27.***荷葉***
妻にしてくださると仰った。その言葉を大切に胸に抱き締め、いつ訪うかも知れぬ男を待ち続ける。庭の木々を整え、鮮やかな衣を纏い、褒められた黒髪を梳った。
漂う香は、もともと臭い消しが発祥だ。それは風呂に入る習慣がない平安の世において、貴族の身だしなみとして最低限のことだった。洒落た者は特殊な調合をした香を使い、残り香で訪ね人を当てる者もいる。
この場に焚かれた香は季節外れだった。冬の季節に夏の香を焚きしめるのは珍しい。「荷葉」は蓮に似たすっきりした香りが特徴だが、貴族ならば好みより季節を優先して焚くため、冬は使用しない。
伏籠で衣に焚きしめた香は、部屋の中に広がって染みついていた。
姫君である女性が奥の几帳より手前に姿を現す。その意味が分からぬ真桜ではなかった。彼女は薄情な男を待っているのだ。心変わりした男を待ち続けていた。
美しかった身が窶れるまで、文字通り身を削ったのだろう。心を傾けて、すべてを捧げたのだ。女房が香を変えないのは、彼女がもう永くないと悟ったから。
『真桜』
声を顰めて注意を引くアカリが首を横に振った。もう助からない。助けられる段階にないのだと、光神の眷属は淡々と告げて目を伏せた。
「わかってる」
理を曲げる気はない。世の流れを妨げて、彼女を助けるほど同情していない。それでも、哀れに思う心は殺せなかった。
胸元から取り出した札に、左手の指を噛んで血を滲ませて呪を書く。息を吹きかけて呪を身に纏った。ひとつ深呼吸して、唇の動きで祈りを紡ぐ。
「藤之宮様」
踏み出した真桜は、できるだけ穏やかに声をかけた。
「ああ……やっと」
枯れ木のように細った指を伸ばす姫の前に歩み寄る。簾の前まで引き出した畳の床に横たわる彼女と視線を合わせるため、敷かれた石に膝をついた。顔を近づけると、隈がくっきり現れた姫は必死に笑みを浮かべる。
「長くお待たせしました。貴き御身をお迎えするため手間取ったこと、お許しください。さあ参りましょう」
「私を…?」
「ええ。荷葉を焚きながら、夏から訪いをお待ちくださったのでしょう?」
術は真桜の上に恋しい男の姿を写しだした。背後に月を背負った真桜が手を伸ばす。その手を取った姫の指から力がぬけた。
するりと衣を一枚脱ぎ捨てるように、姫は立ち上がる。藤之宮家の女主人は美しい黒髪を裾まで垂らし、合わせた鮮やかな衣を翻し、彼女は悠然と微笑んだ。在りし日の美しい容姿は、凛とした立ち姿と相まって、帝の血族としての誇りに満ちている。
彼女はひとつ頷くと、月光に溶けるように消えた。かつての白魚のような指を最期まで絡めて、浄化された魂が昇る。見送る真桜が身を起こし、枯れた指をそっと床に戻した。




