13.***雅音***
ぼんやりと月光が届く庭で、山吹は愛用の笛を鳴らす。金に近い柔らかな髪が揺れるたび、美しい音が響き渡った。誘われるように月が雲をのけて光を降らせる。
姿を隠す御簾の中から、笛の音に重ねた琴が穏やかな旋律を絡めた。菫色の美しい瞳を持つ青葛の君が奏でる琴の弦がぷつりと切れる。旋律が途絶え、悲鳴じみた耳障りな音が場を荒らした。
「…っ」
「瑠璃、手を傷めなかった?」
普段は秘められている真名で呼ばれ、青葛の姫は慌てて返事をする。
「なんともないわ」
少し震えた声に、彼女が強がりを口にしたと気づいた山吹は縁側から立ち上がった。御簾の向こう側は姫君の領域、勝手に入り込むことは出来ない。しかし宮中で最上位の帝に望めぬ場所はなかった。世話をする女房も下がらせた夜更けに、2人で過ごす帝と妻を邪魔する者はいない。
「失礼するよ」
返事を待たずに御簾の内側に身を滑り込ませ、袖で指先を隠した瑠璃の隣に腰を下ろす。じっと見上げる瑠璃の表情は、複雑な色を滲ませていた。
「手を見せて」
命令に近い言葉に従い、無言で左手を差し出す。弦をつま弾く右手を隠した彼女の態度に、山吹は苦笑いしながら言葉を付け足した。
「右手も」
諦めて両手を差し出すと、切れた指先に赤い血が滲んでいる。それを己の口元に運び、舐めてから口に含んで血を吸った。少し吸うと血は止まる。止血されたのを確認して顔を上げると、瑠璃姫の顔は真っ赤だった。
「ああ、その……大変申し訳ない場所に出ちゃったんだが……」
琴と笛の音で導かれた先に出た真桜は、目のやり場に困っていた。先導してくれる雅音に惹かれてたどり着いた先が、友人とその妻の濡れ場だと思わなかったのだ。まさか見せつけるためではあるまい。
照れて赤くなるほど初心じゃないが、視線を置く位置をさまよって畳の縁に据えるあたりは真桜らしい。続いて顔を見せたアカリはまったく気にせず「ふむ……」と呟いただけだった。
「あ、子供がくるから場所空けて」
遠回しにさっさと手を離して姫は奥に下がれと告げる。本来は成人していない子供は御簾の中に入っても許容されるが、帝の妻となれば問題視される可能性があった。そこに女房などの目撃者がいなかったとしても、子供はいつどこで話を零すかわからないのだから。
「わっ、わかってるわ」
慌てて御簾の内側で扇を広げて顔を隠す瑠璃と、行儀悪く舌打ちする山吹が距離を置いた。御簾の外、板の間に敷いた畳の上に座り直した山吹が「いいところだったのに」とぼやく。
「悪かったって。邪魔する気はないけど、呼び出しの音を奏でた後にオレらが来るのはわかってただろ」
付き合いが長いので遠慮なく言い返しながら、隣で腕を絡めるアカリの黒髪を撫でた。思っていたより時間を空けて、華炎と華守流が顕現する。彼らは道を通ってきたというより、召喚された形が近かった。主である真桜の霊力を追ったのだ。
「糺尾と藍人は?」
『しばらくかかるであろう』
「くーん」
なぜか子狐が飛び出す。
「まあ……」
驚きの声を上げた瑠璃が御簾の下から手を伸ばすと、糺尾は白い手に誘われるように近づいた。そのまま撫でられて寝転がる有様なので、どうやら狐の意識が強く出ているらしい。自覚がない分だけ藍人より危ういのだが、今回の主役は『白い子供』だ。
「黒葉は最後だろうから、次は藍人か」
「あの子供を宮中に戻してよいのか?」
アカリの不思議な言い回しに、眉をひそめて月を見上げる。月光が庭に降り注ぐのを見て、真桜は頬を緩めて頷いた。
「問題ないとさ」
月詠姫のお許しが出ている。そう告げれば、アカリは同様に夜空を見上げてひらりと手を振った。手元の小さな虫を払うような仕草で、この部屋に結界を張る。
「誰ぞや目を感じるぞ」
覗いている者の存在を示すが、アカリが行った術により遮られた視界に今頃腹を立てているだろう。遠見と呼ばれる、陰陽術のひとつだ。気づいて闇夜を展開しようとした真桜だが、先に動いたアカリが白い手で空中に文字を追加した。
聞き耳を立てる者も封じて、ようやくアカリは真桜の腕に素直に寄り掛かる。お腹を見せて転がる糺尾が、ぴんと耳を立てて黒い道に目を向けた。尻尾を振りながら近づいた彼を、歩いてきた白い髪の少年が抱き上げる。
「なんで糺尾が元に戻ってるのですか」
不思議そうな藍人の言葉に、真桜が何でもないことのように口を開く。
「夜道が恐かったんだろ」
「くーん、きゅん!」
遮ろうとして失敗した糺尾の鳴き声に、藍人が忍び笑いを漏らした。
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