父娘
「行くぞ」
煙草を咥えた俺は、娘の亜季の手を引いた。
「……」
記録的猛暑の続く、夏真っ盛り…麦わら帽子を被った亜季は、俯いたまま付いてくる。
向かった先は、近くの河原だ。
表情の晴れない五歳の娘の気分転換の為だった。
「ほら、遊んでこい」
着いたら、すぐに亜季の手を離して、自分は土手に腰掛けた。
トテトテと歩いて、亜季は川の中へ入っていく。
ここら辺の川は、とても浅く、遠くに行く事さえ注意しておけば、一人で遊ばせていても問題ない。
俺は胸ポケットから煙草を取り出して火をつける。
フゥーと煙を吐きながら、川面を見つめていた。
太陽の光が反射して、キラキラと眩しく輝いている。
俺は視線を亜季に移した。
亜季は、俺の本当の娘ではない。
二か月前に結婚した優子の連れ子だ。
俺は優子の事を心から愛した…。
こんなにも女性を愛したのは初めてだった。
優子に連れ子がいた事を知った時もさほど気にもしなかった。
だけど…結婚して一週間、交通事故で優子は呆気なく死んでしまった。
残されたのは、未だに懐いていない、血の繋がらない娘だけ…。
父娘の関係を深めようと努力はした。
が、本来ならゆっくり時間を掛けて愛情を育むのだろうが、優子がいない状態では、良くて『知ってるおじさん』止まりだった。
はっきりいって、最近疲れてきていた。
俺は当の亜季に視線を送る。
亜季はお尻が濡れるのも構わずに、川の中にしゃがみ込み、何やら石を選別している。
「何が楽しいんだ?」
亜季の訳の分からない一人遊びに、首を傾げながら煙草を携帯灰皿でもみ消した。
「これから、どうすりゃいいんだ…?教えてくれ…優子…」
亜季は俺といて、本当に幸せになれるのだろうか…?
今、現在辛くはないだろうか…?
考え出すとキリがない。
俺は頭を抱えた。
『大輝さん…』
「…ッ!」
突然、自分を呼ぶ声に俺は驚愕して顔を上げる。
その声は懐かしく…そして、最も会いたい人の声…。
そう、目の前には優子の姿があった。
「優子…?」
信じられない…。
死んだはずの優子が何故目の前にいるのだろうか?
俺は幻でも見てるのだろうか?
いや、幻だって構わない…こうして優子にもう一度会えただけでも嬉しかった。
「優子ぉ…」
涙が止めどなく溢れてくる。
俺は、それを拭う事もせずに、優子に触れようと手を伸ばした。
だけど、優子はまるで触れられるのを嫌うように、スッと俺の後ろに回る。
「?」
優子の行動の意味がわからず、疑問符が浮かぶ。
『えいっ!』
突然の衝撃。
そして浮遊感。
スローモーションで地面が近付いてくる。
何故、俺が突き落とされなければならないのか、疑問を感じると同時に痛みと共に土手を転がり落ちていた。
「…ッ!」
何とか落ちるのを防ごうと試してみるが、急勾配で勢いのついた身体は止まらない。
遂には川に落ちてしまった。
浅場に身体を打ち付ける事を覚悟していたが、不思議と水の感触しかなかった。
それどころか、足すら付かない。しかも、先程までのゆるやかな流れが嘘のように、流れが急になっていた。
俺は、あっぷあっぷと必死にもがく。
「パパッ!」
亜季だった。
流されている俺を心配そうに、小走りについてくる。
「俺は大…丈夫だから、走るな」
「パパッ…パパッ…」
俺の言葉に耳も傾けずに亜季は走り続けた。
俺はようやく気付いた…。
亜季にとって、俺は父であり、唯一頼れる存在なのだ。
「危ない…から走るな…」
俺の必死の願いも空しく、亜季は何度も石に躓き、転びそうになりながらも、俺を追いかけた。
くそっ!
俺は必死で手を伸ばし力をふり絞って、岩場に掴まる。
そこで、ようやくバランスをとって立ち上がる事が出来た。
びしょ濡れになった服が纏わりついて気持ち悪い。
しかも、存分に水を吸ってるせいで、かなりの重さだった。
辺りを見回せば、およそ流されるような場所ではない。
俺は訳が分からず、首を傾げる。
「パパッ…!」
俺はゆっくりと岸へと上がる。
その時だった。
余程、心配だったのだろう、川から上がると、亜季が飛び付いてきた。
服が濡れるのも構わずに、俺にギュッとしがみついて泣いた。
「ふえーん…」
「亜季…」
俺の胸で泣き続ける亜季を俺は抱き締めた。
俺は亜季の父親だ。
誰が何と言おうと…。
戸惑っていたのは亜季も一緒だったのだ。
俺はようやく、その事に気がついた。
顔を上げると、優子が優しい微笑みで見つめていた。
きっと、優子は知っていたのだ。
俺の苦悩に…。
亜季の戸惑いに…。
だから、きっかけを与えてくれた…。
そう、全ては優子が仕掛けた事だったのだ。
まあ…少々乱暴だったが気もするが…。
「心配かけたな…もう大丈夫だ」
俺の言葉に満面の笑みを浮かべた優子は、スーッと消えていく。
きっと、守ってみせる…。
俺は亜季の温もりを感じながら、そっと天を見上げた。
そこには、青く…どこまでも続く空が広がっていた。