帰宅すると、
「由利のやつ、なんであんな顔で迎えるんだ? おまえ、おれがいないあいだに、おれの悪口でも吹き込んでいるんじゃないか」
母にそんな言いがかりをつけ、両親はいさかいばかりしていた。
夫婦関係がうまくいっていなかったから、家庭がすさんでいたから、わたしは嫌な顔をつくっていたんだと思う。わたしは自分の気持ちを口に出さない子供だった。いつも嫌悪の仮面をはりつけていたのは、無言の抵抗だったのだろう。
わたしは三十七歳で見合い結婚をした。相手は二宮信一という、商社に勤める四十一歳のばついちで、わずか一か月の交際をへて、かれのプロポーズを受け入れた。年齢も年齢だし、ゆっくり相手を見きわめる時間はない。えり好みもできなかった。
結婚して一年目に妊娠した。主治医はわたしの年齢を考え、帝王切開をすすめた。わたしは自然分娩を望んだが、結局、腹を切ることになった。妊娠八ヶ月目に胎児の容態がおかしくなり、取り出さざるを得なくなったのだ。胎児はすぐさま保育器に移されたが、すでに呼吸はしていなかったという。
子供がいれば、全ては違っていたかもしれない。
くすぶっていた夫との関係が悪化したのは、それから間もなくだった。
「言いたいことがあったら、はっきり言ったらどうなんだ」
午前さまで帰って来た夫は、わたしと顔を合わせるなり、そうどなりつけた。酔っぱらって呂律もあやしく、足取りはおぼつかなかった。わたしの横を抜け、居間に入るや、晩御飯を用意してあったテーブルを蹴飛ばした。
そんな夫の豹変を、わたしはただ黙って見つめていた。
振り返った夫は、ぎょっとした顔で視線をそらすと、すぐ居間から出て行った。
夫が寝室にさがったあと、こぼれた晩飯の残骸を片付けながら、夫のとつぜんのいきどおりについて考えた。毎日の遅い帰宅を非難している、と思われたのだろう。仕事が忙しいのはわかっている。非難を口にした覚えは一度もない。
ある日、夫の背広に髪の毛がついているのを見つけた。わたしは指先でつまみあげ、光りにかざしてみた。夫の頭にこんな長い髪はない。
ちょうど居間に入って来た夫は、ぎくりと足を止めた。わたしと目が合うと、すぐさま顔をそむけ、逃げるように立ち去った。
夫が香水の匂いをつけて帰ってくるようになったのは、一週間後のことだ。帰って来ない日も多くなった。すれちがいの毎日で、たまに顔を合わせても、ほとんど口を利かなかった。
「なんで、そんな顔をするんだ」
ついに夫の不満が噴出した。
「おれが帰りたくなくなるのは、おまえのその顔つきのせいなんだぞ。黙ってないで、なんか言ったらどうなんだ。そんな顔でおれを見るんじゃない」
わたしは黙ったまま、夫のいきりたつ様子を見つめていた。
ふいに夫は、脱いだ上着を廊下に叩きつけ、団地の部屋から出て行った。
わたしの嫌な顔が夫に浮気をさせたのか、夫の不審に気づいて嫌な顔になったのか、とっくにわからなくなっていた。
翌週、夫の使い込みが発覚した。水商売の女にいれあげ、会社の金を一千万円以上、横領していたのだ。夫は訴えられ、有罪判決を受けた。服役中に協議離婚が成立した。離婚の申し立てが夫からだったのが、少なからずショックだった。
わたしは、送られてきた離婚届けに迷わず判を押した。夫婦の関係がとっくに終わっていたのは、自分でもよくわかっていた。結婚三年目のことだ。
離婚後、団地の部屋はわたしのものとなり、ひとりの生活がはじまった。
「――505号室の奥さん、なんであんな顔するんだろうね」
その声が聞こえてきたのは、夜、団地のゴミ集積所から出ようとしたときだ。
わたしは思わず足を止め、開き戸のある金網に体を押しつけた。505は、わたしの部屋番号だ。そのまま動けなくなった。主婦たちの会話は、エントランスのあたりから聞こえてくる。
「挨拶しただけなのにさ、軽く頭を下げて、あの顔つきだろ」
声に聞き覚えがあった。隣室の田所美枝だ。
「もう奥さんじゃないのよ。離婚したって話」
「そういえば、だんなさん見かけないわね。以前は朝、よく顔を合わせていたのに」
「会社の金、使い込んだんだって」
「それで離婚したんだ。どうりで不景気な顔していると思った」
数人の主婦が噂している。美枝のとりまき連中だろう。
「原因はそれだけじゃないな。あんな嫌な顔をしているんだ。性格だって同じに決まっている。元だんなの使い込みの理由、女よ、女。あの顔に愛想をつかしたんだ」
美枝はそんなことを言っている。
隣人に嫌な顔をしたつもりはない。ふつうに会釈しただけだ。
それでもそう見えるなら、わたしはそういう顔なんだ。
声がエントランスに消えるのを待ち、わたしは集積所から出た。団地を囲む塀とのあいだに誰もいないのを確認する。ゴミ収集袋を引っぱりだし、ビニールを破って、中身をぶちまけた。ティッシュや野菜くず、食べ残しなどが散らばった。
一声、鳴き声があがる。屋上の金網フェンスに、黒々とカラスが群がっていた。
それから嫌な出来事があいつぎ、団地は騒ぎになった。
駐輪場の自転車がパンクさせられる。ポストから郵便物が抜きとられる。ベランダの洗濯物が落とされる。窓ガラスが割られる。屋上の金網が破られる。ゴミ集積場はひんぱんに荒らされ、日ごとカラスは増えていく――。
犯人は、ぜんぶわたしだ。
そんな嫌がらせをしたくて、やっているわけじゃない。そういうことをしそうな顔だから、周囲にそう思われているから、そのとおりのことをするんだ。
人は見かけによらないと言われる。本当にそうだろうか?
感情は顔にあらわれるものだろう。嫌な顔つきばかりしていれば、その表情はしわに刻み込まれるはずだ。たとえ悪感情を抱いていなくても、なにかの拍子に、使い込まれた表情筋が動き、嫌な顔をつくりだすのではないか?
一週間がたった。その夜は、なんだか寝つかれなかった。
夜明け前にふとんから出て、顔を洗った。洗面台の鏡をのぞく。眉間にしわを寄せ、唇を曲げた、目つきの悪い女が見返してくる。自分の顔じゃないようだ。
ゴミ集積所に行こうと思い立った。
一階に降り、カーテンの閉まった管理人窓口の前を通って、外に出た。空は薄暗く、朝だか夕方だかわからなかった。
建物の角を曲がって、金網の戸がついたゴミ集積所の前に立つ。まだ朝も早く、なかの棚は空いていた。ひとつだけ、ぱんぱんにふくれたゴミ袋が目についた。きのうの夜のうちに、出されたものに違いない。
わたしは開き戸を開け、なかに入った。
ゴミ袋が透けて、捨てられた封筒が見えた。宛名の面が向いている。わたしは袋を取り上げ、ビニールごしに目を近づけた。田所美枝――。
「やっぱり、あんただったんだ」
えっ。振り返ると、その美枝が、金網の向こうに立ちはだかっていた。左右をかためているのは、いつもの主婦連中だ。犯罪者を見るような眼を向けてくる。
「このところ団地で陰湿な嫌がらせが横行している。なにが狙われるかはそのときどきだから、ふせぎようがない。そのうちゴミ荒らしの頻度が高いのに気づいた。それで張っていたら、あんたが網にかかったってわけさ」
ちがう。
わたしは、ゴミ袋を抱えたまま首を振った。
「ゴミを捨てに来たとでも言うのかい。おあいにくさま。あんたが持っているのは、あたしがきのうの夜、捨てたものだ。他にゴミ袋はひとつもない。あんたはゴミ集積所に、手ぶらでなにしに来たんだ」
ちがう。ちがう。
不安定にわたしの首が揺れている。
「おおかたゴミをばらまきに来たんだろ。あたしには最初からわかってたんだ。あんたがそういうことをする女だというのは、顔を見ればわかる。これで証拠はつかんだ。ここにいる全員が証人だよ。最近、ふきんのカラスが太りだした。うちの集積所で味をしめたんだろうよ。あんたに寄ってくるのはカラスぐらいさ」
ちがう。ちがう。ちがう。
袋を持つ指に力が入る。わたしは思い切り、ゴミ袋を美枝の顔に投げつけていた。ふいをつかれた美枝がよろめき、主婦たちが声をあげて左右にわれた。
わたしは扉を押し開け、集積所の外に飛び出した。塀にそって夢中で走り、団地の外に逃げた。歩道に出て、振り返る。追ってくる住人はいなかった。頭上が騒がしい。団地の建物の屋上で、いっせいにカラスが飛び立った。
団地に戻る気はしなかった。わたしはとぼとぼ歩きだした。
あたりはだいぶ明るくなっていた。歩道でときおり人とすれちがう。車はまだ一台も走っていない。道路をへだてた向こうで、住宅街の屋根ごしに、清掃工場の高い煙突のてっぺんで明かりが明滅していた。
あんな嫌がらせを、したくてしたわけじゃない。わたしの顔つきがそうさせた。その嫌な表情は、何十年にもわたって、わたしのしわに刻み込まれてきた。そしてわたしの表情だけでなく、わたしの感情まで支配しだしたのだ。
そのとき子供の声がした。ああ、ああ、とカラスの鳴き声に聞こえる。
あたりを見まわすが、誰もいない。声は頭上からしたようで、歩道から見上げた。
その瞬間、あっ、と体が硬直した。
マンションの四階のベランダで、五歳くらいの男の子が手すりにまたがっている。その視線の先に、大きなカラスがとまっていた。鋭い口ばしを、知らんぷりするように空に向けている。男の子は、しきりに手を延ばそうとする。ふいにカラスが飛び立った。子供が伸び上り、その小さな体が手すりの外側に傾く。
「――あっ」
わたしは思わず両手を伸ばし、その子を抱き止めようとした。
* * *
「あなた。ちょっといいかしら」
畑野澄子は、午後十一時過ぎに夫の孝信が帰宅すると呼びかけた。
夫は観察医務院に勤めていて、なんだか疲れた様子だった。それでも澄子は、自分の抱える懸念について、どうしても尋ねたかった。
「宮前由利さんの通夜に行ってきたんですけど」
「それがどうした」
孝信は不機嫌そうに言った。
「宮前さん、マンションから落ちた男の子を助けようとして、子供を受け止めた拍子に転倒し、敷石に頭を強く打って亡くなられたの。子供さんは助かったんですって」
「きょうは解剖が何件もあって、くたくたなんだ」
「訊きたいのは死後硬直のことなんですよ」
「それを早く言え」と孝信の表情は生き生きしだした。
「あれって死んでからどのくらいで始まり、いつごろ終わるものなの?」
「死後硬直は頭部から始まり、足に向かって進み、だいたい二十四時間で全身におよぶ。とけるのも同じく二十四時間くらいだろうな。もちろん遺体の状況にもよるが、急にどうしたんだ?」
澄子は、孝信の質問は無視して、
「そのとき顔がこわばるかゆるむかして、表情に見えるなんてあるかしら」
「ないとはいえないな」
「つまり、四十八時間であれば、そういう現象もありうるのね」
「いや、死後硬直の峠は二十四時間で、硬直がとけていくのは顔からだ。それ以降、顔がゆるんで表情に見えることはないね」
「そう……」と澄子の気持ちは重くなった。
質問はそれだけか? という孝信の言葉には答えず、澄子は自室に下がった。夫の説明は、澄子の懸念をいやますばかりだった。
団地の近くの寺で通夜が行なわれたのは、事故の二日後だ。
澄子は、宮前由利と同じ団地に暮らしていて面識はあった。会うといつも嫌な顔をされたが、子供を助けて亡くなったという。根は優しい人だったのかもしれない。それで通夜に参列する気になった。
山門をくぐり、砂利道を踏んで、葬儀場に入った。まばらな参列者に頭を下げ、焼香台の前に立つ。祭壇に飾られた、由利の遺影を見つめた。陰気な顔をしているが、嫌な、というのは言いすぎだったと反省した。
棺の表面に小窓がついている。澄子はそっと開いてみた。死化粧をほどこされた、穏やかな顔があらわれた。やはり彼女に対する印象は間違っていたと後悔した。
澄子は息をはいて、小窓を閉めかけた。
――と、遺体の口もとのしわが動いた。じわじわと左右の口角が下がり、そこからしわは、鼻筋をはいあがり、両方の目じりを伝わり、眉間から額へと広がっていく。
それはとても嫌な顔だった。
了