第三章:白い翼と、再会の暗号
月曜日の朝、病棟は「白い嵐」に支配される。
教授回診。十数人の医師たちが、軍隊のような足音を響かせて廊下を進んでくる。その先頭で、権威の象徴である白いコートが翻った。
三〇五号室のカーテンが、無慈悲に引き開けられる。
「一ノ瀬蓮、二十二歳。慢性炎症性脱髄性多発ニューロパチー(CIDP)疑い。……握力、さらに低下。下肢の腱反射は消失しています」
若い医師が淡々と読み上げる僕の絶望は、ただの数値として空気に溶けていく。教授が僕の足先をハンマーで叩くが、僕にはそれが自分の一部であることさえ実感できない。感覚は麻痺し、ただ冷たい大理石の上に横たわっているような錯覚に陥る。
ふと、医師たちの列の最後尾に目が止まった。
そこには、真っ白な新しいユニフォームに身を包み、バインダーを胸に抱きしめる彼女の姿があった。 紬。
彼女は、教授の話をメモしながらも、一度だけ視線を上げた。その瞳は、カルテの数値ではなく、僕の瞳の奥にある「痛み」を探しているようだった。僕は咄嗟に視線を外した。痩せ細り、筋肉が削げ落ちたこの無様な姿を、今日この日から「プロ」として働く彼女に見られたくなかった。
嵐が去り、病室に再び重苦しい沈黙が戻る。
「……ったく、朝っぱらから、葬式みたいな顔して並びやがって」
向かいのベッドの源さんが、ガラリとカーテンを開けた。源さんは、不自由な左足を引きずりながら、僕のサイドテーブルに小さな飴玉を一つ置いた。
「おい、一ノ瀬。あの新人看護師の嬢ちゃん……あんたを見る目が、他の奴らとは違うぜ。ありゃあ、病気じゃなくて、あんた自身を診てる目だ」
「……源さん、やめてください。僕はもう、自分を支えることさえできない男なんだ」
「馬鹿言え。支えが必要だから、人は二人で歩くんだよ」
源さんの言葉が、西日の差し込む病室に静かに響いた。
ナースステーションの鏡の前で、私は自分の髪と制服を整えた。
今日から、私は「森下紬」という一人の看護師だ。実習生という守られた立場ではない。彼の命を、彼の生活を預かる責任がある。
「森下さん、一ノ瀬さんの担当、お願いね」
プリセプターの先輩に言われ、私の心臓は早鐘を打った。配属初日、私が一番に会いたかった場所。けれど、一番怖かった場所。
私は深呼吸をし、重い引き戸を開けた。
三〇五号室。窓際から差し込む光が、埃をキラキラと反射させている。その光の中に、車椅子に座った彼がいた。
「失礼します。……本日より配属になりました、看護師の森下紬です」
一ノ瀬くんが、ゆっくりと顔を上げた。
その瞬間、時間が止まったような気がした。
彼は驚きで目を見開いた後、すぐに情けないほどに顔を歪めた。嬉しいのか、悲しいのか、それとも自分の姿を恥じているのか。
四人部屋には、他の患者たちの視線がある。
私は、先輩看護師の背中に隠れるようにして、彼にだけ見える位置で左手を挙げた。
人差し指を一本。 ――『大丈夫』。
それは、実習生の時に二人で編み出した最初の暗号。
一ノ瀬くんの喉が、大きく上下に動いた。彼は震える左手を持ち上げ、ゆっくりと自分の鼻の頭を触った。
――『会いたかった』。
新しい暗号。彼が病室で一人、私のいない冬を越えながら、いつか再会する日のために考えてくれていた合図。
窓の外では、春の風が桜の花びらを巻き上げている。
「……よろしく、お願いします。森下看護師」
彼の掠れた声が、私の胸に深く突き刺さる。
それは、地獄のような闘病生活の中で、私たちが手にした唯一の武器だった。
看護師と患者。その禁じられた境界線の上で、私たちは再び、激しく惹かれ合っていく。
源さんが、それを見て見ぬふりで鼻歌を歌い始めた。
病室という名の密室で、私たちだけの二幕目が、今、幕を開けた。
この作品はAI40%、筆者60%で書きました。
原案100%筆者。
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