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真実の愛の後始末、承ります。婚姻斡旋局員は運命に頼りません

作者: くみの
掲載日:2026/10/12

「真実の愛を見つけたんだ」


 向かいの席で、ローレンスは言った。


 応接間の紅茶は、もう冷めている。彼は膝の上で手を組み、いかにも言いにくそうに、けれどどこか誇らしげに続けた。


「君には悪いと思ってる。でも、こんな気持ちは初めてなんだ。出会った瞬間にわかった。これは運命だって」


「そうですか」


 セシリアは頷いて、持参した手帳を開いた。


「では、費用の確認をさせてください。式場の手付金はそちらのお父様のお名前で支払い済み。仕立屋のドレスは、うちの名義で四割払い済み。招待状は印刷が終わっていますが、未発送。この三点でよろしいですか」


「……え?」


「手付金の返還交渉は、早いほうがいいんです。式場は日取りが近づくほど条件が厳しくなりますので」


「いや、セシリア。僕は今、君に別れを告げているんだけど」


「承知しています。お話は伺いました。ですので、次の段取りに移っています」


 ローレンスは口を半分開けたまま固まった。引き止められるか、泣かれるか、罵られるか。そのどれかを想定していた顔だった。


 どれも、してやらない。


 セシリアは静かにペンを走らせた。インクが少し滲む。手が震えているからだと気づいて、筆圧を強めて誤魔化した。


 泣くのは、帰ってからでいい。


 この場で泣いてしまえば、彼の「真実の愛」は、泣いている婚約者を振り切る悲劇の美談に化ける。それだけは、どうしても嫌だった。


* * *


 王立婚姻斡旋局の朝は、書類の山から始まる。


 あの日から二年。セシリア・ハルトマンは二十七歳になり、窓口の一番奥の席で、今日も山を崩していた。


「ハルトマンさん、九時の相談者さんがもういらしてます。子爵家のカイル様です。なんだか……すごく輝いてます」


 新人のピートが、少し怯えた顔で報告に来た。


「輝いている?」


「はい。幸せオーラが物理的に眩しいです」


「それは、面倒な案件ですね」


 セシリアは立ち上がった。


 応接室に入ると、確かに眩しい青年が待っていた。身なりも髪も完璧で、目だけが夢見るように潤んでいる。


「聞いてください。僕は先月、運命の人に出会ったんです。婚約者のことはもういいんです。僕の心は、もう彼女のものですから」


「承知しました。では、解消の手続きを進めるにあたって、ご婚約者様への費用精算を確認しますね」


「ああ、そういう細かいことは、そちらでお任せしたくて」


「お任せいただくのは構いません。ただ、金額の確認はご本人に必要です」


 セシリアは一枚の表を机に滑らせた。


「式場手付金、金貨八十枚。仕立て代、六十枚。ご両家の顔合わせ費用、二十五枚。先方の持参金に関する契約破棄の違約金、これが百二十枚。合計で金貨二百八十五枚です。愛を見つけたカイル様に、ご負担いただく額です」


「に、にひゃく……」


「愛の前では金額など些細なこと、と伺いましたので、全額ご負担でよろしいですね?」


「いやっ、それは、ちょっと待って、その、分割とか……」


「分割は可能です。ただし、先方の合意が必要です。合意をいただくには、誠意ある謝罪が必要です。誠意ある謝罪には、愛を見つけた理由の説明より、まず先方の話を聞く時間が必要です」


「……聞く時間」


「はい。三時間ほどです」


 カイルは、輝きを少し失った顔で頷いた。


「それと、新しいお相手様とのご結婚をお考えでしたら、当局で面談をおすすめします。運命の出会いは素晴らしいものですが、生活の相性までは運命が保証してくれませんので」


 応接室を出ると、先輩職員のドロテアが書類を抱えてにやにやしていた。


「また一人、現実に引き戻したわね。さすが『真実の愛嫌い』」


「嫌いではありません。精算が好きなだけです」


「それを世間は嫌いと言うのよ」


「違います」


 セシリアは言い返して、自分の席に戻った。


 机の端に、封筒が一通置かれている。差出人はブラント夫妻。去年、彼女が紹介した二人だ。


 便箋を開くと、几帳面な字が並んでいた。


 ――毎晩、同じ時間に夕食を食べられることが、こんなに嬉しいとは思いませんでした。主人は相変わらず靴下を裏返しに脱ぎますが、それも含めて紹介してくださって、ありがとうございます。


 セシリアの口元が、自分でも気づかないうちに緩んだ。


 手紙を封筒に戻す。無意識に、左手の薬指の指輪を右手の指先でなぞった。


 そのとき、ドロテアが肩越しに覗き込んだ。


「あら、笑った」


「笑っていません」


「笑ったわよね、ピート」


「はい、見ました。貴重でした」


「午前の面談の準備をします。お二人とも、手を動かしてください」


 セシリアは表情を戻し、次の書類に手を伸ばした。


 愛が嫌いなわけではない。この手紙みたいなものが、確かにあるのだと知っている。だから、この仕事をしている。


 ただ、それを口に出して説明するのは、どうにも面倒だった。


* * *


「オスカー・アーデルバルトと申します。王領測量局で、局長補佐を務めております」


 翌週、窓口に現れた男性は、背筋の伸びた丁寧な礼をした。


 三十前後。濃い色の外套に、よく手入れされた革の鞄。目の下には、うっすらと隈がある。


 セシリアは面談用の用紙を広げた。


「本日はよろしくお願いします。まず、ご希望を伺います。条件でも、漠然としたものでも構いません」


「結婚を、考えています。ただ、あの……恋愛感情だけで決めたくないんです。こう言うと、冷たく聞こえるでしょうか」


 彼は申し訳なさそうに眉を下げた。


 セシリアはペンを止めずに答えた。


「いいえ。合理的です。ただ、冷たいかどうかを決めるのは、お相手の方でしょう。ご自身で先回りして判断しなくて大丈夫です」


 オスカーが、少し目を瞬いた。


「では、生活面をお聞きします。休日は?」


「ほぼ、ありません」


「睡眠時間は?」


「四時間ほどです」


「それは条件ではなく、申告事項ですね」


 ペンで「要改善」と書き込むと、彼は小さく噴き出した。


「失礼。そういうふうに言われたのは初めてです」


「結婚後も、そのご予定で?」


「いえ……できれば、改めたいです。夕食くらいは、誰かと食べられる生活が」


「承知しました。夕食、と」


 用紙に書き込みながら、セシリアはふと思い出した。昨日読んだ、ブラント夫妻の手紙。


 彼女の手が止まった。


「差し支えなければ、過去のご婚約についても確認させてください。解消の経験は?」


「あります。二年前に。相手の方が、その……」


 オスカーは言い淀み、乾いた笑いをこぼした。


「真実の愛を見つけた、と」


 ペン先が、紙の上で一瞬止まった。


 セシリアは顔を上げず、少しだけ間を置いてから尋ねた。


「それは、ご苦労なさいましたね。費用の処理は、終わっていますか」


「……終わっています」


「それなら結構です」


 顔を上げると、オスカーがぽかんとこちらを見ていた。


「どうされました?」


「いえ。そこから聞かれたのは、初めてで」


「大事ですので」


「……そうですね。大事です」


 彼は笑った。肩の力が抜けたような、気取らない笑い方だった。


 セシリアは用紙に目を戻した。


 誠実で、条件の整理がしやすい。仕事を最優先にしすぎるきらいはあるが、改善する意志がある。


 ――ずいぶん、優秀な相談者さんだ。


 その程度の感想を、彼女はきちんと胸の中に書き留めた。


* * *


 二度目の来局で、オスカーは紹介候補の資料を受け取った。


 向かいで資料を説明するセシリアの声を、彼は注意深く聞いていた。


「ベアトリス様は、王立図書館の司書をなさっています。穏やかで聞き上手。ご自身も朝が早く、静かな生活を好まれます。ただ、お仕事の都合で、夜は読書に没頭なさるそうです」


「夜に……読書」


「はい。ですから、お二人が同じ部屋にいて、別々のことをしていても苦にならないかどうか。そこがおそらく相性の鍵です」


 セシリアはそこで言葉を切り、ふと付け加えた。


「それと、アーデルバルト様。これはお相手に限った話ではないのですが、結婚後の帰宅時間が遅くなる日は、先に伝える癖をつけておくといいです」


「先に、ですか」


「待たれる側は、遅いこと自体より、いつ帰るかわからないことが一番こたえるんです。『今日は遅い』の一言があるだけで、夕食を温め直す人の気持ちは、まったく違います」


 淡々とした口調だった。しかし、オスカーは思わず背筋を正した。


 この人は、結婚する前の人間に、結婚した後の暮らしを見せている。


 条件表の向こうに、台所の灯りや、玄関の足音まで見えているような話し方だった。


「……肝に銘じます」


「そんなに重く受け取らなくても。ただの経験則です」


「経験則」


 セシリアは少しだけ首を傾げた。


「たくさんの方を見てきましたので」


 書類を整えるその手に、オスカーの視線が止まった。


 左手の薬指。細いが、きちんと磨かれた銀の指輪。


 前回も、その前からも気づいていた。気づいていて、見ないふりをしていた。


「あの、少し話が逸れるのですが」


 つい、口が動いた。


「結婚指輪というのは、相場がどのくらいなのでしょう。いえ、実は知人に聞かれて」


「男性用と女性用で違います。金貨十五枚から三十枚が一般的です。中位の貴族なら二十枚前後ですね。刻印は別料金で、石を入れると跳ね上がります」


 一息だった。迷いも、間もない。


 オスカーは頷きながら思った。


 ――即答。つまり、よく考えたことがある。いつか、誰かのために。


 指輪の相手が、いるのか。


 いるのだろうと、彼は勝手に結論づけて、勝手に黙った。


 尋ねるのは簡単だ。けれど、仕事で会う相手に、そんな話を投げるべきではない。


「……ありがとうございます。参考になりました」


 帰り道、外套の襟を立てながら、オスカーは自分でも説明のつかない息を吐いた。


 息が、少しだけ重かった。


* * *


 それから、オスカーは何度か局に通ってきた。


 ベアトリスとの交際についての報告。生活面の相談。書類の確認。


 三度目あたりで、セシリアは気づいた。


 彼は、いつも夕方に来る。そして、窓口の混雑が引く頃合いを、きちんと見計らっている。


 ――職員の負担まで考えてくださる方だ。


 そう思って、彼女は感心していた。


 さらに、ある日、来客用の戸棚に見慣れない茶缶が増えていた。


「ドロテアさん、この缶、どなたが?」


「あー、えっと」


 ドロテアは奇妙な顔で、ピートと目を合わせた。


「寄付、らしいわよ。来客用にって」


「寄付。ありがたいですね。ちょうど切らしかけていました」


 開けてみると、深い琥珀色の茶葉から、柑橘と蜂蜜の香りがした。セシリアがいつも自分で買っている銘柄と、まったく同じものだった。


「偶然って、あるんですね」


 ピートが、噴き出すのを必死にこらえて咳をした。


「ハルトマンさん、今日、昼食は?」


「あとで食べます。この書類を片付けてから」


「それ、午前中も言ってましたよ」


 その日の午後に訪れたオスカーは、書類を整理している彼女を見て、控えめに声をかけた。


「ハルトマンさん。差し出がましいのですが、今日の面談は、こちらの資料を見ながら少し休憩を挟んで進めませんか。僕のほうが、少し疲れていまして」


「アーデルバルト様が、お疲れ……なるほど」


 セシリアは、ぱっと表情を明るくした。


「効率的な進め方ですね。休憩を挟んだほうが、お互い判断の精度が上がります。そうしましょう」


 お茶が運ばれ、セシリアは出された焼き菓子を、ごく自然に口に入れた。


 その姿を、オスカーは何も言わずに見ていた。


 食べた、と心の中で小さくガッツポーズをしながら。


 翌週は逆だった。


「アーデルバルト様、今日は顔色が悪いです」


「いえ、大丈夫です」


「睡眠は?」


「……三時間ほど」


「減っています。今日は面談を短くしましょう。続きは来週で。お休みになってください」


 セシリアは、さっさと書類を片付けた。


 オスカーは一瞬、言葉を失った。


「……心配、してくださったんですか」


「相談者さんの体調管理も、仕事のうちですので」


 それはそうだ、と彼は頷いた。頷きながら、胸の奥がじんわり熱くなっていくのを止められなかった。


* * *


 ベアトリスとは、二度会った。


 穏やかで聞き上手で、一緒にいて疲れない、いい女性だった。二度目の別れ際、彼女は柔らかく微笑んで言った。


「アーデルバルト様。もしかして、お話しになりたい方は、わたしではないのでは?」


「え?」


「お茶の話、お仕事の話、お休みの話……どれも、斡旋局の職員さんの言葉でいっぱいでしたよ」


 オスカーは、固まった。


「……自覚が、ありませんでした」


「でしょうね。ご縁がなかったことは残念ですけれど、お話は楽しかったです。どうか、お元気で」


 彼女は怒ることもなく、品よく去っていった。


 一人残された公園のベンチで、オスカーはしばらく動けなかった。


 セシリアに会いたくて、局に通っていた。


 相談の内容より、彼女の言葉が聞きたかった。彼女の「効率的ですね」という声が、あの照れ隠しのない笑顔が。


 恋だ。


 認めるのに、三分かかった。


 しかし、続く思考は、もっと重かった。


 彼女の左手の薬指には、指輪がある。相手がいるかもしれない。いないとしても、彼女は過去に「真実の愛」という言葉で傷つけられた人だと、彼は知っている。


 そして、自分もまた、その言葉で婚約を失った一人だ。


 ――この気持ちを伝えたら、彼女は困らないだろうか。


 相談者として信頼してくれている彼女の前で、自分が勝手に恋に落ちたことは、彼女の信頼を裏切ることにならないだろうか。


 彼女の幸せを邪魔しないこと。


 それが、いまの自分にできる誠実さではないか。


 そう、彼は考えていた。


 考えて、考えて、結論を出せないまま、夕暮れの鐘が鳴った。


* * *


「また来たわよ、あなたの相談者さん」


 窓口の隙間から入口を覗いたドロテアが、にやにやしながら言った。


「アーデルバルト様ですか。ええ、今日は十七時のお約束です。今は手続きの書類を」


「ねえ、セシリア。これだけ通ってくるのって、あなたに会いに来ているんじゃない?」


「業務の相談です」


「はいはい。いいわねえ、これが真実の愛ってやつね!」


 ドロテアは、いつもの軽口のつもりで言った。


 セシリアは、ペンを置いた。


 音が、思ったより大きく響いた。局内の空気が、すっと冷える。


「……その言い方、やめてください」


「え?」


「人をからかうために、簡単に使わないでください」


 いつもと違う声に、ドロテアが口をつぐむ。ピートは書類を抱えたまま、動けずにいる。


「恋をするのは自由です。でも、その言葉を使えば何をしてもいいわけじゃありません」


 セシリアはドロテアを見た。


「冗談でも、そういう使い方はしてほしくないんです」


 数秒の沈黙のあと、ドロテアは真顔になって頭を下げた。


「……ごめんなさい。軽率だったわ」


「いえ。私も、強く言いすぎました」


 セシリアが小さく息を吐いたとき、入口の方で気配がした。


 振り向くと、オスカーが扉のところに立っていた。


 手には、書類の束。いつから、そこにいたのだろう。


「……お邪魔、でしたか」


「いいえ。お約束の時間でしたね。失礼しました、少し込み入っておりまして」


「いえ」


 オスカーは、静かに言った。


「ハルトマンさんのおっしゃることは、もっともだと思います」


 その声は穏やかで、けれど、いつもと少し違った。


 セシリアは、その違いにほんの少し引っかかった。けれど、それが何なのかまでは、わからなかった。


 その日、手続きは滞りなく終わった。


 オスカーは丁寧に礼を言って帰り、ドロテアは帰り際にもう一度「さっきはごめんね」と言った。ピートは「かっこよかったです……」と謎の感想を残した。


 セシリアは、いつものように書類を片付けた。


 ただ、ふと、扉の方を見た。


 もう誰もいない。


* * *


 その夜、オスカーは書斎で、冷めたお茶を前に座っていた。


 あの人は、あんな顔をして怒るのだ。


 いつも冷静な彼女が、あれほど強い声を出した。同僚の軽口ひとつで。それだけ、あの言葉には、彼女にとって触れられたくない何かがあるのだろう。


 それが何なのか、彼にはわからない。


 わからないのに、あの横顔が頭から離れなかった。


 会いたい。


 明日も、その次も、あの窓口で彼女と話したい。できることなら、この気持ちを、ちゃんと伝えたい。


 けれど。


 ――僕が好意を伝えたら、彼女は、どう思うだろう。


 あの言葉を聞いたあとでは、考えずにいられなかった。


 自分の気持ちが盛り上がったからといって、彼女の事情も、いまの気持ちも確かめないまま、言葉をぶつける。それは、彼女にとって迷惑なことではないのか。


 彼女を傷つけたくない。


 そのためには、どう動くのが正しいのだろう。


 会いに行って、いつも通りに相談を続けながら、黙っているべきか。


 それは、ひどく不誠実な気がした。


 伝えるべきか。


 けれど、伝えたことで彼女の穏やかな日常を乱してしまったら、その責任は取れるのか。


 答えは出なかった。


 彼は引き出しから便箋を取り出した。以降の手続きは、秘書を通して書面で進めてもらうよう、短い連絡を書く。


 しばらく会わずにいれば、彼女の邪魔にはならない。


 その間に、考えがまとまるかもしれない。


 そう自分に言い聞かせて、封をした。


 燭台を吹き消すと、暗闇の中で、ひとつだけ素直な気持ちが残った。


 彼女の淹れてくれたお茶が、もう一度、飲みたかった。


* * *


 一週間が過ぎた。


 オスカーは来なかった。二週間目に入っても、来なかった。


 代わりに、彼の秘書を名乗る老紳士が書類を持ってきて、礼儀正しく手続きだけを済ませて帰っていった。


「アーデルバルト様は、お変わりありませんか」


「はい。お元気で、お仕事に励んでおられます」


 それだけだった。


 セシリアは、記録簿を開いた。ベアトリスとの交際の経過が、途中で止まっている。


 ――うまくいったのだろうか。


 紹介した責任がある。相談者の経過確認は、仕事のうちだ。


 そう考えて、彼女は過去の面談記録を見返した。


 しかし、見返せば見返すほど、わかるのは、彼がどれだけ誠実に相談してくれていたかということだけだった。そして、うまくいっていたなら、もう相談に来る必要がないのだ、ということも。


 それなら、それでいい。


 そう思った。


 ……思ったのだが、ふと、手が止まった。


 夕方の十七時。窓口が空く時間。


 無意識に、入口の方を見ていた。


「ハルトマンさん、どうしました?」


「いえ。何でもありません。時間を確認しただけです」


 ピートが首を傾げて去っていく。


 セシリアは書類に目を戻した。しかし、文字が頭に入ってこない。


 昼休みに茶缶を開けたとき、彼女の手が止まった。


 缶の中身が、減っていない。


 いつもなら、来客のたびに少しずつ減っていくはずの琥珀色の茶葉が、先週から、ほとんど変わっていない。


「……あ」


 お茶を淹れていたのは、いつも、彼の来る日だった。


 彼が来るから淹れていた、というほどのことではなかったはずだ。ただ、気づけば彼の来る夕方になると、お湯を沸かしていた。そのことに、今まで気づいていなかった。


 窓口の向こうで、ドロテアが気遣わしげにこちらを見ている。


「セシリア、今日、お昼は?」


「いただきます。お茶を淹れましょうか。ドロテアさんの分も」


「……ええ、ありがとう」


 お湯を沸かしながら、セシリアは自分に問いかけた。


 なぜ、こんなに気になるのか。


 相談者がひとり来なくなっただけだ。仕事は滞りなく回っている。何も困っていない。


 それなのに、お茶の香りが、少し遠い。


* * *


 夜、一人暮らしの部屋で、セシリアは窓辺の椅子に腰かけていた。


 灯りは小さく、膝の上には何も持っていない。


 左手を、ぼんやり眺めた。


 薬指の指輪は、変わらずそこにある。


 ――オスカー・アーデルバルト。


 名前を思い浮かべると、いろいろな場面が順番に浮かんできた。


 夕食くらいは誰かと食べられる生活が、と言った声。


 結婚後の帰宅時間の話を、神妙な顔で聞いていた横顔。


 休憩を挟みましょう、と言ってくれたこと。


 あれは、わたしが昼食を抜いていたからだ。気づかないふりをして、気づかれていたのだ。


 その少しあとの、「心配してくださったんですか」という問い。


 あのとき、どんな顔をしていただろう。


 ……思い出せない。見ていなかった。


 セシリアは、自分に呆れた。


 相談者の表情なら、一目でわかるのに。条件表の裏に隠れた本音なら、手に取るように読めるのに。


 わたしは、彼の顔を、ちゃんと見ていなかった。


 もっと、見ておけばよかった。


 そこまで考えて、セシリアははっとした。


 これは、相談者への心配ではない。


 紹介した縁がうまくいったかどうかを知りたいなら、記録を見れば済む。秘書の方に尋ねれば済む。


 それでも足りないのは、彼本人の声で、話を聞きたいからだ。


「また話したい」


 口に出してみると、驚くほどしっくりきた。


 彼に何かを埋めてほしいわけでもない。ただ、彼と話す時間が、自分の毎日の中で、ちゃんと楽しい時間になっていた。


 それだけのことが、どうして今まで、こんなに言葉にならなかったのか。


 セシリアは、深く息を吐いて、苦笑した。


「……鈍いですね、私は」


 窓の外では、夜の鐘が静かに鳴っていた。


* * *


 オスカーが局の扉を開けたのは、夕方の、窓口が空く時間だった。


 三週間ぶりだった。


 勇気を出すまでに、それだけかかった。


 距離を置いたのは、彼女のためだと思っていた。けれど、ある夜、気づいてしまった。


 ――彼女の気持ちを、勝手に決めつけていたのは、僕のほうだ。


 迷惑に違いない、と。


 嫌われるに違いない、と。


 彼女が何を望んでいるのかを、彼女に聞かないまま、自分の中で結論を出して、勝手に身を引いた。


 それは、誠実さではなく、怖がっていただけだった。


 彼女は、他人の人生を勝手に決めつける人たちに怒っていた。同じことを、自分が彼女にしていいはずがない。


 窓口の向こうに、セシリアがいた。


 顔を上げた彼女が、ペンを持ったまま、ぴたりと動きを止めた。


「……アーデルバルト様」


「お忙しいところ、失礼します。お時間を、少しいただけますか。仕事の相談では、ないのですが」


 奥のドロテアが、書類で顔を隠した。ピートは椅子から転げ落ちかけて、慌てて座り直した。


 セシリアは数秒だけ黙って、それから立ち上がった。


「応接室へ、どうぞ」


* * *


 セシリアは、お茶を淹れた。


 琥珀色の茶葉。柑橘と蜂蜜の香り。


 向かいに座ったオスカーは、カップに手を触れず、まっすぐこちらを見ていた。


「三週間、来られなくなったことを、まずお詫びします。何の連絡もなく、書面だけで済ませてしまいました」


「いいえ。相談者さんの都合ですので」


「ハルトマンさん」


 彼は、小さく息を吸った。


「僕は、あなたのことが好きです」


 セシリアは、動かなかった。


 彼は続けた。言葉を選ぶように、けれど逃げずに。


「最初は、評判のいい職員さんに相談に来ただけでした。でも、あなたの仕事ぶりを見て、結婚のことを、愛だけではなく、生活として考えている姿を見て、話をするのが毎回楽しみになりました」


「……」


「あなたが『真実の愛』という言葉を嫌っているのを、知っています。僕は、その言葉を使って、あなたを説得するつもりはありません。運命だからとか、そういうことで、あなたに選んでほしいとは思っていません」


 彼の声は、少しだけ震えていた。


「ただ、あなたと話し合いながら、一緒に暮らしていきたい。毎日の夕食を、あなたと食べたい。遅くなる日は、先に伝えます。あなたが疲れている日は、僕が気づくようにします。そうやって、時間をかけて、生活を作っていきたいんです」


 部屋の中が、静かになった。


 セシリアは、カップを両手で包んだ。


 熱が、指先に伝わってくる。


「あなたの気持ちを、僕が決めることはできません。ですから、聞かせてください。返事は、今日でなくても構いません」


 セシリアは、顔を上げた。


 いつもなら、即答できる。仕事の判断は早い。


 けれど、これは仕事ではなかった。


 彼女は、カップを置いた。


「実は、この三週間、ずっと考えていました。アーデルバルト様が来なくなってから」


「……」


「最初は、紹介した方とのご縁がうまくいったのかと、相談者としての心配をしていました。でも、違いました。お茶の缶が、減らなくなって」


 オスカーが、小さく目を見開く。


「あなたが来ないことが、毎日、少し寂しかったんです。仕事の責任ではなく、あなたと話せないことが、です。そのことに、自分でも驚くほど時間がかかりました」


 セシリアは、少しだけ笑った。


「私は、条件に合う誰かを探していたわけではなかったんだと思います。今、ようやくわかりました」


 彼女は、まっすぐに彼を見た。


「私が求めているのは、あなたです」


 オスカーの手が、膝の上で、ぎゅっと握られた。


「ちゃんと、考えました。誰かに選ばれたからでも、誰かに幸せにしてもらうためでもなく、私が、あなたと一緒に生きていきたいと思いました」


「……はい」


 彼の声は、掠れていた。


「ありがとうございます」


 その目が、少し赤い。


 セシリアは、見なかったふりをして、お茶を一口飲んだ。


 香りが、やっと近くに戻ってきた気がした。


* * *


 カップが空になった頃、オスカーが、おずおずと口を開いた。


「ひとつだけ、ずっと気になっていたことを、聞いてもいいでしょうか」


「どうぞ」


「その、左手の指輪が」


 セシリアは、自分の手を見て、ああ、と小さく声を漏らした。


「気づいていらしたんですね」


「最初に伺ってから、ずっと。尋ねる勇気が出なくて」


「それで、三週間」


「それは、また別の理由ですが……」


 オスカーが気まずそうに頭をかくと、セシリアは、くすりと笑った。


 それから、薬指の指輪に、そっと触れた。


「これは、自分で買ったものです」


「……自分で」


「婚約を解消されたあと、少し経ってからです。ある日、宝飾店の前を通りかかって、ふと思ったんです」


 彼女は、ゆっくりと言葉を続けた。


「わたしは、いつか幸せな結婚がしたい。その気持ちは、誰かに選ばれなかったからといって、なかったことにしなくていい、と」


 オスカーは、黙って聞いていた。


「誰かが、わたしの人生を幸せにしてくれるのを待つのではなく、わたしが、わたしの人生をちゃんと幸せにする。その決意を、形にしておきたかったんです」


 彼女は、指輪を見つめて微笑んだ。


「ですから、この指輪は、婚約指輪でも、結婚指輪でもありません。わたしが、わたしに贈ったものです」


 オスカーは、しばらく言葉が出なかった。


 やがて、静かに言った。


「……あなたらしいです」


「そうですか」


「あなたが、他の誰かの幸せを、あれだけ丁寧に考えられる理由が、わかった気がします。まず、自分の人生を、ちゃんと大切にしている人だからなんですね」


 セシリアは、少し照れたように目を逸らした。


「褒めすぎです」


「事実を述べたまでです」


「それは、お仕事でよく使われる言い回しですね」


「あなたのが、うつりました」


 二人で、同時に笑った。


 笑い声が収まったあと、セシリアは顔を上げ、いたずらっぽく微笑んだ。


「この指輪は、これからも着けています。外す理由が、ありませんので」


「……はい。そうしてください」


 オスカーは、即座に頷いた。


 それから、セシリアは背筋を伸ばして、まっすぐに彼を見た。


「でも結婚指輪は、一緒に選んでくださいね」


 誰かに幸せにしてもらうための言葉ではなかった。


 自分で選んだ人生を、これからは彼と並んで歩いていく。そのための言葉だった。


 オスカーは、一度だけ深く息を吸った。


 そして、これまで局で見せたどんな笑顔よりも、まっすぐな顔で頷いた。


「はい。喜んで。……相場は、金貨二十枚前後でしたよね」


「覚えていらしたんですか」


「あなたの言葉は、全部、覚えています」


 扉の向こうで、ごとん、と何かが倒れる音がした。


「ピート! 押さないで!」


「僕じゃないです、ドロテアさんが!」


 セシリアは額に手を当てて、ため息をついた。


「……明日の朝礼で、業務時間中の盗み聞きについて、お話ししましょうか」


「お手柔らかに」


 オスカーが、笑いを堪えながら言った。


 騒がしい扉の向こうをよそに、窓の外には夕暮れが降りていた。


 セシリアは、そっと左手に目を落とした。


 薬指の細い銀の指輪が、夕陽を受けて、小さく光っていた。

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