はじめての飛行機
ある朝、まだ少し眠たい空の色をしている時間に、男の子ははじめて飛行機に乗りました。
空港は知らない音であふれていて、遠くで鳴るアナウンスも、床を走るキャリーケースの音も、どこか落ち着きません。
お母さんの手を握っていても、胸の奥がざわざわしていました。
席に座ると、窓の外に大きな翼が見えました。
思っていたよりもずっと大きくて、重たそうで、どうしてこんなものが空に浮かぶのか、男の子にはわかりません。
やがて、ゴォン、と低い音が響きました。
機体がゆっくり動きはじめます。
「やだ……こわい……」
男の子は、ぽろぽろと涙をこぼしました。
お母さんは背中をさすりながら言います。
「大丈夫よ、すぐ慣れるから」
けれど、その言葉は、遠くのほうで聞こえるだけでした。
こわい気持ちは、少しも小さくなりません。
そのとき、通路に立っていた客室乗務員が、そっとしゃがみました。
目線を合わせて、静かに言います。
「うん、こわいよね」
男の子は、少しだけ顔を上げました。
「大丈夫」と言われるよりも、その言葉のほうが、なぜか胸に落ちてきました。
「音、こわい?」
男の子はうなずきます。
「これはね、進む準備の音なんだよ。飛ぶために、いろんなものがちゃんと動いてるっていう合図」
耳をすませると、さっきまでただ怖かった音が、少しだけ違って聞こえました。
まだこわいけれど、わからないものではなくなっていきます。
飛行機は滑走路へ向かって進みます。
ごとごと、と小さく揺れました。
男の子は、また肩をすくめます。
「今の揺れ、びっくりした?」
「うん……」
「バスも揺れるでしょ」
男の子は考えて、小さくうなずきました。
「空のバスもね、ちょっと揺れるんだよ」
その言葉を聞いて、男の子は窓の外を見ました。
ここは空の道なんだ、と、少しだけ思えました。
やがて、飛行機は止まり、静かに力をためるような間がありました。
次の瞬間、ぐっと強い音がして、体が背もたれに押しつけられます。
男の子はぎゅっと目を閉じました。
そのとき、隣でやさしい声がしました。
「今ね、地面とさよならしてるところ」
男の子は、ゆっくりと目を開けました。
さよなら、という言葉に引かれて、窓の外を見ます。
地面が少しずつ遠ざかっていきました。
家や車が、小さな箱のようになっていきます。
しばらくすると、白い雲が近づいてきて、飛行機はその中に入りました。
窓の外が、やわらかな光で満たされます。
「上から見るとね、なんでもちょっと小さく見えるの」
客室乗務員は、空を見ながら言いました。
「こわい気持ちも、少しだけね」
男の子は、自分の胸に手を当てました。
こわい気持ちはまだあります。でも、さっきよりも、ほんの少しだけ小さくなっていました。
やがて飛行機は雲を抜け、青い空の中をまっすぐ進みはじめます。
機内は静かになり、人々の声もやわらかくなりました。
「まだ、こわい?」
「……ちょっとだけ」
「うん、それでいいよ」
その言葉に、男の子はもう泣きませんでした。
しばらくして、飛行機は無事に目的地へと着きました。
シートベルトのサインが消え、人々が立ち上がります。
男の子も立ち上がり、通路に出ました。
あの人を探すと、少し離れたところで、誰かに笑いかけていました。
男の子は近づいて、小さな声で言いました。
「空、ちょっとだけわかった」
客室乗務員は、やさしく目を細めます。
「じゃあ次は、もう少しわかるね」
飛行機の扉が開くと、新しい空気が流れ込んできました。
男の子は一歩、外に出ます。
さっきまでこわかった空は、同じ空のはずなのに、少しだけ違って見えました。




