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第四章:国道二十三号線の陽光(ひかり)


 ナースステーションのカウンターに置かれた一枚の紙。

「外泊許可願」。

 そこには、担当医の判と、僕の名前が記されていた。三重県津市、伊勢湾を望むこの病院の白い壁から、ようやく僕は解放される。


 福祉タクシーの重いスライドドアが開く。

 車椅子のままリフトで車内へ運び込まれる僕を、源さんが窓から見送っていた。 「おい、一ノ瀬! 名古屋の空気吸って、シャキッとしてこいよ!」

 源さんの野太い声が、病院のロータリーに響く。僕は恥ずかしくなりながらも、小さく手を挙げた。


 タクシーは病院を離れ、近鉄道路を抜けて国道二十三号線へと入った。

 約束の場所は、津駅近くのロータリー。

 そこに、私服姿の紬が立っていた。いつもの白いユニフォームではなく、淡いサックスブルーのワンピースに、白いカーディガン。その姿を見た瞬間、僕の止まっていた時間が、音を立てて動き出した。


「お待たせ、蓮くん」

 車内に乗り込んできた彼女から、夏の風の匂いがした。





 タクシーが北へ向けて走り出す。

 左手に鈴鹿山脈の稜線を眺めながら、車内は二人だけの穏やかな静寂に包まれていた。

「少し、喉が渇かない?」

 私は、ロードサイドのコンビニに寄ってもらうよう運転手さんに頼んだ。


 冷えたお茶のペットボトルを買い、車内に戻る。

 蓮くんは、わずかに首を動かすのが精一杯で、自分ではボトルのキャップを開けることさえ難しい。

「はい、どうぞ」

 私は彼のために用意していたストローを差し込んだ。


 蓮くんがストローをくわえる。

 ゴクリ、と喉が鳴る音が、やけに鮮明に聞こえた。

 私は彼が飲みやすいように、ペットボトルの角度を慎重に調整する。私たちの顔の距離は、わずか数センチ。彼が息を吐くたび、私の頬にその熱い吐息がかかった。


「……ありがとう。美味しい」

 蓮くんが少し照れくさそうに笑う。

 ただ飲み物を飲む。そんな当たり前のことが、この車内では、まるで儀式のように尊く、そして切なかった。


 福祉タクシーは四日市を抜け、木曽三川を渡る。

 橋の上から見える伊勢湾は、夏の陽光を跳ね返して、銀色の鱗のように輝いていた。

「見て、蓮くん。あそこが、名古屋だよね」

 私の指差す先、遠くに名古屋駅のツインタワーが霞んで見えた。

 彼にとっては、二年ぶりの帰郷だ。


 名古屋市内に入ると、懐かしい街並みが目に入ってきた。

 広小路通りを抜け、次第に緑が深くなっていく。

 やがて、実家の門が見えた。庭の片隅には、あの夏と同じ、燃えるような朱色の百日紅さるすべりが咲き誇っていた。


「――お帰り、蓮」

 玄関先に立っていたのは、父、母、そして妹の結衣だった。

 父――父親が、少し固い表情で僕を見つめている。彼が駆け寄り、福祉タクシーのステップに手をかけた。


「よく帰ってきたな。……森下さんも、この子が無理を言ったんじゃないですか?」

 父の不器用な労いの言葉に、紬が隣で微笑んだ。

「いいえ。私が蓮くんに、名古屋の夏を見せと頼んだんです」


 家の中へ運び込まれる際、一瞬だけ、実家の畳の匂いが鼻をくすぐった。

 病棟の消毒液の匂いではない、生きた人間が暮らす家の匂いだ。

 僕は紬の手を、誰にも見えないように一瞬だけ強く握った。


 僕の病は、間違いなく進んでいる。

 車椅子を降りた後の僕の足は、もう自分の重さを支えられないほどに弱っていた。

 けれど、今夜だけは。

 今夜だけは、病気という影を、部屋の隅に追いやってしまいたかった。



 一階の客間に用意された布団の中で、私は暗闇を見つめていた。

 使い込まれた畳の匂いと、廊下の突き当たりにある柱時計の重い鼓動。お父様たちの寝室からは、時折小さな寝息が聞こえてくる。


 けれど、私の意識は薄い天井を突き抜け、その真上にある「彼の部屋」に釘付けになっていた。


 彼は今、何を思っているだろう。二年ぶりに帰った自分の部屋で、動かない体を持て余し、孤独な夜の深淵に沈んでいないだろうか。


 一度そう思うと、もう止まれなかった。私は音を殺して布団を抜け出すと、忍び足で古い階段を上った。一段踏みしめるたびに、木が「ギィ……」と微かな悲鳴を上げる。心臓の音がそれ以上に大きく響き、私は闇の中で何度も息を止めた。


 二階の突き当たり。蓮くんの部屋のドアを、私は指先だけで押し開けた。




 窓際から差し込む青白い月光が、部屋に影の彫刻を作っていた。

 かつて僕が使い、今は時が止まったままのイーゼルが、骸骨のように部屋の隅に立っている。


 ――カチリ。


 ドアが開くかすかな音に、僕は目を向けた。

 そこに、淡い月光を背負った紬が立っていた。白いネグリジェが夜風に揺れ、彼女の輪郭を現実のものとは思えないほど美しく、そして儚く縁取っている。


「……紬?」 「静かに。お父さまたちが起きちゃう」


 彼女は唇に指を当て、悪戯っぽく、けれど泣き出しそうな瞳で微笑んだ。

 彼女がベッドの端に腰を下ろした瞬間、沈み込んだマットレスが僕の体を彼女の方へと傾かせる。その微かな重力の変化だけで、僕の心臓は破裂しそうだった。


「蓮くん、眠れないんでしょ」

「……ああ。君のいない静寂が、病院よりずっと冷たくて」


 紬の手が、僕の頬に触れた。ひんやりとした彼女の指先が、僕の熱い肌に触れる。

 彼女はためらうことなく、僕の窮屈な布団の中へと滑り込んできた。



 重なり合った瞬間、二人の境界線が消えた。

 彼の胸の鼓動が、ダイレクトに私の掌に伝わる。激しく、速く、彼が「生きている」ことを叫んでいる鼓動。


「紬……ごめん。僕の腕は、君を抱きしめてやることもできない」


 蓮くんが自嘲気味に、掠れた声で呟く。

 私は首を振り、彼の首筋に顔を埋めた。石鹸の匂いの中に、彼自身の温かな匂いが混じり合う。


「いいの。私が、蓮くんを包むから」


 私は自分の腕を彼の背中に回し、全身の体温を彼に預けた。私の脚が、彼の感覚を失いかけた脚を挟み込み、熱を分け与える。  

 それは、性の営みを超えた、魂の「補完」だった。

 彼が失いつつある自由を、私の体が肩代わりする。

 私が注ぐ愛が、彼の麻痺した神経を一時的にでも繋ぎ合わせる。


「……あ」


 蓮くんの動かないはずの指先が、私の背中でわずかに、本当にわずかにピクリと動いた。

 それは言葉にならない、彼からの狂おしい返信だった。


 私たちは月明かりの中で、溺れる者が互いに縋り付くようにして、何度も唇を重ねた。

 重なり合う熱い吐息だけが、静まり返った一軒家に響く。  

 窓の外では、夜の国道二十三号線を走る長距離トラックの音が、遠い波音のように聞こえていた。

 明日になれば、私はまた「看護師」に戻り、彼は「患者」に戻る。

 けれど、この暗闇の中でだけは、私たちはただの「男」と「女」だった。

 私は彼を抱きしめたまま、強く目を閉じた。

 この夜の熱量を、網膜に、肌に、永遠に焼き付けるために。

 たとえこの先、どんな残酷な別れが待っていたとしても、この夜の「愛」だけは、誰にも奪えない「非売品」の真実なのだから。






この作品はAI40%、筆者60%で書きました。

原案100%筆者。

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