悪魔 〜side 茅〜
昨日まで空の色も見えないくらい絶え間なく落ち続けていた雪も今は止んで、まるで何もなかったみたいにけろっとしてる。
春にしては寒くって、ほんのちょっとの移動も長く感じたのに、その瞬間はほんの一瞬だった。
「あ、の、」
激励なのか説教なのかわからない説明会が終わり今日はもう帰ろうかと考えていたところに、そう控え目に声をかけられて茅は振り返った。
「落とした、よ?」
「え?」
差し出されたのは見慣れた手袋だ。
茅は手袋を入れていた筈のポケットにそれがないことに気付く。
「あ、悪いおれのだ」
手袋から拾ってくれた人に視線を上げながらありがとうと言いかけて、茅は手袋を拾ってくれた女の子から目が離せなくなった。
ーーー天使がいる!
男にしては背が低い茅よりだいぶ小さくて、ふんわりしたショートボブの、年相応に見えない女の子。
10人に聞いたら10人が可愛いと言うだろう。
くりくりした瞳と目が合うと怯えたように逸らされて、茅が手袋を受け取るとパタパタと逃げるように友達のところに戻っていった。
「…なにあの子…」
動悸が止まらなかった。
一目惚れなんて信じていなかったのに…
◇◆◇
天使のような彼女の名前は奈緒というらしい。山本奈緒。
出席番号は矢島茅の後ろ。
出席番号が前後だろうと、大学生ともなるとあまり関係ないのだが。
茅は入学してすぐにできた友達と講義室の真ん中より少し後ろの方に陣取り、退屈な授業中なんかは教室の前の方に座る奈緒を斜め後ろから横顔を眺めて時間を潰している。
真剣に先生の話を聞いている姿とか、眠くなっても必死でノートをとっている姿とか、背が小さくて黒板の下の方が見えづらくて必死に伸びて見ようとしている姿とか。
ストーカーかと自分に突っ込みを入れつつ何とか接点を持てないものかと。
「おはよう、奈緒ちゃん」
「あ、お、おはよう…」
逃げないようにそっと近づいて、挨拶から始めて、少し話せるようになって。
それだけで舞い上がるほど嬉しいなんて。
「矢島くん」
名前を呼んで、顔を綻ばせてくれるだけで心臓が掴まれる思いなのに。
なのに。
「ずっと友達でいてほしいな」
そう笑う彼女はその言葉が如何に残酷か知らない。
あくまで友達でいてねという牽制なのか、単に鈍感なのか。後者であることを切に願いながら。
つまるところ、男と認識はされていても、男として意識はされていないのだ。
そうしなければ近付けないと思ったのは的外れではない筈だが、今からそれをどうやったら払拭できるのかがわからない。
そうやってゆっくり距離を詰めていたのに、雅美の弟は、いとも簡単にそれを乗り越える。
これ見よがしに奈緒の手を握り、チラリと茅の方を見て勝ち誇ったように口角を上げて見せた。
奈緒はアイツにはそんな簡単に、笑顔を見せるのか。触れさせるのか。
ーーーああもう、なんだよ。
前に好きな人はいないと言っていたが、奈緒本人が気付いていなかっただけ、とか。
「…キッツい…」
休み時間、奈緒の横顔をぼんやり見つめながら、ポロリとこぼれた。
「何が」
隣にいる和也は、どうでもよさそうに一応訊いて、あくびをしている。
「恋」
初めは見てるだけでよかったのに。
挨拶を返してくれるだけで嬉しかったのに。
こっちを見てくれるだけで幸せだったのに。
好きなものを知れるだけで、名前を呼んでくれるだけで、笑ってくれるだけで、そうやって。
どんどん欲張りになる。
その手に触れたい。抱きしめたい。好きだと言って欲しい。
その感情の終わらせ方も、わからない。
「じゃあ新しい恋したら?」
「そんなん…」
「紺野ちゃんとかー?」
「はぁ?なんで紺野」
紺野。紺野めぐみ。紺野といえば、サークルの後輩で、運動神経よくノリもよく、可愛いと話題に上がることも多い。
言われてみれば、茅の隣によくーーー、
「…んぇ!?」
「なおなおに負けず劣らず、茅も鈍感だねぇ」
クククと笑う和也に、茅は言葉が出てこない。
「そんなキツいなら、逃げるのもアリじゃない?」
和也は悪魔の如く囁いた。