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第七章:キャンバスに刻んだ歳月

 紬が去った後、僕に残されたのは「白」だけだった。

 無機質な病室の天井。そして、真っ白なキャンバス。


 奇跡、という言葉は好きではないけれど、僕の体で起きたことはそう呼ぶしかなかった。数年かけて神経はゆっくりと繋がり、僕は再び自分の足で地面を踏みしめることができた。けれど、そこに紬はいなかった。

 風の噂で聞いた「森下紬の結婚」。その知らせを聞いた夜、僕は喉の奥からせり上がる慟哭を、真っ黒な絵具で塗りつぶした。


 僕は描くことに没頭した。まるで自分を削り、絵具に変えるように。

 二科展で入選し、画廊に僕の絵が並び、絵で食べていけるようになった頃。

「蓮、もういいだろう。紬さんのことは忘れなさい」

 年老いた母に泣きつかれ、僕は根負けするように見合いをした。


 そこに座っていたのは、驚くほど紬に雰囲気が似た女性だった。

「……よろしくお願いします」

 彼女の笑顔を見たとき、僕は自分の心の傷に、分厚い「蓋」を閉めた。彼女を愛そう。紬を思い出さないことが、彼女への誠実さだと自分に言い聞かせながら。


 人生は、皮肉なほど穏やかに過ぎていった。  

 二人の子供を授かった。おしどり夫婦と呼ばれ、世間的には完璧な家庭だった。  けれど、子供たちが思春期を迎え、

「親父の描く絵なんて、何がいいのか分からない」

と反抗し、家の中が荒れたとき。僕はアトリエに籠もり、蓋をしたはずの過去の記憶と格闘した。

(紬……君なら、この子たちにどんな声をかけただろう)


 やがて子供たちは大学を卒業し、それぞれの伴侶を見つけた。

 披露宴で、眩しいライトを浴びて笑う息子たちの姿を見つめながら、僕は隣で涙ぐむ妻の手を握った。

「ありがとう、いい親になれたな」

 それは嘘ではなかった。この幸せは、僕が必死に築き上げた本物の「日常」だった。


 六十を半ば過ぎた頃。

 寄り添って生きてきた妻が、静かにこの世を去った。  

 風景画を描くために夫婦で旅した京都、伊勢、名古屋。その思い出が詰まったアトリエで、僕はまた一人になった。心の虚しさを埋めるように、周囲に勧められていた初の大規模な個展の準備に取り掛かった。


 整理していた古い棚の奥から、一冊のスケッチブックが出てきた。

 表紙をめくると、そこには、四十年間一度も開くことができなかった「青春」が眠っていた。  

 黄色く変色した紙の中に、もう顔も朧げになりかけていた紬の、あの優しい笑顔があった。

「……ああ、君だ」

 震える指先でそのデッサンをなぞった瞬間、閉じたはずの蓋が砕け散った。

 僕は、夢中で筆を握った。

 老いた僕の腕は、もう昔のような力強さはない。けれど、あの時の熱量、あの時の光、あの時の彼女の吐息を、すべて注ぎ込むようにして大きなキャンバスを埋めていった。


 個展の当日。

 会場には、僕の人生の集大成とも言える作品が並んだ。

 中でも、ひときわ異彩を放つ一枚の肖像画があった。それは、満開の紅葉を背景に、はにかむように微笑む若い女性。


 コレクターたちが集まり、その絵には今回の最高額が付いた。

「先生、この肖像画をぜひ譲っていただきたい」

 画商の言葉に、僕は静かに首を振った。


「いいえ。……それだけは、非売品です」


 この絵は、僕が彼女に捧げた、四十年前の約束。

 売ることなどできない。これは僕の魂そのものなのだから。


 その時。

 会場の入り口で、一人の老婦人が立ち止まったのが見えた。

 杖を突き、震える足取りで、彼女はその「非売品」の絵の前へと歩んでいく。



この作品はAI40%、筆者60%で書きました。

原案100%筆者。

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