最終章:非売品の肖像
洗練されたギャラリーの空気は、ひんやりと澄んでいた。
私は震える手で杖を握り、数々の風景画を通り過ぎていく。どれも素晴らしい絵だったけれど、私の視線はある一点に吸い寄せられた。
そこには、今回の展示で最も大きな、けれどどこか孤独な一枚が置かれていた。
燃えるような紅葉。その赤の中に浮かび上がる、一人の少女の姿。
「……っ」
声にならない悲鳴が漏れた。
それは、四十年前の私。嵐山で、彼が最後に私の瞳に焼き付けたはずの、あの瞬間の私だった。
若さゆえの無垢な微笑み、少しだけ心細そうな眉の寄せ方。それは、描いた者だけが知っている、愛おしさの極みのような筆致で描かれていた。
絵の横にあるプレートには、ただ一言、こう記されていた。
――『非売品』。
膝の力が抜けた。
私は周囲の目も憚らず、その絵の前で泣き崩れた。
生きていた。死んだことにしていたのは、私の方だった。彼は生きて、この長い長い年月、私を想い続けていた。売ることもできず、他人に渡すこともできず、ただ暗闇の中で、私との記憶だけを鮮やかに塗り重ねて。
「お客様、大丈夫ですか?」
係員の声が遠くに聞こえる。私は嗚咽を抑えられず、ただ自分の肖像画に手を伸ばした。
「先生……肖像画の前で、ご婦人が泣き崩れておられます」
係員の言葉に、僕はアトリエを兼ねた控室から立ち上がった。
足の震えは、後遺症のせいか、それとも予感のせいか。
僕はゆっくりと会場へ向かった。そして、その絵の前にうずくまる、小さな背中を見た。
白髪が混じり、丸くなった背中。けれど、その震える肩のラインを、僕は一瞬で見分けることができた。
「……紬」
僕が絞り出すようにその名を呼ぶと、彼女はゆっくりと、本当にゆっくりと、こちらを振り向いた。
四十年という歳月が刻んだ皺の奥に、僕が描き続けたあの瞳があった。
「……蓮くん……なのね……?」
僕は一歩、また一歩と、重い足取りで彼女に近づいた。
二人の間に流れる空気が、一気に四十年前の、あの消毒液の匂いがする病室へと逆流していく。
「遅くなって、ごめん」
「嘘つき。……私の中で、あなたはもう……」
言いかけた彼女の言葉を、僕は抱擁で遮った。
彼女の体は、僕が覚えているよりもずっと小さく、けれどあの夜の蓮の部屋で抱きしめた時と同じ、懐かしくて切ない体温に満ちていた。
僕たちは、言葉にならない嗚咽を漏らしながら、お互いの存在を確かめ合った。 ギャラリーの窓からは、あの時と同じ、夕刻の琥珀色の光が差し込んでいる。
「蓮くん……その絵……どうして非売品なの?」
彼女が僕の胸に顔を埋めたまま、掠れた声で尋ねた。
僕は彼女の細くなった肩をより強く抱きしめ、耳元で囁いた。
「これだけは、他人の手に渡せなかったんだ。……この絵が売れる時は、僕の魂が消える時だから」
彼女は顔を上げ、涙に濡れた瞳で僕を見つめた。
そして、震える指先で、そっと僕の鼻の頭に触れた。
――『会いたかった』。
それは、二人しか知らない、世界で最も美しい暗号。
「私もよ。……私も、ずっと会いたかった」
四十年の時を経て、ようやく重なり合った二人の影。
壁に掛けられた肖像画の中の彼女は、再会を果たした二人の姿を、永遠に変わらぬ微笑みで見守っていた。
映画の幕が下りるように、会場の明かりがゆっくりと、温かな金色の光の中に溶けていった。
この作品はAI40%、筆者60%で書きました。
原案100%筆者。
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