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第五章:朱の記憶、白の別離

 名古屋での外泊から戻った後、私たちの「日常」は、より深く、より危うい場所へと潜り込んでいった。


 深夜、他の患者が眠りについた三〇五号室。私は検温を口実に、彼のカーテンの中へ忍び込む。

 蓮くんは、もう自分で寝返りを打つことも難しい。私は手袋を脱ぎ、素肌で彼の強張った筋肉を解していく。マッサージという名目の、誰にも見せられない愛の確認。


「……紬、指先が少し、温かいね」

「蓮くんの体が冷えてるからだよ」


 私たちは暗闇の中で、視線だけで何度も口づけを交わした。彼の指先が、私の手のひらに「ア・イ・シ・テ・ル」と、目に見えない文字をなぞる。それが、消灯後の病棟で許された唯一の贅沢だった。


 そして十一月。私たちは再び福祉タクシーを雇い、京都へと向かった。

 道中、鈴鹿峠を越えるあたりで、街道沿いの小さなレストランに寄った。


「失礼します、お手伝いしますね」

 私は、周囲の客に「献身的な看護師」だと思われるよう、事務的な表情で彼の口元にリゾットを運ぶ。

 けれど、スプーンを差し出す瞬間の私の瞳は、間違いなく恋人のそれだった。



 蓮くんは、震える口元を一生懸命に動かして、私の差し出した一口を飲み込む。

「……美味しい。紬が食べさせてくれると、全部特別な味がする」

 彼はそう言って、小さく笑った。その笑顔の端に、進行する病がもたらす「痺れ」の影が見えて、私は胸の奥をぎゅっと掴まれた。


 車内に戻ると、彼は私の肩に頭を預けた。

「このまま、どこか遠い、病気のない場所へ行けたらいいのに」

 国道一号線、窓の外を流れる景色が、夕暮れに染まって琥珀色に輝いていた。




 京都、嵐山の夜。

 旅館「彩葉いろは」の最上階。窓の外には、ライトアップされた紅葉が血のような赤で浮かび上がっている。


 紬が、僕を浴室へ運んでくれた。

 檜の香りが立ち込める中、彼女は服を着たまま、僕の裸の体を支え、湯船に浸からせてくれる。

「熱くない?」

「ちょうどいい。……ごめんね、紬。こんなことまで」

「……嬉しいの。こうして、蓮くんの全部を独り占めできるのが」


 湯気の中で、彼女の瞳が潤んでいるのが見えた。

 僕の体は、もう自分の重さを支えきれず、彼女の腕の中でふわりと浮いている。

 それが、僕たちが共有できる最後の「自由」であるかのように思えた。


 翌朝、渡月橋を望むテラスで、朝食を摂った。

 紬が僕の口にスープを運んでくれる。その優しい手の温もりを感じながら、僕は決意していた。    津市の病院に戻るタクシーの中で、僕は彼女の手を握り、静かに告げた。


「……紬。僕たちの関係は、ここで終わりにしよう」


 紬の表情が、凍りついた。

「……何、言ってるの? 冗談はやめてよ」

「冗談じゃない。……君は、僕という『症例』に縛られすぎている。君には、もっと広い世界を見て、健康な誰かと笑っていてほしいんだ」

「私は、蓮くんがいいの! どんな体になっても、私が翼になるって言ったじゃない!」


 僕は彼女の叫びを、心を殺して聞き流した。

 これが、僕にできる最後の「愛」の形だった。


(視点:紬)


 病院に戻った私を待っていたのは、残酷な辞令だった。

「森下さん、君と一ノ瀬さんの関係について、少し噂が出ていてね。明日から君を外科病棟へ異動させることにした」


 師長からの言葉は、決定事項だった。

 蓮くんの拒絶と、病院側の隔離。私たちの細い糸は、一度にぷつりと断ち切られた。


 異動する日の朝。私は最後にもう一度だけ、三〇五号室のドアを叩こうとした。

 けれど、カーテンは固く閉ざされ、中からは源さんの溜息だけが聞こえてきた。


 異動する日の朝。私は最後にもう一度だけ、三〇五号室のドアを叩こうとした。

 けれど、カーテンは固く閉ざされ、中からは源さんの溜息だけが聞こえてきた。


「……森下さん。一ノ瀬の野郎、泣いてたぜ。あんたを自由にするために、一生分の勇気を使ったんだ。……今は、行ってやりな」


 私は、廊下の冷たい手すりにしがみつき、声を殺して泣いた。

 十一月の京都で見た、あの燃えるような赤が、今では私の心を引き裂く色にしか見えなかった。


 私はナースステーションに戻り、新しい名札を胸に付けた。

 けれど、私の指先にはまだ、ストローで水を飲ませた時の、あの重なるような吐息の熱が、消えずに残っていた。



この作品はAI40%、筆者60%で書きました。

原案100%筆者。

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