水曜日
目覚めた。ただ瞼が開かない。眠りに落ちていた体はいつの間にか現実へ浮上しきり、その後暗闇に叩き落とされている。少しずつ思い出してきた。昨日、僕は映画館に行った。楽しみにしていたSF恋愛映画を見にいくためである。映画の内容は大変素晴らしく、僕は目が腫れるまで泣いた。もしかすると、目の前が暗いのはそのせいかもしれない。目が腫れているのに、視界は全くの曇りだ。
いや、違う。思い出した。重要なのはその帰り道だった。僕があまりに涙を流したので、水が蒸発したのちそこに大山脈を思わせる盛り塩が残っているのではないか。そこはいずれ映画館の聖地となり、映画館はその観光客に追われて落ち落ち映画など放映できなくなってしまうかもしれない。そう想像してぞっとしていた、その時だ。まず頭に強い衝撃があり、その一秒間ともう少しくらいで、さらに強い痛みが僕を襲った。それ以降、僕は何も思い出すことはできない。
もしかして、いや、僕が想像しているよりそれは想像に難くないだろうが、僕は誘拐されいる。そういえば上半身の自由が効かない。先ほどから目を開けているはずなのに視界が閉じたままなのは、おおよそ目隠しでもされているのかもしれない。
まず今の社会で殴って気絶させるなどという原始的な手段が横行していることに驚き、今の社会で犯罪に成功していることにも驚く。相当な手際の持ち主なのだろう。いわばプロ犯罪者、略してプン罪者だ。
「display rely right accomplish poison!」
そうだった、映画館では電源を切っていたが、出た後につけたことをすっかり失念していた。
「おい、さっきからうるせえよ。何なんだよ」
荒々しい男の声だ。何日も水を飲んでいないみたいに声が枯れている。昨日拉致した僕を前にしてカラオケ大会でも開いたのだろうか。だとしたら最悪だ、混ざりたかった。
男が近づいてくる気配を感じる。恐怖に僕は少し体を動かしてしまった。
「おいお前、起きたか?」
「は、はい」
「あまり威圧するな。人質と友好関係を築けないのは、こちらにとっても損だ」
また別の男の声だ。こちらは透き通った声をしている。おそらくカラオケ大会では一曲のみ歌ってその後はずっとタンバリンでも叩いていたのだろう。このような冷静で聡明な男が相手にいるのは、不幸中の幸いだ。
「わかってる」
一方カラオケ男はこのように子供の如く不貞腐れている。
「あの」
「あ?」
「いや、えっと、何で僕は今こんな状態なんですか?」
カラオケ男は乱暴に僕の目隠しを外す。世界が広がった。見知らぬ家の中だが、どこかあたたかく、ノスタルジックな気持ちにさせた。
カラオケ男は、その声から推測される通り大柄で筋肉質だったが、目が小さくて愛らしい。子犬のような綺麗な目をしている。不幸中の幸い男もおおかた予想通りで、明治時代の知識人を思わせる佇まいで、背が高い。あと目がつぶらだ。
「いいか、俺らは社会を正すんだ」
「はあ」
「俺から説明する。まず、君は俺たちの人質になってくれればいい。最新の技術を使って頭の傷を治したし、このあと拘束も解こう。とにかく、俺たちに捕まったふりをしてほしいんだ」
「一体、何のために?」
「今の社会では、人工知能が全ての社会維持機能を担っている。たとえば人間が人を傷つけようとした際、それが行われる前に止められるんだよ」
「いいことじゃないですか」
すばらしき科学の進歩だ。
「しかし、裏技があるんだ。俺たちの親友はそれに殺された」
「許せねえよ」
「裏技、ですか」
二人のつぶらな目に、確かな炎が宿るのを見た。どこからか民衆を鼓舞する歌が聞こえてきた。
「裏社会で出回っている、特殊な電波を出す装置があれば、一瞬だけその目を誤魔化せるんだ。君を殴った時もそれを使った」
不幸中の幸い男が手のひらをこちらに見せた。彼の右手には物々しい指輪が誇らしげに居座っている。
「殴ったのははごめんな」
本当ですよ、と口を尖らせようとしたが、二人のどちらかが先端恐怖症である可能性があったのでやめた。びっくりしたらかわいそうだ。
「俺たちはこれによって捕まることで、世間にその装置の存在を知らしめるんだ。そのためにはまず君を人質にした立てこもりを行なって、ネットに流してもらう。だから、君は自由にしていて構わない」
最初こそ怯えていたが、今はこの二人に同情さえしていた。ギャンブルの初心者がだんだん大胆になっていくように、僕もこの作戦に加担する情熱で焼かれ始めた。
この人質生活は実に気楽で、情熱は持っているものの、特に僕はすることもない。
「何か欲しい娯楽はあるか?」
「あ、じゃあ音楽が聴きたいです」
「お前は音楽が好きなのか」
不幸中の幸い男は僕に聞く。
「大好きです。僕、ジャズピアニストをやってるんですよ」
ほうそりゃすごい、すげえじゃねえかと二人から感嘆の声が飛んでくる。僕は気恥ずかしくなって話を進めた。
「あの、ノワールさんって知ってますか?」
「知ってるも何も、俺たちは音楽と言ったら最近ノワールの曲しか聴いていない」
やっぱり、ノワールさんはすごい。間も無くしてノワールさんの曲が部屋に流れ出した。部屋は数分も満たない間にノワールさんの音で満たされたが、窒息はしなかった。
「その、実は、僕ノワールさんの幼馴染なんですよ」
「マジか」
僕はノワールさんとの思い出を聞かれ、恥ずかしながらも滔々と語った。二人はとても聞き上手で、相対的に僕も喋り上手になったかに思われた。
「おい、お前、恋してるのかよ」
言葉にして発されると気恥ずかしい。心が少しずつ浮き始めた。脳内のマウスがニヤニヤと悪魔の微笑みを浮かべながらこちらをのぞいてくる。現実の彼にはノワールさんへの思いを打ち明けたことはないが、こうして脳内の彼が僕を嘲ってくる。なんてやつだ。
僕は押し黙って肯定した。
「おい言えよ、俺たちゃ恋愛マスターだぜ」
「そうだ」
「そうなんだ」
二人のつぶらな瞳はまるで嘘をついていない。
3人は恋バナで盛り上がった。僕は彼女がいかに天使であるかを語り、彼らも親身になって聞いてくれた。色を見ずに育った科学者メアリーが初めてこの部屋を見たならば、正確に桃色だと理解することができるだろう。30分おきにスマートウォッチは何か喋ったが、それはそれで面白かった。
「そういえば俺たち、立てこもりするの忘れてるじゃねえか」
「本当だ」
「たしかに」
「警察に連絡を取ろう」
不幸中の幸い男、もといエデンさんがインターネットに接続する。そこで彼にしては珍しくひどく驚いた顔をした。カラオケ男、もといリーゼントさんもその小さな瞳を大きく見開いた。
「何だこれ」
僕たちに一つのニュースを見せてくれた。見出しは『生核会、不正装置所持か』というものだった。生核会という組織が、先ほどエデンさんが話していた装置を使用していることがバレたらしい。
「生核会、反AIの宗教だな」
「この時代にも宗教ってあるんだ」
宗教といえば、科学の進歩によって半世紀も前に滅んだ文化だったはずだ。
「それより、この装置の存在が世に出回ったじゃねえか」
「本当だ」
「たしかに」
僕を含め、三人は沈黙した。おそらく同じことを考えているからだ。
「じゃあ、解散か?」
そうだな。そうですね。ちらほらと僕たちから肯定の声が上がった。僕は二人の家から出て、二人の車で帰ることになった。
「なあマフラー、君は自分が思っている以上に性格は悪いが、君が思う以上にいいやつだよ」
「そうだぜ、性格は悪いけど」
貶されているパートは多かったが、悪い気はしなかった。
「どうしたの、急に」
「いいか、この世界には自己肯定感が低いやつが多すぎるんだ。俺たちの第二の仕事は、そういう奴らに事実を以て自信を持ってもらうことだ」
「駄洒落?」
「違う」
「とにかく、もっと自分に自信を持てよ」
いつの間にか家の近くにまで到着していた。夜は回りに回って目を回し、時間が若干の千鳥足になっている。僕は勝手に空いたドアを潜り、二人の方に向き直った。
「巻き込んですまなかったな」
「いや、新たな友人ができて僕も嬉しいよ」
「嬉しいこと言うじゃねえか」
エデンさんが何かを思い出したような声をあげた。というか実際に、何かを思い出したようだ。
「お前はノワールが天使と何度も言っていたが、天使の語源って知ってるか?」
「天使の語源?」
何だろう。少し考える。リーゼントさんも僕と同じように頭を抱えていた。星の音が聞こえてきそうな夜だった。あたりは静かで、マウスが流しているのか、柔らかなジャズが心地いい。
「わからない、答えは?」
エデンさんが口を開くと同時に、違う音声が流れた。
「type answer question association consider!」
相変わらず意味のない英単語の羅列だ。だがどうしてかクセになっていて、消音モードにする気は起きなかった。エデンさんは笑った。
「スマートウォッチに免じて、答えは次の機会に言おう」
「何を免じたんだ」
「まあ、何か約束があった方が、次会うときの口実になるだろ」
さすがリーゼントさん、こういう発言が彼を恋愛マスターたらしめる。




