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鏡の向こうに

作者: 神宮寺飛鳥

と、いうわけで。その場で設定を考え、その場で書いて見ました。

色々とごめんなさい!

 家を出て直ぐに、私の憂鬱は始まる。

 それは別に、このさんさんと降り注ぐ太陽の日差しがうっとうしいとか、朝独特の慌しさが気に入らないとか、登校する学生や会社へと急ぐサラリーマンが邪魔くさいとかそういう事ではない。

 憂鬱の原因は家を出たら必ず視界に入ってしまうある物が原因だった。勿論、それに憂鬱を感じるのは私の勝手なのだが。

 私の家の両隣には家がある。住宅団地なので当然の事だろう。私の家を正面から臨む右側に、私の憂鬱の原因があった。

 新しくもないし古くもない、どこにでもあるような一軒家。それは私にの家とも、私の家の隣の家とも、はたまたその隣の家とも全く同じ外観をしているのに、一々視界に引っかかっては私を惑わせる。

 勿論その家がおかしいわけではない。家そのものに憂鬱になっているとしたら同じものが並ぶこの一帯は地獄のように感じる事だろう。と、そんなどうでもいい事に考えを巡らせていると扉が開いてその向こう側から随分と綺麗な顔の男が姿を表した。

 私と同じ高校の制服に身を包んだ見慣れたその姿はかれこれもう十年以上の付き合いになる、所謂幼馴染と言うやつだ。未だに疎遠ではないが、かといって特別近しいわけでもない。隣に住んでいる以上顔は嫌でも合わせるし、近所づきあいという物も残念ながら存在するのだ。

 高校生と言う人種の殆どが制服という限られたファッションの中で何とかしてお洒落を体現しようとしているこの世の中で、そいつは全く飾り気が無かった。髪は真っ黒だし制服はきっちり着こなし、今時珍しくとても地味だった。

 いやまあ、地味なやつなんていくらでもいるが、あいつが何故その中で特別なのかと言うと、顔がとてもいいので格好が地味でも十分目立つ、という事だろうか。

 私はそうは感じないが、彼は巷で噂のイケメンだった。思い出の中の彼はいつでも地味というか控えめと言うか、どうにも言葉の少ない少年だった。

 そんな彼は私の姿を視界に捉えると朗らかな微笑を浮かべながら片手を翳して挨拶する。私はそれを無視して鞄を肩にかけ歩き出した。

「……気持ち悪い」

 世間で彼がイケメンなどと騒がれているのは彼の本性を知らないからだ。

 私はそれを知っている。だから彼をかっこいいとは思わない。むしろ女々しい……ああ、これこそ的確だ。女々しい奴だと思うのだ。

「無視は酷いんじゃない?」

 わざわざ文句を言う為に追いついてきたのか。小走りで追いかけてきたそいつは隣でにっこりと微笑むと、どうにも間の抜けた表情で隣を並んで歩く。

 私はそれを拒絶しなかったし、受け入れもしなかった。一定の距離を空けては淀み無く歩みを進める私たちのこの姿こそ、距離感を現して止まない物なのだろうと思う。

「……くさい」

 私の呟きに彼は首をかしげた。

「香水くさい」

 今度はハッキリと。確実に伝わるように言い放った。

 彼は何とも言えない、歯切れの悪い笑顔を浮かべる。いつもそうだった。私が何か言った所で、こいつは全然話なんて聞いちゃいないのだ。

「ごめんね」

 リアリティの無い言葉を聞き流す。漏れた溜息は恐らく彼の所為ではない。


 ただそれは、そう。きっとこの現実を良しとしている、自分自身へ向けたものなのだから。



鏡の向こうに



「今日も仲良く登校とは……見せ付けてくれちゃって〜!」

 教室に入った瞬間、クラスメイトのそんな言葉が出迎えてくれた。

 私の隣には相変わらずあいつが立っている。同じ高校の同じ学年の同じ教室が目的地なのだから、並んで歩いていれば当然こうなる。

 クラスメイトを無視して席に着き、鞄を投げ出して溜息を漏らす。ついてきた彼女は私の隣に立つと頬をにやけさせながら囁いた。

「ねぇねぇ! 結局どういう関係なのよ? ただの幼馴染ってわけじゃないんでしょ?」

「ただの幼馴染以下じゃない? ろくに口も利かないけど、私」

「またそんな面白味の無い返答を……。ねー、あんた好きじゃないんならあたし狙っちゃってもいい? 絶対うちの学校で一番カッコイイって、彼!」

 またそんな面白味の無い……。それを言いたいのはこっちのほうだ。私に言わせればあいつのどこがいいのか逆に利きたいくらいである。

 見た目が良くても物静かで面白みもないし、友達も全然居ない。そもそも社交性というものが著しく欠如しているのだ。一緒にいて楽しいわけが……ましてや彼氏などにして長続きするわけがない。

 事実あいつはこの高校生活の数年間で付き合う事になった女性全てと短いスパンで破局している。その理由を知っている身としては全く以って彼をお薦めは出来ないし、むしろ止めておけと注意してあげたいくらいである。

「あんた、結構前から同じ様な事言ってるけど本気? 止めといた方がいいよ、あいつだけはマジで」

「な〜んでよ〜? 別にあんた付き合ってるわけじゃないんでしょ? 確かにちょっと暗いけど……でもそれだけでしょ?」

「絶対やめといた方がいいわよ。あいつ、女装癖あるから」

「へっ?」

 素っ頓狂な返答に思わず笑みが零れる。どいつもこいつもこれを聞けば同じリアクションをする。

「えっと……? それはひょっとしてギャグで言ってるのかな?」

「本気と書いてマジと読むのよ。それでも付き合いたい?」

「え……? えぇえ〜……? いやいや、似合うんだろうけど……いや、えぇ〜……?」

 本気で悩んでいるのか、両手で頭を抱えている。その滑稽な姿に苦笑を浮かべていると教師が扉を潜って教室に現れた。

 逃げるように席へと帰っていくクラスメイトを視線で追うと、結局悩みを振り切れないのかホームルームの間彼女はずっと頭を抱えてぶつぶつと独り言を繰り返していた。

 正直な所、私も社交性は微妙なところがある。他人に自慢できる様なものではないし、正に人の事は言えない、と言ったところだろうか。

 クラスメイトの中でも交流があるのは先程の彼女を含めても数人、片手で数えてもお釣りが来るだろう。尤も、それでもあいつよりは友人が居ると胸を張って言えるのだが。

 窓辺の席で教師の声など存在しないかのようにぼんやりとグラウンドを眺めている姿は案外様になっている。けれども私はその寂しげな姿を見ているとどうしようもない苛立ちの様な感情に支配される。

 何故そうなるのかは判らない。ああ、不幸だ。不幸だと思う。あいつと関わるとろくな事が無い。ろくな事が無いと分かっているくせに、結局目で追っている自分が居る。

「そこ。先生の話ちゃんと聞いてるのかな?」

 教師が私の名前を呼ぶ。余りにうっとうしくて思わず睨みつけてしまった。彼は全く悪くないというのに、申し訳無さそうに眼鏡をいじってたじろぎながら話を進めていた。

 何だか少し申し訳の無い気持ちになる。そういうつもりはなかったのだが……ああ、不幸だ。不幸だとも……。

 それから一日、私たちは同じ空気を吸って生活する。同じように勉強し、同じように弁当を食べ、同じように帰宅するだろう。

 クラスメイトの彼女は結局彼と付き合うのは諦めたのか、昼休み中ずっと浮かない様子で私に愚痴を零していた。

「あの人さぁ。いっつも窓の向こう見てるよねぇ」

 というのは彼女の言葉だ。しかし私はそれは間違いだと思う。

「見てないんじゃない? 窓の向こう側は」

 そう答えながら白米を口に放り込む私に彼女は首を傾げて問う。私もまた、視線を彼へと向けて首を傾げた。

「窓の向こうは見てないって、じゃあどこ見てんのさ〜?」

 私は答えなかった。それを無視と受け取ったのか、いじけた彼女は私の弁当箱からたこさんウインナーを強奪し、口へと放り込んだ。

 そんな不幸な昼休みが終わり、放課後。意図してあいつとは違う時間に教室を出て、それから自宅へと真っ直ぐに帰宅した。

 それは私にとってはごくごく当然の事である。行きも時間をずらせばあいつとは遭遇しないのであろうが、わざわざ貴重な睡眠時間を削ってあいつの為に早起きをするのは……なんというか、負けた気がして悔しい。だからといって遅らせれば遅刻ギリギリで走る事になる。ダブルバイント、という奴だろうか。

 帰宅してリビングに入り、ソファの上に鞄と両足を投げ出して息を吐く。両親は共働きなので家にはまだ私一人。夕暮れの日差しが差し込むリビングの中、横になれば直ぐにまどろんでしまう。

 夢という程の夢では無いが、私は記憶の中の景色を眺めていた。何時間も見ていたのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。夢独特の矛盾した時間感覚の中、幼き日の記憶を手繰り寄せる。

 まだ私たちが小さく、いつでも一緒に居た頃。私とあいつには姉と呼べる人物が居た。

 彼女は私たちと同い年だったというのに、どこか大人びていて。いつでも少しだけ輝いて見えていた。それは多分私だけではなくて、あいつもそうだったのだろうと思う。

 黒い髪にきっちりした服装。良く言えば真面目、悪く言えば地味。今のあいつと全く同じくそれでも美しかった彼女はいつでもどこでも人気者で、私やあいつが持っていないものを全て持っているような気さえしていた。

 どれくらい彼女の事を想っていただろう。自分が眠っている事を意識し、覚醒するのに時間はそれほど必要なかった。相も変わらず差し込んでいる紅の光に時が進んでいない事を認識し、額に手を当てる。

 するとどうだろう。まるで見図ったようなタイミングで呼び鈴が鳴った。嫌な予感を覚えながらも私は立ち上がり、玄関のドアを開いた。

 そこにはつい先程まで私が思い夢見ていた彼女が立っていた。これまた相変わらず地味な服装で、柔らかな笑顔を浮かべて。

 しかしそれが彼女ではない事を私はとっくの昔に理解していた。深々と溜息をついた後、私は『彼』を家へと招き入れる。

「……で、今日は何?」

「うん。君の制服を貸して貰おうかと思って。『彼女』ならきっと、そうしたでしょ?」

 その声は中性的ではあったが、当たり前のように男の物だった。そう、『彼』は隣の家に住んでいる、私が憂鬱な気分になる原因そのものなのだから。

 と、いうか。平然と幼馴染の女子の制服を借りたがるこいつの神経はどうなっているのか。以前に下着を要求された時は本気でぶん殴ってやったものだが、そこまでやらんでもいいだろうと説得したところ素直に聞いてくれたので今では拳は控えるようにしている。

 何、それに比べれば制服くらいなんて事はない。たった今着用しているこれじゃないか。大丈夫、私は冷静だ。冷静だとも。

「……とりあえず、座ったら? 何か飲む?」

「んー、平気。でもありがとね」

 無邪気に笑う姿が可愛くて腹が立つ。顔が熱くなった気がして前髪を指先で捻り、背を向けた。

 彼は彼女に良く似ている。似ているなんてものではない、瓜二つだ。それもそのはず、彼と彼女は双子の姉弟だった。

 幼い頃から『姉さん』と彼が呼んでいた彼女を、私も気づけば『姉さん』と呼んでいた。それに相応しいだけの姿を彼女は私たちに見せ付けてくれたし、その姿がいつでも心の支えだった。

 彼女がこの世界から居なくなったのは今から三年も前の事だ。交通事故で命を落とした彼女の死を誰よりも悲しんだのが、多分今正に目の前で女装をしている変態だったのだと思う。

 私も勿論さんざん泣いた。泣いて泣いて泣きまくって、自分でも悲しいのかどうかわからなくなった頃、気づけば私はこいつを遠ざけていた。

 それまでは多分、学園ラブストーリーも冷や汗物なくらい私たちの関係は良かった。彼女が居たからこそ、私と彼は繋がっていた。

 多分それは、結構歪んだ関係だったのだと思う。私も彼も、お互いの存在を見ては居なかった。私たちを繋いでいた、彼女を見ていたのだ。

 彼女が居なくなり、私たちの関係は一変した。私は彼を遠ざけたし、彼も必要以上に私に近づく事は無くなった。その程度の関係だったのかと言われれば、ああそうだったんだろうねと言う他無い。

 そんな私たち二人が恐らく唯一言葉を交わし、心を交わす瞬間。それが彼が女装をしている時……。『彼女』の姿をしている時だけなのだ。

 女性の格好をした彼は恐ろしいほどに彼女のそれに酷似している。彼の言う通り、彼女だったら私たちと同じ高校に入っただろう。だからこそ、この制服を着ている姿の彼は、きっとあるべきはずだった彼女によく似ている。

 そう考えると私はそれを見てみたいと思った。思ってしまう自分にうんざりしながら、自室で制服を脱ぎ、私服に着替えてリビングに戻る。

「……どうぞ」

「これさっきまで着てた奴?」

「そうよ。だって新しいの出すのめんどくさいし」

「……君がいいなら、僕は構わないけど……」

 何か言いたいのだろうか。苦笑を浮かべる彼は制服を手に私の部屋に移動していった。

 これももうなんというか恒例なので私は何とも思わない。いや嘘だ、何とも思うが思わないようにしている。以前目の前で着替えを始められた時、パニックに陥った私が『私の部屋で着替えろ』と叫んでしまってからというもの、彼は素直にそれを聞き入れて何も言わずとも私の部屋でお着替えをするようになった。なんともお利口な事である。

 こんなところを両親に見られでもしたらなにやら様々な誤解を生む気がするが、どうせ彼らは家には寄り付かないので問題ない。ソファの上に座って時計の針が時を刻む音に耳を傾けていると、階段を下りてきた彼が隣に座って微笑んだ。

「似合う?」

 と、言われれば勿論似合っている。私が多分一緒に彼女と着るはずであったであろう制服を、彼が着ている。

 少しずれた長髪の鬘を直し、ネクタイを締めなおす。そうしている内に気づけば自然と瞳から涙が零れ落ち、何とも言えない悲しさに全身が支配された。

 涙が流れ、止まらなくなるのに私はちっとも表情を変えなかった。彼はそんな私を見て、彼女が以前そうしてくれたように頭を撫でては抱き寄せてくれる。

 心の底から安心して何も出来なくなる自分が酷く苛立たしく憂鬱だった。涙が止まるまで『彼女』は私をそうして抱きしめ、それから立ち上がると窓辺に立って遠くを眺めていた。

 でもきっと彼が見ているのは窓の向こう側にあるものなんかじゃない。彼が見つめているのは。彼が想いを馳せているのは。

「…………姉さん」

 涙は流さなかった。彼は硝子に映りこんだ自らの頬を撫で、消え入りそうな声でそう呟いた。


 確かにそう、呟いていた。



 とてもとてもぶっちゃけた話をすると、私は彼女の事が好きだった。

 愛していた、と言えばもっとストレートな話になるだろう。自分で言うのもなんだが、私は女の子なのに女の子を本気で好きになってしまった馬鹿な奴なのだ。

 その事実に一時恐ろしく悩んだ。寝る間もなく一晩中彼女の事を考えていた翌日は自己嫌悪で彼女の顔を直視出来なかった。

 今思い返すだけでも胸の奥が熱くなるような、切なくなるような……言葉に出来ない恋の痛みが蘇る。恋の痛みなんてそんな言葉、私には恐らく似合わないのだが。

 だから彼女が死んでしまった時、私はこの世が終ったような絶望感に支配された。姉だと慣れ親しんでいた人が。密かに恋心を抱いていた人が。私の人生の多くを共に培ってきた存在が、消えてしまったのだから。

 彼女は死んだ。もう居ない。何度も繰り返し自分に言い聞かせ、それすらも飽きる程の時が過ぎた今、それでも私は彼女の影を乗り越えられないで居る。

「…………はあ」

 だからそう。この憂鬱な気分は絶対にあいつの所為なんかじゃない。

 悪いのはあいつじゃない。あいつの姿に一々彼女をダブらせている私の方なのだから。

「だからって、何で学校に来なくなるかな……」

 これでもう三日目。誰も座る気配のない主を失った教室の一つの席を見つめ、私は盛大に溜息を零す。今日これで何度目か判らない特大サイズだ。

 あの制服を貸してしまった夕暮れ時からあいつは少し様子がおかしかったように思う。制服は脱いで帰ったものの、どこか上の空で何も瞳に映していないかのような、そんな言葉に出来ない危うさを抱えていた。

 それがわかっていたくせに家に普通に帰しやがった私は本当にどうしようもない。分かっているはずなのに。彼女を失った悲しみも、その影を未だに追っている無力さも、それをお互いに止める事が出来ない意気地の無さも……。私たちはきっと共有しているのだから。

「すっごい溜息。いっつも憂鬱そうな顔してるけど、最近は溜息のバーゲンセールだね」

「その言い回しちょっと面白いかも……」

「……本気で参ってる? あんたが褒めるって……かなり参ってる証拠だよね?」

 あんたは私をなんだと思っているんだ。

「悩みがあるなら相談しなさいよ〜。恋? 恋なんでしょ?」

 うっとうしい言葉に彼女の姿が脳裏を過ぎる。

「恋……かもね」

「……って、マジで恋かよおっ!? ら、らぶですか!? らぶなんですかこのやろうっ!!」

「あーうっとうしい……。帰るわ、私」

「あーもう、すぐ怒る……。ねえねえ、ホントに悩んでいるんだったら、ちゃんとしたほうがいいよ」

 鞄を手に取り振り返る放課後の教室。頭の悪そうなクラスメイトは思いの他理知的な笑顔で私に語りかける。

「いつかのどっかに、自分の心を置き去りにしてきました……って、そんな顔してるよ? あんた」

 その言葉は割と冗談抜きでかっこよかった。白い歯を見せて親指をぐっと立てる友人に片手を挙げて答え、私は教室を後にした。

 自然と早足になり、駆け出した夕暮れの帰り道。自分の家には帰宅せず、直接憂鬱を振りまく家へと急ぐ。

 呼び鈴を連打しても返事が無いので玄関に手をかける。鍵はかかっていないのか、扉は平然と開いた。思えばあいつは今この家に一人暮らし中なので、あいつが鍵をかけない限りは出入りも自由であり、付け加えればあいつは出かける時鍵をかけないという無用心な性格をしていた。

 靴は確かに玄関にある。在宅を確信し、勝手に家へと上がる。自宅と外観は同じはずなのに、そこには過去の思い出が沢山溢れていた。

 目を細めれば目の前を駆け回る私たちの姿が見えるようで、強く胸が締め付けられる。ふと、あいつはこの思い出の中で埋もれるように生きていたのかと考えると言葉に出来ないような切ない気持ちで胸が一杯になった。

 私がここに居たならば。多分思い出に溺れ、溺死してしまうだろう。誰に傷つけられるでもなく、誰に言われるでもなく。自分自身の胸の内から溢れた思い出に、勝手に溺れて死んでしまう。壊れてしまう。きっと、何もかもが。

 思い出を頼りにあいつの部屋に移動する。そこは無人だった。私は直ぐに引き返し、彼女の部屋だった場所に向かった。

 彼女の部屋の扉を開くのには勇気が必要だった。けれど私を急かす得体の知れない焦燥感は迷う時間さえ与えず、扉は容易に開け放たれた。

 馬鹿は女装したままで鏡の前で膝を抱えていた。鏡台の上、今はもう居ない彼女の姿を映し出す鏡を見つめる虚ろな瞳がゆっくりと私を捉える。

「…………何してんの? 学校は?」

「ああ……君か。いや……何だかね。色々と、どうでもよくなって……」

「どうでもいい? 何が?」

「うん。まあ……何でもない。もしかして心配かけちゃったかな? ごめんね」

 いつも通りのその言葉自分でもわからない部分に引っかかり、自分でも理解出来ない怒りがこみ上げた。

 それはいつの間にか鏡の向こうに移りこむ彼女の寂しげな笑顔に向けられていた。拳を握り締め、震えるそれを大きく振り上げる。

 鏡面を砕いて世界に皹を刻み込むかのように。私は拳を叩きつけていた。滲んだ血が鏡を汚し、彼女の姿を汚して行く。

「……いい加減にしろ、馬鹿っ!!」

 気づけば私は彼の胸倉を掴み挙げていた。

 彼は目を丸くしている。私だって丸くしたい。私は一体何をやっているのか。訳が判らないまま、部屋の中にあった椅子を掲げ、部屋を飛び出した。

 それから洗面台の。あいつの部屋の。風呂場の。鏡という鏡を叩き割って歩いた。自分でも訳の判らない叫び声を挙げながらキャスターのついた椅子を叩き込み、滅茶苦茶に砕き割った鏡を更に叩いて潰し、肩で息をしながら私は走った。

 その鬼のような姿を彼は表情一つ変えないままにじっと見つめていた。私はそれに気づいていたが、醜い自分の行動を止めることは出来なかった。

 やがてこの世界に『彼女』を映し出すものが何一つ存在しなくなった。窓さえも砕かれて無くなった中、私はへなへなと床の上に座り込む。

「はあ、はあ、はあ……」

 心臓が張り裂けそうなくらいに高鳴っている。自分で自分が判らなくなる。五月蝿い呼吸の音と心臓の音が世界の全てみたいになって、頭の中がぼうっとしてくる。

 ゆっくりと顔を上げた先、相変わらず鬘を被ったままの彼は私の手を取り、血まみれのそれにそっとハンカチを当てた。

 彼は冷静だった。冷静じゃなかったのは私の方だ。わけもわからぬまま勝手にキレて勝手に暴れまわって人様の家を壊してしまった。訴えられて当然の状況の中、顔から火が出るくらい恥ずかしくて視線を反らした。

「……いつまであの人の事追っかけてんのよ、あんたは」

 私の言葉を聞きながら彼は私の傷にハンカチを巻きつける。

「もう居ないのよ……。どこにも。どこにも居ないの。どんなに好きだって、どんなに大切だって……もう、戻らないのよ。願っても強請ってもそれは変わらない。『そこ』に『彼女』は、永遠に居やしないのよ……」

 彼は顔を上げ、寂しい笑顔を浮かべる。そうして私の頭を撫で、どうしようもないほど。悲しい笑顔で呟いた。

「…………そうだね」

 私の名前を呼び、彼は微笑む。それが本当にどうしようもなくて。どうしようもないから、私は涙を流した。

 子供のように泣きじゃくり、もうあの日枯れて果てて尽きたと思っていたそれは止め処なく。彼もまた、私の前で泣いていた。

 二人して涙を流して過ぎて行く時間の中、零れて行く雫の一つ一つに彼女との思い出が練りこまれているかのように、ゆっくりと自分の身体が軽くなっていくのを感じていた。

 多分私たちは二人とも叶わぬ恋をしていた。叶うはずのない恋を続けていた。

 でもそれはきっと自分たちで生み出してしまった呪いに他ならないから。彼女がそれを望んでいたとは絶対に思えないから。

 私たちは自分の中でそれに折り合いを付け、彼女以外の世界と向き合わねばならなかったのだと思う。

 ああ、そりゃそうだ。

 そんなことはもう、ずっと前からわかっていたくせに。

 日が暮れた後、普通の格好に戻った彼と私は近くの公園に居た。

 もう乗ろうにも足がついてしまって遊べない小さなブランコに座って私たちは同じ物を見ていた。

「……何か、ほんとごめんね。僕の所為で、凄く心配かけちゃったよね」

「し、心配はしてないけど……。ただ、見てるといらいらするのよあんた。すっごい、いらいらするのよ」

 それが自分の姿そのものだからという理由は話したくなかった。でも彼にはきっとそれさえお見通しで、私は前髪を指先で弄り、視線を反らした。

「僕はね。姉さんの事が、好きだったんだと思う。多分、彼女以上に他の人を愛せる事がないくらいに」

 多分それは告白だった。私は黙ってそれを聞き届けた。彼は少しだけ照れくさそうに微笑んで、それから首を傾げる。

「君も、そうだったんでしょ?」

 真実はお見通しだった。認めたくは無いが。負けたような気がするが。それでも私は小さく頷いた。自分の気持ちにだけはきっと嘘がつけないから。嘘をついてはならないのだと思うから。

 それから私たちは昔の事を語り合った。お互いの中の、彼女の思い出を補完するかのように。私が知っていて、彼が知らない事を。彼が知っていて、私が知らない事を。

 恐らくそれは、私たちそのものを伝え合う事だった。彼女を介して繋がっていた私たちは、自分の言葉で彼女を伝える事を知った。

 夜中になるまでブランコを揺らし、思い出を語り合う私たちはどうにも大人ではなくて。きっとまだ子供のままで。みっともなく、初恋を引き摺ったままで。

 二人してまるで何事も無かったかのように帰路に着き、家の前で別れ、そうして少しだけ世界は変わった。



「おはよう」

 それからの私たちは、変わったと思ったのに結局相変わらずだった。

 私は相変わらず彼女のことが好きなままで、あいつも多分それは変わらない。

 家の前で合流する憂鬱な朝も、教室で過ごす近くて遠い時間も。言葉を交わさず過ぎて行く時間も。

 そうして帰宅して家に入り、しばらくすると鳴る呼び鈴も。相変わらず女装癖が抜けず、彼女の姿をした彼の存在も。それを受け入れては着せ替えを手伝っている私の気持ちも。

 ただ、彼の家の鏡は全て割れたままで。私も鏡は捨ててしまった。窓は勿論修理したけれど、彼は今は窓に映った自分ではなくその向こうにある景色を見ているのだと思う。

 彼の女装癖は多分、しばらくはこのままだろうと思う。それでも仕方が無いと思ってしまうのは、私の心のどこかに余裕や安心の様な物が生まれたからかもしれない。

 日々を重ねる上での苛立ちや憂鬱は少しばかり弱まったように思う。結局のところきっと私はこいつの事が心配で、そして自分の姿と重ね合わせて苛立っていたのだろうから。

 目の前で制服を着て微笑む彼は私の瞳を覗き込む。鏡が存在しなくなったこの家の中、彼と私が彼女の思い出を映し出す事が出来るのは、私の瞳だけだから。

「あのさ」

「何?」

「抱きしめてもいいかな」

 当たり前のように笑う彼に思わず胸が痛くなる。

 私は視線を反らしながら両手を広げる。彼は私の身体を抱きしめ、私は目を閉じて彼の背中に腕を回す。

 瞳を閉じれば私たちは私たちでしかない。瞳を開けてもそれはきっと変わらない。それでも他の何者にもなれず、どうやったって過去を変えられない私たちはこのままの自分で生きて行くしかない。

 いつかそれが咎められ、誰かに笑われる事になったとしても、逃げる事は出来ない。当たり前のようにここにある現実が、今の私たちを繋いでいる大切な気持ちだから。

 抱きしめているのは彼女なのか、それとも彼なのか。彼もきっと同じ疑問に囚われていることだろう。それでもいいと思えるのは……多分そう、甘えなのだろう。


 確かに憂鬱は終わりを告げたけれど。

 今度はあの頃とは違う、新しい憂鬱が幕を開けるような。そんな予感がしていた――。


 倒れた写真立ての中で、私たちは三人で笑っていた。その写真の上に二人だけの写真を重ねるのは、遠い日の事ではなさそうだ。


女装ってどうなんでしょうか。

思いついたから書いてしまったものの、実際にやっているやつがいたら気持ち悪い気もします。

でもこの間テレビでイケメンが女装しているのを見て『うわすげえ女の子にしか見えない!』ととってもビックリしたところなので、まあきれいな男の子がいてもいいんじゃないかな!

それにしても何がしたかったのかわかんないですね。


というわけで、読んでくれてありがとうございました。かしこ。

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― 新着の感想 ―
[一言] とても良いストーリーでした。 次回作にも期待します。
[一言] 文章的にはものすごく惹かれるのですが、どこか同じ調子のまま終わってしまった感じ…。文はステキなので、がんばってください。
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