哲学って誰のもの?
私にとって、哲学はとても難しい。
そう思っていた。……いや、今もたぶん、そう思っている。
本屋に並ぶ分厚い哲学書。
「〜であるがゆえに〜である」みたいな、ちょっと気取った言い回し。
難しい言葉で語られる思想たちは、まるで自分には関係のない世界のように感じられた。
でも最近、少しだけ思うようになった。
もしかしたら哲学って、もっと自由で、
もっと身近で、もっと楽しいものなんじゃないかって。
正確に言えば、「学問としての哲学」は、今も私にとっては難しい。
けれど、「考える」という行為そのものは、誰にでもできる——
そんな思考の遊びなんじゃないかと思っている。
たとえば、デカルトの有名な言葉。
「我思う、ゆえに我あり。」
検索してみると、こんなふうに解釈されている。
「“自分はなぜここにあるのか”と考えること自体が、自分が存在している証明である。」
なるほど。すごく深い言葉だ。
でも、私にとって大事なのは、この言葉の“正しい解釈”を学ぶことじゃなくて、
そこから生まれる**「なぜ?」の気持ち**なんだと思う。
——なぜ、自分は存在しているんだろう?
——どうして、“考える”ことが、自分を自分たらしめるんだろう?
そうやって、たったひとつの言葉から、
いろんな方向に思考を巡らせてみる。
もしもこうだったら? こっちの面から見たら?
それは、まるで光の角度によって表情を変えるガラス玉のようで、
私はそんなふうにいろいろな角度から物事を見るようになって、
「考える時間」が、少しずつ楽しくなってきた。
答えが賢くなくてもいい。
“正解”じゃなくてもいい。
ただ、ひとつの問いについて、自分なりに向き合ってみること。
当たり前っぽいけど、実は誰も答えを知らないことを、じっと見つめて、
自分なりに言葉にしてみること。
そのこと自体が、“哲学”と呼べる「なにか」なんじゃないかと思う。