表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/9

第二章:三〇五号室の暗号


 三〇五号室は、人生の縮図のような場所だった。

 向かいのベッドには、糖尿病で足が不自由な元大工の源さん。斜め向かいには、軽度の認知症を患いながらも、夜な夜な亡き妻を呼ぶ佐々木さん。そして、僕。


 その日、僕の体は明らかな「後退」を告げていた。

「……あれ」

 朝食のトレーに乗ったプラスチックの箸が、指の間を滑り落ちた。拾おうとしても、指に力が入らない。脳からの命令が、霧の中の断線した電線のように、手先に届かないのだ。


「あーあ、一ノ瀬さん。また落としたんかい。若いくせにしっかりしなよ」

 源さんがカーテンの隙間から茶化すように笑う。悪気はないのだろうが、その言葉が鋭利な刃物のように胸を刺した。


「失礼します、一ノ瀬さん。お手伝いしますね」

 聞き慣れた声と共に、紬が滑り込んできた。彼女は落ちた箸を拾い上げ、僕の強張った指先をそっと包み込むようにして、スプーンに持ち替えさせた。


「……情けないな。昨日は使えたのに」

 僕が自嘲気味に呟くと、彼女は僕の視線を遮るように、わざと大きな音を立ててバインダーをサイドテーブルに置いた。



「リハビリの先生が言ってました。神経の回復は、三歩進んで二歩下がるものだって。今日は『下がる日』なだけです」

 彼女は周囲に聞こえないほどの小声で言い、僕の左手にそっと自分の指を添えた。

「声に出すと、みんなに聞かれちゃうから。……これ、覚えられますか?」


 彼女は僕の視界の端で、誰にも見えない角度で、指を一本立て、ゆっくりと折り曲げた。


「一本は『大丈夫』。二本は『ちょっと辛い』。グーにしたら『助けて』」

 彼女が実習中に編み出した、僕たちだけのハンドサインだった。

 看護学生と患者。その境界線を超えないための、けれど繋がっているための、細い糸のような暗号。



 神経内科病棟は、言葉にならない「痛み」が溢れている。

 蓮くんの病状――慢性炎症性脱髄性多発ニューロパチーは、容赦なく彼の筋肉を眠らせていく。昨日までできていたことが今日できなくなる絶望を、二十二歳の彼がどれほどの思いで受け止めているのか、考えるだけで胸が締め付けられた。


 四人部屋の主である源さんは、意外と鋭い。

「森下さん、あんた一ノ瀬さんの時だけ、検温の時間が長くないか?」

 昼下がりの清拭中、源さんにニヤリと笑われ、私は心臓が跳ね上がるのを感じた。


「……そうですか? 一ノ瀬さんは進行が早いですから、慎重に診ているんです」

 必死でプロの顔を装いながら、私は蓮くんのカーテンの隙間を少しだけ広げた。  これが、私からの「大丈夫、バレてないよ」の合図。


 蓮くんは、私の意図を汲み取ったように、わずかに動く左手の親指を立てた。一本。――『大丈夫』。


私たちは、看護記録に書けない言葉を、日常の動作に忍ばせていった。


カーテンを十五センチだけ開ける: 「今日、少しだけ話せる?」


私がナースコールを拭くとき、三回叩く: 「愛してる」


彼がわざと咳を二回する: 「こっちに来て」


 ある昼間、ナースステーションでの記録を終えた私は、三〇五号室に向かった。  佐々木さんの寝息が響く中、蓮くんのベッドに近づくと、彼は天井を見つめて目を開けていた。


「……紬」 「シーッ、源さんが起きちゃう」


 私は彼のベッドの柵越しに、自分の手を差し出した。

 彼は不自由な手で、私の小指に自分の小指を絡めた。力の入らない、けれど温かな拒絶できない重み。


「手が、冷たいね」

 彼が掠れた声で言う。

「ずっと記録を書いてたから。……ねえ、蓮くん。私、必ず国家試験に受かるから。そうしたら、今度は本当の看護師として、あなたのそばにいる」


「手が、冷たいね」

 彼が掠れた声で言う。

「ずっと記録を書いてたから。……ねえ、蓮くん。私、必ず国家試験に受かるから。そうしたら、今度は本当の看護師として、あなたのそばにいる」


 蓮くんは何も言わず、ただ私の小指を、壊れやすいガラス細工を扱うように、残った力で優しく握り返した。

 その時、彼の瞳から一筋の涙がこぼれ、枕に吸い込まれていくのを私は見た。  それは、回復への希望なのか、それとも、これから来る嵐のような別れへの予感だったのか。


四人部屋の沈黙の中で、私たちの暗号だけが、静かに熱を帯びていた。



この作品はAI40%、筆者60%で書きました。

原案100%筆者。

指摘や感想とか頂ければ励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ