第六章:琥珀色の光、そして家族の肖像
外科病棟へ異動して数ヶ月が経った頃、ナースステーションに一通の手紙が届きました。差出人は「源」――あの三〇五号室の主でした。
『嬢ちゃん、元気か。一ノ瀬の野郎は、あんたが去った後、一日中壁に向かって絵を描き続けてたよ。何も言わねえが、あいつの背中が「行け」って叫んでるのが分かった。俺も退院だ。達者でな』
インクが少し滲んだその文字が、私に届いた彼という存在の最後の確かな感触でした。
やがて、実家の両親から縁談が届きました。相手は、真面目だけが取り柄のような、市役所勤めの男性。
「……いいわ。お受けします」
鏡の前で、私は自分の心に冷たい鍵をかけました。結婚式の日、真っ白な白無垢を着た私を見て、父は「綺麗だ」と涙を流してくれましたが、私の頭の中にあったのは、一度だけ彼と交わした「死後の再会」の約束だけでした。この世ではもう二度と会えない。そう自分に言い聞かせることで、私は別の人生を歩む許しを得たのです。
歳月は、残酷なほどに滑らかに流れていきました。
二人の子供を授かりました。長男の翼と、長女の結衣。名前をつける時、無意識に蓮くんの妹さんの名前を選んでしまった自分に、夜ひとりで苦笑しました。
育児は嵐のようでした。思春期を迎えた翼が「クソババア」とドアを叩きつけ、結衣が「お母さんには私の気持ちなんて分からない」と泣き喚いた夜。私は台所でひとり、あの黄色くなった色紙をそっと取り出し、暗闇で見つめることがありました。
この子が反抗できるのは、健康な体があるから。
生きているから、怒れる。生きているから、ぶつかれる。
「……生きて、翼。生きて、結衣」
私は彼らを抱きしめる代わりに、夕食のハンバーグを丁寧にこね、彼らの健康な血肉を作ることに、残りの人生のすべてを捧げました。夫は寡黙な人でしたが、私のそんな必死な背中を、いつも静かに見守ってくれていました。
(視点:紬)
そして、人生の絶頂期とも呼べる、眩い春がやってきました。
長男・翼の結婚式。場所は、かつての私たちが歩いたかもしれない、名古屋の並木道を望むゲストハウス。
タキシード姿で凛々しく立つ翼と、真っ白なドレスに身を包んだ花嫁。その姿を見守る夫は、隣で何度もハンカチで目を拭っています。私は、夫のゴツゴツとした、けれど温かな手を握り締めました。
「お父さん、私たちは、間違ってなかったわね」
「ああ、紬。お前のおかげだよ。いい家族になった」
式場の窓から差し込む春の陽光が、シャンパングラスに反射して虹色の粒を散らしています。この幸せは本物だ。彼を愛した過去があったから、私はこの命の尊さを知り、この家族をここまで愛せたのだと、確信した瞬間でした。
しかし、神様は時に皮肉な筋書きを用意します。
夫との穏やかな老後を夢見ていた矢先、彼は静かに息を引き取りました。
葬儀を終え、がらんとした家で独りになった私は、憔悴しきった体で遺品整理を始めました。埃を被った段ボールの底から、あの古びて黄ばんだ似顔絵を見つけたとき、私の時が止まりました。
私はその絵を居間の壁に貼り、それだけを心の拠り所にして、空洞になった胸を埋めようとしました。
友人に勧められ、気を紛らわせるために文化センターへ通い、水彩画や手芸などいくつもの手習いを始めましたが、どれも長続きはしませんでした。筆を持てば彼の指先を思い出し、糸を紡げばあの病室のカーテンを思い出してしまう。
月日は、静かに、けれど重たく過ぎていきました。
ある日の午後。文化センターの掲示板の前で、私は立ち尽くしました。
色褪せたチラシの束の中に、一枚だけ、鮮烈な「赤」を放つ案内がありました。
『一ノ瀬 蓮 個展 ― 記憶の肖像 ―』
その名前を目にした瞬間、私の視界は激しく揺れ、六十を過ぎた胸の奥で、数十年も前の青春が熱い火を吹き上げました。
「……蓮くん? まさか、生きて……?」
悲しみと驚き、そして一縷の希望が、私の枯れかけた体に再び血を巡らせていくのを、私は映画のエンディングを待つ観客のように、震えながら感じていたのです。
この作品はAI40%、筆者60%で書きました。
原案100%筆者。
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