真実の愛の後始末、承ります。婚姻斡旋局員は運命に頼りません
「真実の愛を見つけたんだ」
向かいの席で、ローレンスは言った。
応接間の紅茶は、もう冷めている。彼は膝の上で手を組み、いかにも言いにくそうに、けれどどこか誇らしげに続けた。
「君には悪いと思ってる。でも、こんな気持ちは初めてなんだ。出会った瞬間にわかった。これは運命だって」
「そうですか」
セシリアは頷いて、持参した手帳を開いた。
「では、費用の確認をさせてください。式場の手付金はそちらのお父様のお名前で支払い済み。仕立屋のドレスは、うちの名義で四割払い済み。招待状は印刷が終わっていますが、未発送。この三点でよろしいですか」
「……え?」
「手付金の返還交渉は、早いほうがいいんです。式場は日取りが近づくほど条件が厳しくなりますので」
「いや、セシリア。僕は今、君に別れを告げているんだけど」
「承知しています。お話は伺いました。ですので、次の段取りに移っています」
ローレンスは口を半分開けたまま固まった。引き止められるか、泣かれるか、罵られるか。そのどれかを想定していた顔だった。
どれも、してやらない。
セシリアは静かにペンを走らせた。インクが少し滲む。手が震えているからだと気づいて、筆圧を強めて誤魔化した。
泣くのは、帰ってからでいい。
この場で泣いてしまえば、彼の「真実の愛」は、泣いている婚約者を振り切る悲劇の美談に化ける。それだけは、どうしても嫌だった。
* * *
王立婚姻斡旋局の朝は、書類の山から始まる。
あの日から二年。セシリア・ハルトマンは二十七歳になり、窓口の一番奥の席で、今日も山を崩していた。
「ハルトマンさん、九時の相談者さんがもういらしてます。子爵家のカイル様です。なんだか……すごく輝いてます」
新人のピートが、少し怯えた顔で報告に来た。
「輝いている?」
「はい。幸せオーラが物理的に眩しいです」
「それは、面倒な案件ですね」
セシリアは立ち上がった。
応接室に入ると、確かに眩しい青年が待っていた。身なりも髪も完璧で、目だけが夢見るように潤んでいる。
「聞いてください。僕は先月、運命の人に出会ったんです。婚約者のことはもういいんです。僕の心は、もう彼女のものですから」
「承知しました。では、解消の手続きを進めるにあたって、ご婚約者様への費用精算を確認しますね」
「ああ、そういう細かいことは、そちらでお任せしたくて」
「お任せいただくのは構いません。ただ、金額の確認はご本人に必要です」
セシリアは一枚の表を机に滑らせた。
「式場手付金、金貨八十枚。仕立て代、六十枚。ご両家の顔合わせ費用、二十五枚。先方の持参金に関する契約破棄の違約金、これが百二十枚。合計で金貨二百八十五枚です。愛を見つけたカイル様に、ご負担いただく額です」
「に、にひゃく……」
「愛の前では金額など些細なこと、と伺いましたので、全額ご負担でよろしいですね?」
「いやっ、それは、ちょっと待って、その、分割とか……」
「分割は可能です。ただし、先方の合意が必要です。合意をいただくには、誠意ある謝罪が必要です。誠意ある謝罪には、愛を見つけた理由の説明より、まず先方の話を聞く時間が必要です」
「……聞く時間」
「はい。三時間ほどです」
カイルは、輝きを少し失った顔で頷いた。
「それと、新しいお相手様とのご結婚をお考えでしたら、当局で面談をおすすめします。運命の出会いは素晴らしいものですが、生活の相性までは運命が保証してくれませんので」
応接室を出ると、先輩職員のドロテアが書類を抱えてにやにやしていた。
「また一人、現実に引き戻したわね。さすが『真実の愛嫌い』」
「嫌いではありません。精算が好きなだけです」
「それを世間は嫌いと言うのよ」
「違います」
セシリアは言い返して、自分の席に戻った。
机の端に、封筒が一通置かれている。差出人はブラント夫妻。去年、彼女が紹介した二人だ。
便箋を開くと、几帳面な字が並んでいた。
――毎晩、同じ時間に夕食を食べられることが、こんなに嬉しいとは思いませんでした。主人は相変わらず靴下を裏返しに脱ぎますが、それも含めて紹介してくださって、ありがとうございます。
セシリアの口元が、自分でも気づかないうちに緩んだ。
手紙を封筒に戻す。無意識に、左手の薬指の指輪を右手の指先でなぞった。
そのとき、ドロテアが肩越しに覗き込んだ。
「あら、笑った」
「笑っていません」
「笑ったわよね、ピート」
「はい、見ました。貴重でした」
「午前の面談の準備をします。お二人とも、手を動かしてください」
セシリアは表情を戻し、次の書類に手を伸ばした。
愛が嫌いなわけではない。この手紙みたいなものが、確かにあるのだと知っている。だから、この仕事をしている。
ただ、それを口に出して説明するのは、どうにも面倒だった。
* * *
「オスカー・アーデルバルトと申します。王領測量局で、局長補佐を務めております」
翌週、窓口に現れた男性は、背筋の伸びた丁寧な礼をした。
三十前後。濃い色の外套に、よく手入れされた革の鞄。目の下には、うっすらと隈がある。
セシリアは面談用の用紙を広げた。
「本日はよろしくお願いします。まず、ご希望を伺います。条件でも、漠然としたものでも構いません」
「結婚を、考えています。ただ、あの……恋愛感情だけで決めたくないんです。こう言うと、冷たく聞こえるでしょうか」
彼は申し訳なさそうに眉を下げた。
セシリアはペンを止めずに答えた。
「いいえ。合理的です。ただ、冷たいかどうかを決めるのは、お相手の方でしょう。ご自身で先回りして判断しなくて大丈夫です」
オスカーが、少し目を瞬いた。
「では、生活面をお聞きします。休日は?」
「ほぼ、ありません」
「睡眠時間は?」
「四時間ほどです」
「それは条件ではなく、申告事項ですね」
ペンで「要改善」と書き込むと、彼は小さく噴き出した。
「失礼。そういうふうに言われたのは初めてです」
「結婚後も、そのご予定で?」
「いえ……できれば、改めたいです。夕食くらいは、誰かと食べられる生活が」
「承知しました。夕食、と」
用紙に書き込みながら、セシリアはふと思い出した。昨日読んだ、ブラント夫妻の手紙。
彼女の手が止まった。
「差し支えなければ、過去のご婚約についても確認させてください。解消の経験は?」
「あります。二年前に。相手の方が、その……」
オスカーは言い淀み、乾いた笑いをこぼした。
「真実の愛を見つけた、と」
ペン先が、紙の上で一瞬止まった。
セシリアは顔を上げず、少しだけ間を置いてから尋ねた。
「それは、ご苦労なさいましたね。費用の処理は、終わっていますか」
「……終わっています」
「それなら結構です」
顔を上げると、オスカーがぽかんとこちらを見ていた。
「どうされました?」
「いえ。そこから聞かれたのは、初めてで」
「大事ですので」
「……そうですね。大事です」
彼は笑った。肩の力が抜けたような、気取らない笑い方だった。
セシリアは用紙に目を戻した。
誠実で、条件の整理がしやすい。仕事を最優先にしすぎるきらいはあるが、改善する意志がある。
――ずいぶん、優秀な相談者さんだ。
その程度の感想を、彼女はきちんと胸の中に書き留めた。
* * *
二度目の来局で、オスカーは紹介候補の資料を受け取った。
向かいで資料を説明するセシリアの声を、彼は注意深く聞いていた。
「ベアトリス様は、王立図書館の司書をなさっています。穏やかで聞き上手。ご自身も朝が早く、静かな生活を好まれます。ただ、お仕事の都合で、夜は読書に没頭なさるそうです」
「夜に……読書」
「はい。ですから、お二人が同じ部屋にいて、別々のことをしていても苦にならないかどうか。そこがおそらく相性の鍵です」
セシリアはそこで言葉を切り、ふと付け加えた。
「それと、アーデルバルト様。これはお相手に限った話ではないのですが、結婚後の帰宅時間が遅くなる日は、先に伝える癖をつけておくといいです」
「先に、ですか」
「待たれる側は、遅いこと自体より、いつ帰るかわからないことが一番こたえるんです。『今日は遅い』の一言があるだけで、夕食を温め直す人の気持ちは、まったく違います」
淡々とした口調だった。しかし、オスカーは思わず背筋を正した。
この人は、結婚する前の人間に、結婚した後の暮らしを見せている。
条件表の向こうに、台所の灯りや、玄関の足音まで見えているような話し方だった。
「……肝に銘じます」
「そんなに重く受け取らなくても。ただの経験則です」
「経験則」
セシリアは少しだけ首を傾げた。
「たくさんの方を見てきましたので」
書類を整えるその手に、オスカーの視線が止まった。
左手の薬指。細いが、きちんと磨かれた銀の指輪。
前回も、その前からも気づいていた。気づいていて、見ないふりをしていた。
「あの、少し話が逸れるのですが」
つい、口が動いた。
「結婚指輪というのは、相場がどのくらいなのでしょう。いえ、実は知人に聞かれて」
「男性用と女性用で違います。金貨十五枚から三十枚が一般的です。中位の貴族なら二十枚前後ですね。刻印は別料金で、石を入れると跳ね上がります」
一息だった。迷いも、間もない。
オスカーは頷きながら思った。
――即答。つまり、よく考えたことがある。いつか、誰かのために。
指輪の相手が、いるのか。
いるのだろうと、彼は勝手に結論づけて、勝手に黙った。
尋ねるのは簡単だ。けれど、仕事で会う相手に、そんな話を投げるべきではない。
「……ありがとうございます。参考になりました」
帰り道、外套の襟を立てながら、オスカーは自分でも説明のつかない息を吐いた。
息が、少しだけ重かった。
* * *
それから、オスカーは何度か局に通ってきた。
ベアトリスとの交際についての報告。生活面の相談。書類の確認。
三度目あたりで、セシリアは気づいた。
彼は、いつも夕方に来る。そして、窓口の混雑が引く頃合いを、きちんと見計らっている。
――職員の負担まで考えてくださる方だ。
そう思って、彼女は感心していた。
さらに、ある日、来客用の戸棚に見慣れない茶缶が増えていた。
「ドロテアさん、この缶、どなたが?」
「あー、えっと」
ドロテアは奇妙な顔で、ピートと目を合わせた。
「寄付、らしいわよ。来客用にって」
「寄付。ありがたいですね。ちょうど切らしかけていました」
開けてみると、深い琥珀色の茶葉から、柑橘と蜂蜜の香りがした。セシリアがいつも自分で買っている銘柄と、まったく同じものだった。
「偶然って、あるんですね」
ピートが、噴き出すのを必死にこらえて咳をした。
「ハルトマンさん、今日、昼食は?」
「あとで食べます。この書類を片付けてから」
「それ、午前中も言ってましたよ」
その日の午後に訪れたオスカーは、書類を整理している彼女を見て、控えめに声をかけた。
「ハルトマンさん。差し出がましいのですが、今日の面談は、こちらの資料を見ながら少し休憩を挟んで進めませんか。僕のほうが、少し疲れていまして」
「アーデルバルト様が、お疲れ……なるほど」
セシリアは、ぱっと表情を明るくした。
「効率的な進め方ですね。休憩を挟んだほうが、お互い判断の精度が上がります。そうしましょう」
お茶が運ばれ、セシリアは出された焼き菓子を、ごく自然に口に入れた。
その姿を、オスカーは何も言わずに見ていた。
食べた、と心の中で小さくガッツポーズをしながら。
翌週は逆だった。
「アーデルバルト様、今日は顔色が悪いです」
「いえ、大丈夫です」
「睡眠は?」
「……三時間ほど」
「減っています。今日は面談を短くしましょう。続きは来週で。お休みになってください」
セシリアは、さっさと書類を片付けた。
オスカーは一瞬、言葉を失った。
「……心配、してくださったんですか」
「相談者さんの体調管理も、仕事のうちですので」
それはそうだ、と彼は頷いた。頷きながら、胸の奥がじんわり熱くなっていくのを止められなかった。
* * *
ベアトリスとは、二度会った。
穏やかで聞き上手で、一緒にいて疲れない、いい女性だった。二度目の別れ際、彼女は柔らかく微笑んで言った。
「アーデルバルト様。もしかして、お話しになりたい方は、わたしではないのでは?」
「え?」
「お茶の話、お仕事の話、お休みの話……どれも、斡旋局の職員さんの言葉でいっぱいでしたよ」
オスカーは、固まった。
「……自覚が、ありませんでした」
「でしょうね。ご縁がなかったことは残念ですけれど、お話は楽しかったです。どうか、お元気で」
彼女は怒ることもなく、品よく去っていった。
一人残された公園のベンチで、オスカーはしばらく動けなかった。
セシリアに会いたくて、局に通っていた。
相談の内容より、彼女の言葉が聞きたかった。彼女の「効率的ですね」という声が、あの照れ隠しのない笑顔が。
恋だ。
認めるのに、三分かかった。
しかし、続く思考は、もっと重かった。
彼女の左手の薬指には、指輪がある。相手がいるかもしれない。いないとしても、彼女は過去に「真実の愛」という言葉で傷つけられた人だと、彼は知っている。
そして、自分もまた、その言葉で婚約を失った一人だ。
――この気持ちを伝えたら、彼女は困らないだろうか。
相談者として信頼してくれている彼女の前で、自分が勝手に恋に落ちたことは、彼女の信頼を裏切ることにならないだろうか。
彼女の幸せを邪魔しないこと。
それが、いまの自分にできる誠実さではないか。
そう、彼は考えていた。
考えて、考えて、結論を出せないまま、夕暮れの鐘が鳴った。
* * *
「また来たわよ、あなたの相談者さん」
窓口の隙間から入口を覗いたドロテアが、にやにやしながら言った。
「アーデルバルト様ですか。ええ、今日は十七時のお約束です。今は手続きの書類を」
「ねえ、セシリア。これだけ通ってくるのって、あなたに会いに来ているんじゃない?」
「業務の相談です」
「はいはい。いいわねえ、これが真実の愛ってやつね!」
ドロテアは、いつもの軽口のつもりで言った。
セシリアは、ペンを置いた。
音が、思ったより大きく響いた。局内の空気が、すっと冷える。
「……その言い方、やめてください」
「え?」
「人をからかうために、簡単に使わないでください」
いつもと違う声に、ドロテアが口をつぐむ。ピートは書類を抱えたまま、動けずにいる。
「恋をするのは自由です。でも、その言葉を使えば何をしてもいいわけじゃありません」
セシリアはドロテアを見た。
「冗談でも、そういう使い方はしてほしくないんです」
数秒の沈黙のあと、ドロテアは真顔になって頭を下げた。
「……ごめんなさい。軽率だったわ」
「いえ。私も、強く言いすぎました」
セシリアが小さく息を吐いたとき、入口の方で気配がした。
振り向くと、オスカーが扉のところに立っていた。
手には、書類の束。いつから、そこにいたのだろう。
「……お邪魔、でしたか」
「いいえ。お約束の時間でしたね。失礼しました、少し込み入っておりまして」
「いえ」
オスカーは、静かに言った。
「ハルトマンさんのおっしゃることは、もっともだと思います」
その声は穏やかで、けれど、いつもと少し違った。
セシリアは、その違いにほんの少し引っかかった。けれど、それが何なのかまでは、わからなかった。
その日、手続きは滞りなく終わった。
オスカーは丁寧に礼を言って帰り、ドロテアは帰り際にもう一度「さっきはごめんね」と言った。ピートは「かっこよかったです……」と謎の感想を残した。
セシリアは、いつものように書類を片付けた。
ただ、ふと、扉の方を見た。
もう誰もいない。
* * *
その夜、オスカーは書斎で、冷めたお茶を前に座っていた。
あの人は、あんな顔をして怒るのだ。
いつも冷静な彼女が、あれほど強い声を出した。同僚の軽口ひとつで。それだけ、あの言葉には、彼女にとって触れられたくない何かがあるのだろう。
それが何なのか、彼にはわからない。
わからないのに、あの横顔が頭から離れなかった。
会いたい。
明日も、その次も、あの窓口で彼女と話したい。できることなら、この気持ちを、ちゃんと伝えたい。
けれど。
――僕が好意を伝えたら、彼女は、どう思うだろう。
あの言葉を聞いたあとでは、考えずにいられなかった。
自分の気持ちが盛り上がったからといって、彼女の事情も、いまの気持ちも確かめないまま、言葉をぶつける。それは、彼女にとって迷惑なことではないのか。
彼女を傷つけたくない。
そのためには、どう動くのが正しいのだろう。
会いに行って、いつも通りに相談を続けながら、黙っているべきか。
それは、ひどく不誠実な気がした。
伝えるべきか。
けれど、伝えたことで彼女の穏やかな日常を乱してしまったら、その責任は取れるのか。
答えは出なかった。
彼は引き出しから便箋を取り出した。以降の手続きは、秘書を通して書面で進めてもらうよう、短い連絡を書く。
しばらく会わずにいれば、彼女の邪魔にはならない。
その間に、考えがまとまるかもしれない。
そう自分に言い聞かせて、封をした。
燭台を吹き消すと、暗闇の中で、ひとつだけ素直な気持ちが残った。
彼女の淹れてくれたお茶が、もう一度、飲みたかった。
* * *
一週間が過ぎた。
オスカーは来なかった。二週間目に入っても、来なかった。
代わりに、彼の秘書を名乗る老紳士が書類を持ってきて、礼儀正しく手続きだけを済ませて帰っていった。
「アーデルバルト様は、お変わりありませんか」
「はい。お元気で、お仕事に励んでおられます」
それだけだった。
セシリアは、記録簿を開いた。ベアトリスとの交際の経過が、途中で止まっている。
――うまくいったのだろうか。
紹介した責任がある。相談者の経過確認は、仕事のうちだ。
そう考えて、彼女は過去の面談記録を見返した。
しかし、見返せば見返すほど、わかるのは、彼がどれだけ誠実に相談してくれていたかということだけだった。そして、うまくいっていたなら、もう相談に来る必要がないのだ、ということも。
それなら、それでいい。
そう思った。
……思ったのだが、ふと、手が止まった。
夕方の十七時。窓口が空く時間。
無意識に、入口の方を見ていた。
「ハルトマンさん、どうしました?」
「いえ。何でもありません。時間を確認しただけです」
ピートが首を傾げて去っていく。
セシリアは書類に目を戻した。しかし、文字が頭に入ってこない。
昼休みに茶缶を開けたとき、彼女の手が止まった。
缶の中身が、減っていない。
いつもなら、来客のたびに少しずつ減っていくはずの琥珀色の茶葉が、先週から、ほとんど変わっていない。
「……あ」
お茶を淹れていたのは、いつも、彼の来る日だった。
彼が来るから淹れていた、というほどのことではなかったはずだ。ただ、気づけば彼の来る夕方になると、お湯を沸かしていた。そのことに、今まで気づいていなかった。
窓口の向こうで、ドロテアが気遣わしげにこちらを見ている。
「セシリア、今日、お昼は?」
「いただきます。お茶を淹れましょうか。ドロテアさんの分も」
「……ええ、ありがとう」
お湯を沸かしながら、セシリアは自分に問いかけた。
なぜ、こんなに気になるのか。
相談者がひとり来なくなっただけだ。仕事は滞りなく回っている。何も困っていない。
それなのに、お茶の香りが、少し遠い。
* * *
夜、一人暮らしの部屋で、セシリアは窓辺の椅子に腰かけていた。
灯りは小さく、膝の上には何も持っていない。
左手を、ぼんやり眺めた。
薬指の指輪は、変わらずそこにある。
――オスカー・アーデルバルト。
名前を思い浮かべると、いろいろな場面が順番に浮かんできた。
夕食くらいは誰かと食べられる生活が、と言った声。
結婚後の帰宅時間の話を、神妙な顔で聞いていた横顔。
休憩を挟みましょう、と言ってくれたこと。
あれは、わたしが昼食を抜いていたからだ。気づかないふりをして、気づかれていたのだ。
その少しあとの、「心配してくださったんですか」という問い。
あのとき、どんな顔をしていただろう。
……思い出せない。見ていなかった。
セシリアは、自分に呆れた。
相談者の表情なら、一目でわかるのに。条件表の裏に隠れた本音なら、手に取るように読めるのに。
わたしは、彼の顔を、ちゃんと見ていなかった。
もっと、見ておけばよかった。
そこまで考えて、セシリアははっとした。
これは、相談者への心配ではない。
紹介した縁がうまくいったかどうかを知りたいなら、記録を見れば済む。秘書の方に尋ねれば済む。
それでも足りないのは、彼本人の声で、話を聞きたいからだ。
「また話したい」
口に出してみると、驚くほどしっくりきた。
彼に何かを埋めてほしいわけでもない。ただ、彼と話す時間が、自分の毎日の中で、ちゃんと楽しい時間になっていた。
それだけのことが、どうして今まで、こんなに言葉にならなかったのか。
セシリアは、深く息を吐いて、苦笑した。
「……鈍いですね、私は」
窓の外では、夜の鐘が静かに鳴っていた。
* * *
オスカーが局の扉を開けたのは、夕方の、窓口が空く時間だった。
三週間ぶりだった。
勇気を出すまでに、それだけかかった。
距離を置いたのは、彼女のためだと思っていた。けれど、ある夜、気づいてしまった。
――彼女の気持ちを、勝手に決めつけていたのは、僕のほうだ。
迷惑に違いない、と。
嫌われるに違いない、と。
彼女が何を望んでいるのかを、彼女に聞かないまま、自分の中で結論を出して、勝手に身を引いた。
それは、誠実さではなく、怖がっていただけだった。
彼女は、他人の人生を勝手に決めつける人たちに怒っていた。同じことを、自分が彼女にしていいはずがない。
窓口の向こうに、セシリアがいた。
顔を上げた彼女が、ペンを持ったまま、ぴたりと動きを止めた。
「……アーデルバルト様」
「お忙しいところ、失礼します。お時間を、少しいただけますか。仕事の相談では、ないのですが」
奥のドロテアが、書類で顔を隠した。ピートは椅子から転げ落ちかけて、慌てて座り直した。
セシリアは数秒だけ黙って、それから立ち上がった。
「応接室へ、どうぞ」
* * *
セシリアは、お茶を淹れた。
琥珀色の茶葉。柑橘と蜂蜜の香り。
向かいに座ったオスカーは、カップに手を触れず、まっすぐこちらを見ていた。
「三週間、来られなくなったことを、まずお詫びします。何の連絡もなく、書面だけで済ませてしまいました」
「いいえ。相談者さんの都合ですので」
「ハルトマンさん」
彼は、小さく息を吸った。
「僕は、あなたのことが好きです」
セシリアは、動かなかった。
彼は続けた。言葉を選ぶように、けれど逃げずに。
「最初は、評判のいい職員さんに相談に来ただけでした。でも、あなたの仕事ぶりを見て、結婚のことを、愛だけではなく、生活として考えている姿を見て、話をするのが毎回楽しみになりました」
「……」
「あなたが『真実の愛』という言葉を嫌っているのを、知っています。僕は、その言葉を使って、あなたを説得するつもりはありません。運命だからとか、そういうことで、あなたに選んでほしいとは思っていません」
彼の声は、少しだけ震えていた。
「ただ、あなたと話し合いながら、一緒に暮らしていきたい。毎日の夕食を、あなたと食べたい。遅くなる日は、先に伝えます。あなたが疲れている日は、僕が気づくようにします。そうやって、時間をかけて、生活を作っていきたいんです」
部屋の中が、静かになった。
セシリアは、カップを両手で包んだ。
熱が、指先に伝わってくる。
「あなたの気持ちを、僕が決めることはできません。ですから、聞かせてください。返事は、今日でなくても構いません」
セシリアは、顔を上げた。
いつもなら、即答できる。仕事の判断は早い。
けれど、これは仕事ではなかった。
彼女は、カップを置いた。
「実は、この三週間、ずっと考えていました。アーデルバルト様が来なくなってから」
「……」
「最初は、紹介した方とのご縁がうまくいったのかと、相談者としての心配をしていました。でも、違いました。お茶の缶が、減らなくなって」
オスカーが、小さく目を見開く。
「あなたが来ないことが、毎日、少し寂しかったんです。仕事の責任ではなく、あなたと話せないことが、です。そのことに、自分でも驚くほど時間がかかりました」
セシリアは、少しだけ笑った。
「私は、条件に合う誰かを探していたわけではなかったんだと思います。今、ようやくわかりました」
彼女は、まっすぐに彼を見た。
「私が求めているのは、あなたです」
オスカーの手が、膝の上で、ぎゅっと握られた。
「ちゃんと、考えました。誰かに選ばれたからでも、誰かに幸せにしてもらうためでもなく、私が、あなたと一緒に生きていきたいと思いました」
「……はい」
彼の声は、掠れていた。
「ありがとうございます」
その目が、少し赤い。
セシリアは、見なかったふりをして、お茶を一口飲んだ。
香りが、やっと近くに戻ってきた気がした。
* * *
カップが空になった頃、オスカーが、おずおずと口を開いた。
「ひとつだけ、ずっと気になっていたことを、聞いてもいいでしょうか」
「どうぞ」
「その、左手の指輪が」
セシリアは、自分の手を見て、ああ、と小さく声を漏らした。
「気づいていらしたんですね」
「最初に伺ってから、ずっと。尋ねる勇気が出なくて」
「それで、三週間」
「それは、また別の理由ですが……」
オスカーが気まずそうに頭をかくと、セシリアは、くすりと笑った。
それから、薬指の指輪に、そっと触れた。
「これは、自分で買ったものです」
「……自分で」
「婚約を解消されたあと、少し経ってからです。ある日、宝飾店の前を通りかかって、ふと思ったんです」
彼女は、ゆっくりと言葉を続けた。
「わたしは、いつか幸せな結婚がしたい。その気持ちは、誰かに選ばれなかったからといって、なかったことにしなくていい、と」
オスカーは、黙って聞いていた。
「誰かが、わたしの人生を幸せにしてくれるのを待つのではなく、わたしが、わたしの人生をちゃんと幸せにする。その決意を、形にしておきたかったんです」
彼女は、指輪を見つめて微笑んだ。
「ですから、この指輪は、婚約指輪でも、結婚指輪でもありません。わたしが、わたしに贈ったものです」
オスカーは、しばらく言葉が出なかった。
やがて、静かに言った。
「……あなたらしいです」
「そうですか」
「あなたが、他の誰かの幸せを、あれだけ丁寧に考えられる理由が、わかった気がします。まず、自分の人生を、ちゃんと大切にしている人だからなんですね」
セシリアは、少し照れたように目を逸らした。
「褒めすぎです」
「事実を述べたまでです」
「それは、お仕事でよく使われる言い回しですね」
「あなたのが、うつりました」
二人で、同時に笑った。
笑い声が収まったあと、セシリアは顔を上げ、いたずらっぽく微笑んだ。
「この指輪は、これからも着けています。外す理由が、ありませんので」
「……はい。そうしてください」
オスカーは、即座に頷いた。
それから、セシリアは背筋を伸ばして、まっすぐに彼を見た。
「でも結婚指輪は、一緒に選んでくださいね」
誰かに幸せにしてもらうための言葉ではなかった。
自分で選んだ人生を、これからは彼と並んで歩いていく。そのための言葉だった。
オスカーは、一度だけ深く息を吸った。
そして、これまで局で見せたどんな笑顔よりも、まっすぐな顔で頷いた。
「はい。喜んで。……相場は、金貨二十枚前後でしたよね」
「覚えていらしたんですか」
「あなたの言葉は、全部、覚えています」
扉の向こうで、ごとん、と何かが倒れる音がした。
「ピート! 押さないで!」
「僕じゃないです、ドロテアさんが!」
セシリアは額に手を当てて、ため息をついた。
「……明日の朝礼で、業務時間中の盗み聞きについて、お話ししましょうか」
「お手柔らかに」
オスカーが、笑いを堪えながら言った。
騒がしい扉の向こうをよそに、窓の外には夕暮れが降りていた。
セシリアは、そっと左手に目を落とした。
薬指の細い銀の指輪が、夕陽を受けて、小さく光っていた。




