第二章:三〇五号室の暗号
三〇五号室は、人生の縮図のような場所だった。
向かいのベッドには、糖尿病で足が不自由な元大工の源さん。斜め向かいには、軽度の認知症を患いながらも、夜な夜な亡き妻を呼ぶ佐々木さん。そして、僕。
その日、僕の体は明らかな「後退」を告げていた。
「……あれ」
朝食のトレーに乗ったプラスチックの箸が、指の間を滑り落ちた。拾おうとしても、指に力が入らない。脳からの命令が、霧の中の断線した電線のように、手先に届かないのだ。
「あーあ、一ノ瀬さん。また落としたんかい。若いくせにしっかりしなよ」
源さんがカーテンの隙間から茶化すように笑う。悪気はないのだろうが、その言葉が鋭利な刃物のように胸を刺した。
「失礼します、一ノ瀬さん。お手伝いしますね」
聞き慣れた声と共に、紬が滑り込んできた。彼女は落ちた箸を拾い上げ、僕の強張った指先をそっと包み込むようにして、スプーンに持ち替えさせた。
「……情けないな。昨日は使えたのに」
僕が自嘲気味に呟くと、彼女は僕の視線を遮るように、わざと大きな音を立ててバインダーをサイドテーブルに置いた。
「リハビリの先生が言ってました。神経の回復は、三歩進んで二歩下がるものだって。今日は『下がる日』なだけです」
彼女は周囲に聞こえないほどの小声で言い、僕の左手にそっと自分の指を添えた。
「声に出すと、みんなに聞かれちゃうから。……これ、覚えられますか?」
彼女は僕の視界の端で、誰にも見えない角度で、指を一本立て、ゆっくりと折り曲げた。
「一本は『大丈夫』。二本は『ちょっと辛い』。グーにしたら『助けて』」
彼女が実習中に編み出した、僕たちだけのハンドサインだった。
看護学生と患者。その境界線を超えないための、けれど繋がっているための、細い糸のような暗号。
神経内科病棟は、言葉にならない「痛み」が溢れている。
蓮くんの病状――慢性炎症性脱髄性多発ニューロパチーは、容赦なく彼の筋肉を眠らせていく。昨日までできていたことが今日できなくなる絶望を、二十二歳の彼がどれほどの思いで受け止めているのか、考えるだけで胸が締め付けられた。
四人部屋の主である源さんは、意外と鋭い。
「森下さん、あんた一ノ瀬さんの時だけ、検温の時間が長くないか?」
昼下がりの清拭中、源さんにニヤリと笑われ、私は心臓が跳ね上がるのを感じた。
「……そうですか? 一ノ瀬さんは進行が早いですから、慎重に診ているんです」
必死でプロの顔を装いながら、私は蓮くんのカーテンの隙間を少しだけ広げた。 これが、私からの「大丈夫、バレてないよ」の合図。
蓮くんは、私の意図を汲み取ったように、わずかに動く左手の親指を立てた。一本。――『大丈夫』。
私たちは、看護記録に書けない言葉を、日常の動作に忍ばせていった。
カーテンを十五センチだけ開ける: 「今日、少しだけ話せる?」
私がナースコールを拭くとき、三回叩く: 「愛してる」
彼がわざと咳を二回する: 「こっちに来て」
ある昼間、ナースステーションでの記録を終えた私は、三〇五号室に向かった。 佐々木さんの寝息が響く中、蓮くんのベッドに近づくと、彼は天井を見つめて目を開けていた。
「……紬」 「シーッ、源さんが起きちゃう」
私は彼のベッドの柵越しに、自分の手を差し出した。
彼は不自由な手で、私の小指に自分の小指を絡めた。力の入らない、けれど温かな拒絶できない重み。
「手が、冷たいね」
彼が掠れた声で言う。
「ずっと記録を書いてたから。……ねえ、蓮くん。私、必ず国家試験に受かるから。そうしたら、今度は本当の看護師として、あなたのそばにいる」
「手が、冷たいね」
彼が掠れた声で言う。
「ずっと記録を書いてたから。……ねえ、蓮くん。私、必ず国家試験に受かるから。そうしたら、今度は本当の看護師として、あなたのそばにいる」
蓮くんは何も言わず、ただ私の小指を、壊れやすいガラス細工を扱うように、残った力で優しく握り返した。
その時、彼の瞳から一筋の涙がこぼれ、枕に吸い込まれていくのを私は見た。 それは、回復への希望なのか、それとも、これから来る嵐のような別れへの予感だったのか。
四人部屋の沈黙の中で、私たちの暗号だけが、静かに熱を帯びていた。
この作品はAI40%、筆者60%で書きました。
原案100%筆者。
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