0−2 津波に乗るは赤鯨
同日。0830。太平洋日本海沖。護衛艦「あさひ」艦橋。
幸か不幸か、津波到達が予想されるこの時、砲雷長は艦内哨戒部署により艦橋立直をしていた。
「津波、更に迫って来た。20」
無電池電話の送話器片手に、艦橋伝令が言った。
「第3戦速。舵その儘。宜候」
砲雷長は汗を滲ませた手で双眼鏡を握りながら、航海指揮官たる船務長の操艦を聞いていた。操舵員、速力装置員も、普段より表情に力が籠もっている。
「もう直ぐ波に乗るぞ! 喫煙、上甲板への立入りを禁止。総員衝撃に備え」
艦長が、直接下命した。本来言うべき人物はというと、津波を双眼鏡で確認し白を切っていた。
航海科員はマイクを手にして、内容をもう一人と共に纏めて遂にスイッチを入れた。
「間も無く、津波を乗り越える。喫煙所、上甲板への立入りを禁止する。総員、衝撃に備え」
このマイクで、艦橋は静まり返ったかに思えた。直ぐに海曹の一人が、「何だよこれは」と誰にとも無く問い掛けた。不安と云うのは伝播する物だ。そうする事で、群れを危険から遠ざけるのだ。然し、それは独特の社会を形成する人間にとって、却りて危険に没入させるものとなっている。だが、不安の伝播を誰も止める事は無かった。抑、伝播せずとも皆、不安を抱いたからだ。40メーター。平均的なビルの13階に相当する、壁と形容すべき波が眼前に迫っているのだ。並の人であれば、不安にならない訳がない。寧ろ、恐怖すら覚えるものだ。
「間も無く、乗上げる! 良し、俺がやる」
波に乗上げる既の所で、信号長が舵輪を握った。
艦首から水飛沫が上がる。同時に、対水速力が急激に落ちた為、慣性に体が引っ張られる。波の打つかった衝撃で、人間で言う肋骨の様な役割を担うフレームや背骨の様な役割を担うキールがしなり震える。転倒して頭を打つ者迄現れた。砲雷長が気付いてた時には既に、艦首は海に咥えられていた。
「見張り引け! 最大戦速! 船務長! お前がやるんだよ!」
「え、あ、はい!」
船務長は1尉だ。しかも、部内出身の幹部で、自衛隊歴は長い。そんな彼でも、目の前の信じられない事象には、つい傍観者となってしまうのだ。
殺伐とした艦橋の、サッシュドアが開いた。開けたのは、作業服でも戦闘服でもない、私服を着た少女だ。船乗りでも、そうそう体験する事の無い荒波を進む艦内を歩いた彼女は、身体の数箇所の痣が出来ている。彼女は、艦橋の窓越しに見える津波よりも、父の動転した姿が目に入った。普段、見せ掛けでも冷静にしている父を見た娘は、心配するのが普通だ。
「パパ?」
呼ばれて漸く、彼は娘が艦橋にいる事に気付いた。目が合うが、何時もとは違い彼女は目を逸らさなかった。その怯え震える瞳は、確りと父を見据える。
「鏡花……」
今日は、目を逸らしたのは父の方であった。
状況は刻一刻と変化して行く。波に埋もれた様に見える艦首は、復元力に従い勢い良く持ち上がる。今度は、飛行甲板のある艦尾が沈み込みそうになるが、艦は案外浮力が高い。艦が安定した頃には、50、いや60度程艦首が上に向いていた。転勤元が潜水艦の水雷士以外は、この様な傾斜を艦で経験した事が無い。皆、思わず声を上げてしまう。
「ソーナー、反響音探知」
普段、訓練でしか聞かない文言が、何の前触れもなく艦橋に届いた事で懐疑的な声で溢れた。
「ソーナー室に確認を――」
「目標は、潜水艦らしい」
確認するよりも先に来た続報でさっき迄、右半分が赤、左半分が青の覆いが掛けられた椅子にどっかりと座り込んでいた艦長が、この傾斜を諸共せず立ち上がった。航海機器に摑まりながら、警報機や電話等が集まる艦橋後部の壁に向う。そっちには、艦橋の艦内へ通じるサッシュドアがある。
「配置に就けろ」
艦長は、迷う事なく言った。これが、訓練で身に付いてしまった反射なのか、艦長の入隊動機からのものなのか、知るのは本人のみだ。
これに答えるべき人間は、戦闘時、攻撃指揮官となる砲雷長だ。
「……了解! 対潜戦闘用意」
「教練対潜戦闘用意!」
砲雷長の宣言で、マイクで艦内に号令が行き届く。
「何ぼさっとしてる。CICだ」
砲雷長は、津波の方に注意してしまい空しか見えない前方を見ていた。艦長は、だから砲雷長にそう告げた。然し、砲雷長が留まるのを間違いと言う事は出来ない。何故なら、間も無く波に乗り上げる所だからだ。彼はそれを伝えると共に、号令の間違いを是正させる。
「艦長、そろそろ落ちます! マイクで、『総員、衝撃に備え』。後、『教練』じゃない。実際だ」
「先程の号令を取消す。対潜戦闘用意。繰返す。実際、対潜戦闘用意! 総員、衝撃に備え」
今は配置に就くより、艦が落ちる衝撃に備える事が優先事項としてある。もう既に、波の音は聞こえない。そして、艦橋から海面を望む事が出来なくなり、浮遊感も得て来た。
遂に、下に押し付ける力が体に加わると共に、艦首から滝を逆さにしたかのような波飛沫が上がった。「あさひ」は傾斜しつつ1甲板、詰り露天甲板が海面と同じ高さ迄下がって、甲板に海水が流れる一歩手前となった時、徐徐に艦が安定し始めた。
只でさえ、次に配置に就かなくてはならないというのに、間髪入れず更なる状況が付加される。艦橋にある浸水警報が、鳴ったのだ。
「防水! 浸水警報! 各部、急速探知始め!」
「浸水箇所報せ……了解」
「浸水! 第1防水区画。海水管が破裂している。精密探知始め」
訓練の賜物か、航海指揮官の許可が必要な号令以外は、何も言わずとも曹士で物事を進められている。
「魚雷音聴知!」
「くそ! 配置に就けれんな! 回避運動始め!」
ドアに手を掛けて迄居た艦長は、もう配置に就くのを諦め、艦橋で指揮を取ることにした。
読んでくださりありがとうございました。
こんなに書いておいてあれですが、これ、実は海上自衛隊の小説ではないのです……。